第2話 生きてる
鼻を刺すような異臭に脳が犯される。
比喩抜きで異臭が引き金となり、おれは目を覚ました。ぼんやりとした感覚の中、肺が欲する空気を口と鼻から取り入れる。
しかし、その度に異臭が体内を犯し、嗚咽で涙が零れる。
「あぁっ!おぇぅぁぁ⋯⋯⋯⋯」
最悪な目覚めだった。
この異臭の元凶は目の前にいる悪魔。
蜷局を巻く蛇の下半身は太くて長く、老婆の上半身と比べると酷くアンバランスだ。
醜悪な悪魔はブチブチっと何かを食い千切るような咀嚼音を立てていて、老婆の口元からは赤黒い血が垂れている。
ぼんやりとした感覚は次第に鮮明となり、虚ろだった視界も明瞭なものとなる。
そしてやっと、目の前の悪魔が人間の腕を食べていることに気付く。見覚えのある腕だと思ったのは当然で、あれはおれの右腕だ。
「餌かよ⋯⋯おれは⋯⋯⋯」
身体は吊るされている。
社の中、身動きが取れないくらいの
右腕の感覚はない。
右腕を動かそうとしても何の反応も返ってこない。
社の中で吊るされ、社の外では悪魔がおれの腕を食べている。
これからゆっくり時間を掛けて食べられるのか。一思いに一口でいってくれればいいのに。
そんなことしか考えられないくらいには、今の状況は絶望的だ。
しかし、右腕の痛みを感じないのは何故か。
感覚が麻痺しているせいか。
もしかしたら、あの悪魔は毒を持っているのかもしれない。
辛うじて頭も上に向けられる。
身体を吊るす粘性のある糸は天井に付着している。音の発生源は糸と天井の接合部で、もう一度身体を揺らしてみると接合部の木板が捲れ上がった。
「逃げられないだろ⋯⋯⋯⋯」
ギギギッと天井が軋む。
不気味な静寂の中、悪魔の咀嚼音はやけに鮮明で、そのせいか、天井の軋み音すらも嫌にうるさいくらい大きく聞こえる。
まるで「逃げろ」と急かすように、軋音はおれの耳にまとわりついて離れない。
おれの右腕を咀嚼する悪魔が動いた。
肉塊になった腕を丸呑みし、血を被ったような老婆の顔がこっちに向けられる。
頬まで裂けた口から長い舌を何度か出し入れし、こちらに近づいて来ると思いきや、蛇の尾が上半身持ち上げ、見えなくなった。
蛇の尾がスルスルと社の壁を伝い、突き破られた扉上部から垂れる。
どうやら、腕一本で満腹になってくれたみたいだ。
とは言え、絶望的な状況であることに変わりはない。このまま何もしなければ食い殺されるだけだ。
社の外は茜色に染まり、陽の傾きを教えてくれる。坂を転げ回り、川に落下して気を失ってから随分と時間が経っている。
悠長に明日を待っている時間はないだろう。
逃げるなら今すぐ。
このままではどうせ死ぬだけだ。
でも、この状態でどう逃げ出すというのか。
頭では不可能だと理解している。
ただ、それとこれとは別だ。
訪れる死を待ちはしない。
どのみち死ぬ。
やらないで死ぬより、やって死にたい。
右腕の感覚はない。
左腕は背中側に回され、
両足は交差し、糸が巻き付いている。
ただ、巻き付く糸は上半身と比べれば圧倒的に薄い。
両足を擦るように動かすと少しずつ間隙が広がっていく。
覚悟は思ったよりも早くついた。
「んんぅぅんっっっっ!!!!」
両足を思いきり広げると同時に、全身を真下へ振り下げる。
ぶちぶちっと両足に巻き付いていた糸が破れ、バキッと一際大きな破砕音とともに吊るされていた身体が落下する。
自由になった両足で着地は上手くいった。
しかし、そんな音を上げれば当然、悪魔に気付かれる。
突き破った扉の上部から垂れていた蛇の尾が探るように社の中へ入って来た。
悠長にしている時間はない。
身を屈め、床を蹴る。
社を飛び出し、向かう先は鳥居だ。
呼吸すら忘れ、息を飲み込む。
氷水に飛び込んだような衝撃が全身を駆け巡り、恐怖が喉を締めつけ、吐き気すら覚える。
走り出した足は止められない。
社を出て、砂利を踏み締める。
背後からは悪魔の動く気配を感じる。
振り返る時間も惜しい。
鳥居だけを見据え、ただひたすら全力で走った。
「あぅぁぁぁっっっ!!!?」
しかし、結果は虚しく。
蛇の尾が胴に巻きつき、物理的に締めつける。
鳥居まであと少し———でもないな。
おれは悪魔に捕まった。
身体からバキバキっと嫌な音が鳴る。
そして襲うのは気が遠くなるほどの激痛だった。
蛇の尾に締めつけられ、左腕や胴回りの骨が折れたのだろう。折れても尚、締めつける力を弱めないので、本当に気絶してしまいたい。
「はぁぁ………はぁぁ………」
痛みで呼吸が上手く出来ない。
肺が破裂したのか。
開いた口から空気が漏れ出す。
視界が揺らぐ。
足が地を離れ、目の前に現れるのは醜い老婆の姿。
真っ黒に染まった眼光は鋭く、頬まで避けた口は血に濡れている。汚泥のような唾液と鮮血が混ざり合い、手斧で割ったはずの額には傷一つ見られない。
おれは悪魔狩りじゃない。
悪魔を殺せるだけの力なんてない。
ただ、このまま死ねばクソみたいな明日を生きなくて済む。
