第10話 詩を捨てない手順
夜明け前の回廊は冷たく、霧が低く漂っていた。
宮廷での評定を終えて一夜が過ぎたが、ノアはまだ眠っていない。
机の上には、手順の紙と、今日の訓練予定。
書きかけの端に、彼の指で押された小さな赤い痕が並んでいる。
合図。二度。二度。二度。――その繰り返しが、彼の夜を支えていた。
湯の冷めた香りを嗅ぎながら、ノアは独り言のように呟く。
「詩は、手順より弱いとみんな言う。でも……手順が詩を守ることもある」
声にした瞬間、空気がわずかに震えた。
それは霧のせいではない。離さないを何度も言った喉が、まだ熱を覚えているせいだ。
*
リアナが部屋に入ってきたのは、その直後だった。
護紋スカーフの結び目を確かめ、髪を束ね直しながら言う。
「外で、また噂。『式で涙を流した男がいた』って」
「僕のことですね」
ノアは苦笑した。
「泣いてないよ」
「泣いたかどうかより、“泣いたことにされた”のが大事なの」
リアナは紙束を指で叩き、笑う代わりに息を吐く。
「詩が生きてる証拠だよ。誰かが“物語”にした。それを、今度は私たちが手順に戻す番」
ノアは頷いた。
「詩を捨てない、って言ったのはあなたですね」
「そう。でも、あの場では半分賭けだった」
「勝ちました」
「勝っても、まだ泣けない」
その言葉に、ノアは顔を上げた。
リアナの目の奥は、涙を拒むように乾いている。
守る側である彼女が、誰よりも泣けない――それが、この世界の歪みの根にある。
ノアは静かに立ち、リアナの前で片膝をついた。
「“離さない”って、誰が先に言うのが正しいと思いますか?」
「……先とか、決まりはないでしょ」
「でも、言葉を先に置く方が、守ることになる気がして」
彼はリアナの親指を取り、二度押した。
「平常」
リアナが返す。二度。
「平常」
その呼吸の間に、涙よりも深い静けさがあった。
詩ではなく、習慣として残る静けさ。
*
昼過ぎ。
庇護組の訓練場には新しい顔が増えていた。
ルーチェを含む新入生十数名が、布を抱えて並んでいる。
アデルは影の位置に立ち、監督役として無言で見守る。
ミレイが記録板を片手に、リアナへ目配せした。
「今日は“誤解”の修正。――泣くこと、弱いこと、下がること。全部、手順に変える練習だ」
リアナは円の中心に立ち、声を上げた。
「泣くことを禁止してきたのは誰? ――自分たちです。
でも、涙は湯と同じ。張り詰めた幕を長持ちさせるための、
自然な、必要な“ゆるみ”です。
“泣く”を“交代”の合図にしていい。涙を出した人が、湯を渡す」
新入りたちは戸惑った顔を見合わせ、やがて頷いた。
ノアが前へ出て、例を見せる。
「誰かが泣いたら、“離さない”を言う。それだけです」
彼はルーチェの前に立ち、静かに手を伸ばした。
ルーチェは涙を堪えていたが、喉が鳴る。
ノアが微笑み、「いいですよ」と囁く。
涙が一粒、布に落ちる。
「離さない」
ノアが声で言い、ルーチェも震えながら言葉を返す。
「離さない」
拍手は起きなかった。ただ、空気が柔らかくなった。
リアナの胸の奥で、何かがやっとほどけた。
アデルがその様子を見て、腕を組んだまま呟く。
「……泣いても、幕は裂けないのね」
ミレイが頷く。「むしろ、縫い目が増える」
訓練後、アデルは近づき、リアナの前に立った。
「詩を捨てない手順、ね。
あなたたちが作ってるのは、文化よ」
「文化?」
「式でも制度でもなく、“人の癖”。癖は、流行より長持ちする」
そう言って、彼女は背を向ける。
リアナはその言葉の余韻を胸でほどき、呟いた。
「癖で守る――それも、詩の形かもしれないね」
*
夕暮れ。
庇護組の新しい布を干しながら、ノアは思った。
涙を見せること、泣くこと、離さないこと――全部、詩だった。
でも、今ではそれを書類にできる。
詩を捨てない手順とは、
詩を生活の中に留める方法だったのかもしれない。
リアナが背後から声をかける。
「ノア。明日、王都全域で“夜間庇護”を始めるって」
「夜間?」
「夜の橋、夜の市場、夜の寝室――守る形は変わるけど、“離さない”は続ける」
ノアは笑って頷いた。
「詩の夜勤ですね」
「うん、夜勤。詩の番人」
リアナは肩を並べ、空を見上げる。
暮色の中、王都の明かりがひとつ、またひとつと灯る。
それぞれの灯りが小さな縫い目に見えた。
ノアが親指の爪を二度押した。
返す。二度。
声で。
「離さない」
「離さない」
その声が夜風に溶け、遠くの灯にまで届いていった。
《次回予告》
第11話「噂の渦」
庇護組への支持が広がる一方で、「涙を利用して権力を得ている」という新たな噂が拡散。
リアナたちは“感情の操作”という嘲りに向き合う。
再び――“離さない”が試される。
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