第3話 志樹

 結婚をした時、私は二十八、妻は二十六だった。二人で住み、二人で過ごす生活は幸せで、週末は部活動でつぶれることも多かったが、お互いの体が空く時には、買い物に行くのも、部屋の掃除をすることだって楽しかった。長く、付き合っていることも内緒にしていたので、それまではずっと生徒の目を気にしたりして、映画を見るにも随分遠くまで出かけていたし、デートも車で遠出することが多かった。結婚してやっと、一緒に近所を散歩し、二人で近くの店で買い物をすることが出来るようになった。それまで欠け落ちていたたくさんのピースを、一つ一つはめて行くようで、そしてはめて行かなくてはならないその欠片たちはまだ無数に籠の中に入っているようで、私たちは、次は近場のキャンプ場でバーベキューをしよう、次は評判のあの店で食事をしようと、それらを紹介する雑誌などを買って来ては、あちこちに印の紙を貼り、何度も見て見慣れたページを見比べながら、どっちがいい?といつまでも相談していたりした。籠に残った欠片が無くなるまでは、そんなことを続けているつもりでいた。

 けれども、職場にいた先輩教師には、不妊で悩んでいる人が二人いた。不妊に気づくまでに随分時間がかかった。不妊治療は大変だ。その気になって子作りに励んでいるつもりだけれど、十年間、まったく妊娠の兆候が無い。四年前から治療も受けているが、効果がなかなか出ない。結婚前、私も妻も二人が話すそんな話の断片を、何度か聞いていた。テレビや新聞で不妊カップルが増えているということも頻繁に目にしていた。

「なかなか出来ないそうだしなぁ。」

と、私たちは早々に避妊を止めていた。けれども、その年の秋には、妻の体にその兆候が表れた。

「早過ぎるよなぁ。もうちょっと二人で遊びたかったよなぁ。」

と、私たちは、先輩たちの経験談に焚き付けられるようにして妊娠を急いだことを悔いた。けれども、これもまぁ運命かなと、観念した。

 妊娠がわかると、妻は早速出産の準備を始めた。彼女は、紙おむつを嫌がった。今時そんな人、いるの?といぶかる私に、

「いてもいなくても、私はそうする。」

と、妻はせっせと木綿を買い込み、暇を見ては少しずつおしめを縫った。ミシンも使わず、一針一針手で縫った。生まれたら必ず母乳で育てる、とも決めていた。そのために必要な知識をあれこれ調べ、本を買って来てよく読んだ。母になって行く自分を、彼女は自分で作り上げていっているようだった。ただ産めば母になるわけではないんだ。ちゃんとお母さんにならなくちゃ。私は、そんな彼女の姿に、心の内のそんな呟きを聞いてるような気がした。

 古風な人だな、君は。今時、そんな女性、そうそういないよ。

 私は、彼女を妻に選んだことを、改めて正解だったと思った。そんな人に巡り会わせてくれた運命に感謝をした。布のおしめも母乳も、全然お洒落じゃないけれど、そんなことを気にしない、そんな人が私は好きだった、

 そのくせ、妻は、子供の名前は、

「任せるね。」

と、私に丸投げした。

「いいの?」

と、聞くと、

「私はこっちに専念するから。」

と、縫い針を動かした。

 逆に、生まれてくる子供のために私に出来ることは、それしかなかった。以来、私は、通勤の最中も仕事の合間も、そのことばかり考えていた。命名の本などは買わなかった。姓名判断の運勢の本も見なかった。「名前の付け方」なんて、馬鹿馬鹿しかった。私が、あるいは私と妻が、子供に何を願うか、何を祈るか、それだけでいいはずだと思った。

 けれども、生まれてくる子が男の子か女の子かもわからない。それぞれのパターンに応じて、二つの名前を準備するものだろうか。聞けば、そうしたという人もいたし、生まれてから考えたという人もいた。私は、時間をかけて決めたかった。そして、思いを込めて決めた名前のうちの一つを、最終的に捨ててしまうのは罰当たりなことのようにも思えた。名前って、親の思いの凝縮じゃないか、尊いものだよ。大事にしようよ。そんなこと、自分の名前には感じたことも無かったのに、いざ我が子の名前を付けるとなると、その重みはまったく違って感じられた。自分の親も、こんなに考えたのだろうかと、思いを返した。佐々木智一。ともかず。どんな経過をたどって、これに決めたんだろう。

「候補は、もうあるの?」

と、臨月を前にした頃、妻に訊かれた時、私は、まだ決めていないけれど、と言いながら、そんな話をした。

「男の子でも、女の子でも、どちらでも使える名前にしたいんだ。どちらでも、僕らの子供に望むことは同じでいいから。」

 そう、言った。

 実際に生まれた子供は女の子だった。

 産気がついてからえらく長い時間がかかった出産後、体が落ち着くと、妻は私に尋ねた。

「でさ、名前、何にするの。」

 秘密のクリスマスプレゼントの、包みを開けてとねだる幼い子供みたいに、妻は目を輝かせて、わくわくした顔をしていた。

私は、それをA4の紙に大きく打ち出して持って来ていた。名前って、音の響きだけじゃない。文字面の美しさも大事だから。毎度自分の名前を記しながら、うん、奇麗だなと、子供が思えるような名前にしたかった。