死ねばいい。
死ねば今日が終わり、明日も来ない。
先の見えないクソみたいな今を終われる。
ぼんやりとした視界に映る老婆が大口を開けた。
耳元まで裂けた口は開くと想像以上に大きく、蛇のように獲物を丸呑みにすることも容易いだろう。
頭の奥がじんわりと痺れ、思考がまとまらない。音が遠ざかり、自分の呼吸すらも輪郭を失っていく。
瞼が重い。
視界は暗く、時おり光が滲むが、それが何なのか判断できない。
手足の感覚は薄れ、重さだけが残る。
考えようとしても、言葉が浮かばない。
ただ、沈んでいく。
眠るわけでもなく、目覚めるわけでもなく。
境目のない闇に静かに落ちていく。
—————————死を想え、人間
闇の中で声がした。
誰の声なのかは分からない。
でも、はっきりと耳に届いた。
重い瞼を上げ、広がるのはこの世とは思えないほど真っ赤な世界だった。
血を思わせる赤黒い空。
血を思わせる赤黒い海。
悪魔は地獄からやって来るという。
悪魔に取り込まれた人間もまた地獄に堕ちる。そして地獄で悪魔に生まれ変わる。
「死んだのか………」
自分の状態を確かめようとして、右腕の重みを感じた。見れば、しっかりと右腕がついている。
全身の痛みや苦しさも今はない。
おまけに人生で一番、今が冷静だと思う。
「きみはまだ死んでないよ」
人生で一番冷静だから、背後から急に声が飛んで来ても、大して驚くようなこともなかった。
赤黒い水面に小さな波紋が浮かぶ。
振り返った先にいたのは少女だ。
同年代、少し年下だろうか。
肩に触れるくらいの髪は影の落ちた桃色で、赤黒い世界では映えるほどに白い肌。髪と同じ色合いの瞳はおれをしっかりと見据えている。
「いつかは死ぬだろうけど、今はまだ生きてる。でも風前の灯ってところかな」
この少女は一体何者なのか。
ここが地獄なら、悪魔の手先か。
人間の姿で騙そうとしているのか。
「お前は、悪魔か?」
警戒すべきなのだろうが、内心は落ち着いている。内心は一切の波風を立てないし、目の前にいる得体の知れない少女に対しても恐怖を感じない。
悪魔か、という問いに少女は笑みを浮かべた。
「だとしたら、どうするの?殺す?わたしを殺したら、きみも死んじゃうよ?」
「な、何なんだよ、お前⋯⋯⋯」
「悪魔だよ。きみの正解。でも、そんなことどうでもいいの」
どうでもいいことなのか。
まあ、ここが地獄なら悪魔がいるのは普通だろうけど。
「おれを悪魔にでもしにきたのか?」
「だから、きみは死んでないって。さっき言ったでしょ」
「死んでない⋯⋯…あの状況で生きてると?」
「だから、風前の灯とも言ったでしょ。死んではないけど、死ぬ寸前。こうしてわたしがきみを引き留めてなかったら死んでるね」
「助けてくれたってわけじゃなさそうだな。お前、悪魔だし」
言うと少女は不服そうに腕を組む。
「悪魔、悪魔って、きみたちが勝手に悪者のようにそう呼んでるだけだからね。きみたちに協力的な悪魔だっているでしょ?」
人間に協力的な悪魔。
協力的と言えるかどうかは疑問だが、そういった悪魔は存在する。
悪魔狩りと呼ばれる存在が、その最たる例だろう。悪魔を殺すために悪魔の力を行使する。
だが、そんなのほんの一部に過ぎない。
悪魔は人間を殺す。
凡人が悪魔の力に触れれば、その力に飲まれ、悪魔に取り込まれる。
――――父親がそうだった。
どこまでいこうと悪魔は悪魔だ。
相容れることはなく、殺し合うしかない。
「わたしはその協力的な悪魔。きみを助けてあげる」
「それを信じろと?」
「信じられない?全部本当のことを言ってるんだけどね」
「おれが生きてるとか、死んでるとか、ここがどこなのかとか関係ない。悪魔の言葉なんて信じられるかよ」
「ひどいね、きみは。いたいけな女の子を悪魔呼ばわり、嘘つき呼ばわり⋯⋯⋯」
「その見た目も偽りだろ。人間じゃないのに人間のフリをしてる時点でな」
悪魔の少女がふっと笑って後ろ手を組む。
そしておもむろに歩き始めたと思いきや、瞬きの間に消えた。
「まぁでも、きみの意思なんて関係ないけどね」
目の前で消えた少女の声はすぐ後ろから。
耳元で囁かれ、反射的に振り向いたが、そこに少女の姿はなかった。
「これは契約じゃない。きみは拒めない。わたしを受け入れるしかないの」
どこからともなく聴こえてくる。
いくら辺りを見渡しても少女の姿は見つからない。
「受け入れるって、どういうことだよっ!」
「きみが見る世界をわたしにも見せて。代わりにきみだけの味方になってあげるから」
「そんなのっ⋯⋯いら————」
息が詰まる。
喉も詰まり、声も出せない。
視界が狭まり、端々から徐々に暗転していく。
「目覚めの時間だよ」
はっきりと聞こえた少女の声を最後に、おれの意識は闇に中に溶けていった。
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