『志樹』

 そう大きく記された紙を、私は妻の前に見せた。妻は、ふうん、と言いながら、それを手に取り眺めた。私は、もう一枚、別の紙を見せた。

「一応、ブロック体で打ち出すと、こんな感じ。そっちは明朝。」

 ふふ、と彼女は噴き出した。

「そんなの、別に変わらないじゃない。」

「いや、でも、ブロックにしたらやけに固い感じがするとかさ。」

「考え過ぎ。変なとこ、こだわるよねぇ、いつも。他のところは大胆なのに。」

「そうか?」

「画数とか、そっちの方を考えるんじゃない?普通は。ブロック体の見栄えより。」

 おかしい、と妻はもう一度笑った。

「画数とか、全然見てないわ。調べてみる?」

「い・ら・ない。」

 ゆっくりと言葉を切り、妻はきっぱりと言った。

「そんなの、気にしない。ねぇ、」

と、私を見た。

「しじゅ、でいいの、これ。」

 読み方を確認した、

「ううん。しき。変かな。どう思う。」

 それが少し、気になっていた。人の名前として、音が、変じゃないかな。

「そっか。しき、か。しじゅって言い難いもんね。うん。・・いいと思う。かっこいい。気に入った。志を持ってまっすぐに伸びて行く木みたい。いい感じ。」

「そう?よかった。じゃ、・・これで決まりでいい?」

「うん。決めよ。ありがとう。」

 その後、周囲の人に赤ん坊の名前を尋ねられると、彼女は時にそんな説明を加えた。志を持ってまっすぐに育ちますように。ちょっと変わってるけど、他になかなか同じ名前の人はいない。そこがいいんだ。

「誰が考えたの。」

と訊かれると、妻は、その度に嬉しそうに、

「彼に一任。」

と答えていた。

 そう、あの頃はまだ、妻は他人前で私のことを、パパともお父さんとも旦那さんとも呼ばず、彼、と呼んでいた。

退院して、子供の出生届を書き終えた時、私は横に座る妻に言った。

「あのさ。」

「何。」

「結婚してくれて、ありがとう。」

 妻は、今聞いたその言葉を味わうように、少し間を置いてから、

「うん、」

と、答えた。私は、言えないでいたプロポーズをやっと自然に口に出来たような気がした。

 なぁ、志乃、またあの頃のように、共にバーベキューの場所をここがいい、ここはどうと、明るい日が差す窓辺の小さな食卓で、二人並んで朝食のパンを齧りながら、幸福な時間を過ごしたいな。こうして昔を思い出していると、そんなことを思う。鮮明に浮かぶ過去の断片は、時に、かなわないタイムマシンを欲しがる。年を取るということの、一番の証かもしれない。


 娘の名前は、佐々木志樹、そう決まった。

 けれども、その命名の由来について、私は結局、一度もちゃんと妻に説明しなかった。

 木のように真っ直ぐに、すくすくと。うん、それに越したことは無い。けれども、私は別に、真っ直ぐに進んで、真っ直ぐに育ってくれなくてもよかった。あちこちぶつかり風雨にさらされ歪んでも、途中でねじ曲がっても、それはそれで人生。却って一本杉のような真っ直ぐは怖いさ。いやまぁ、そんな人間も、それはそれで魅力的だけどさ。妻の生み出す勝手な解釈を聞きながら、私は心でそんなことも思っていた。

 けれども、そんな理屈を話し始めたら、妻はきっと言う。

「ん~、そんなごにょごにょ無くても、単純でいいよ。私、これで気に入ったもん。」

 そうだな。それでいいや。

 でもね、自分たちの子供に、どんな人になって欲しいかってずっと考えてさ、結局、俺、こう思ったんだ。

 志乃、お前のような人になってくれたら、それでいい。明るくって、無邪気で、時にやけにたくましくて、時に結構おっちょこちょいで、素直な割りに、一度言い出したら絶対に聞かなかったり。全部ひっくるめて、お前のような人になってくれたらいい。そして、木のように、大きくなってもずっと変わらずそこにいて、世の中に奇麗な酸素を吐き出すみたいなさ。生まれてくる子が、男でも女の子でも、そんなでいてくれたらさ。だから、お前の名前を一字取ってさ。

 正直に言ったら、彼女は何と言ったろう。

「わぁ、やめてよ、そんなの。それ、ちょっと責任重すぎるでしょ。」

 当時、私は、真剣にその反応を怖れていた。でも、どうしてもこの名前にしたかったんだ。あんなに考えて、一番嘘の無い思いで決めたのだから。

 だから、私は彼女の解釈を正したりはしなかった。志を持ってまっすぐに育つ子。うん。そんな風な考えがあっていい。というより、妻がこの名前にそんな思いを乗せて、これが良いと言うのなら、この子の名前に、そんな願いを込めてもいい。

 でもね、僕はね、ほんとはね、ただただお前みたいな子にね・・・。

 こんな風に、私が彼女に話せないでいたことは、いくつもあった。

 ん?

 ということは、彼女にもまた、きっと。

 そうなのだろうな。

 その後、随分長く一緒にいたけれど、君が、実は僕に話さないでいたこと。あるんだろうな。

ねぇ、それはどんなことだったんだろう。

 そっと、教えてくれないか。

 ねぇ。

 君はいったい、どんなことを、僕に内緒で思ってた?

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