第11話 噂の渦

 王都を包む風が、少しざらついていた。

 祭りの後のような匂い。浮かれた残り香と、湿った土の混ざったにおい。

 昼下がり、庇護組の掲示板の前には人だかりができていた。

 新しい札が貼られている。


「涙を武器に、男を縛る組織」

「夜間庇護=情交の隠れ蓑」


 黒い文字は、乾ききらない墨で書かれていた。

 読み手たちは笑いながら、でも笑いきれずに紙を指で弾く。

 笑い声が、嘲りと怯えの境界で揺れていた。


 リアナは紙を剥がさなかった。

 代わりに、下に庇護組の手順札を並べて貼る。

 「泣くこと」「離さない」「交代」――どれも同じ高さに。

 紙が二層になり、風が通るたび、噂と手順が擦れ合って音を立てた。


 背後から、ノアの声がした。

 「また、渦ができてます」

 リアナは振り返らずに答えた。

 「見せれば、ほどける。渦は“見えない”から怖いの」

 「でも、今回のは深いですよ。感情を利用しているって言われてる」

 「感情を“見せる”と、利用になるの?」

 「――この国では、そうです」

 ノアの声は淡い苦味を含んでいた。

 リアナは小さく笑う。

 「じゃあ、利用の定義を縫い直そう。涙の使い方を見せるの」


 *


 翌日。庇護組の会議室。

 ミレイが書類を机に並べていた。

 「『夜間庇護』の批判文が宮廷経由で届いた。王都通信員の署名付きだ」

 リアナが受け取って目を通す。

 文体は硬く、だがどこか感情的だ。


“庇護の手順は美辞麗句である。

 女の涙を免罪符にし、男の献身を義務に変えた。”


 リアナの手が紙の端で止まる。

 「……免罪符、か」

 ノアが隣で言った。

 「詩が“便利すぎた”のかもしれません」

 「詩が便利で何が悪いの。便利だから広まるのよ」

 ミレイが椅子の背に腕を預け、低く言う。

 「詩は便利でいい。でも“説明”を置き去りにするな。――庇護組の報告書に、感情の定義を加える。『利用ではなく交換』と明記する」

 リアナは頷き、ペンを取った。

 > 感情=責務の一形態。

 > “利用”ではなく、“共有”によって力を分散する仕組み。


 ノアがペンを覗き込み、そっと付け加えた。

 > 涙=湯。感情の放熱。

 > 放熱がない布は、やがて焦げる。


 ミレイがわずかに笑う。

 「理屈と詩、半々ね。――それでいい」


 *


 その夜、王都の北門近くで小競り合いが起きた。

 庇護組の布を燃やそうとする一団が現れたのだ。

 リアナとノアが駆けつけたとき、火の手は小さいが、人の声が荒い。


 「涙で人を支配するな!」

 「男が守られるなんて、恥だ!」


 群衆の中に、顔を布で覆った女がいた。

 ルーチェが小さく息を呑む。「……あの人、南区の詩人です」

 リアナは一瞬ためらった。

 詩人――彼女が初めて“詩を手順に変える”と言ったとき、反対した派閥の筆頭だ。

 詩を神聖とし、現実に下ろすことを汚れと呼んだ人々。


 リアナは前へ出た。

 「詩は神聖。――だからこそ、現実で使うの」

 火の光が彼女の横顔を照らす。

 女は詩人の声で返した。

 「詩は燃やしてこそ、永遠になる!」

 「燃やしたら、残らない!」

 言葉がぶつかる。

 ノアが静かに前に出た。

 「“離さない”」

 リアナが即座に返す。

 「離さない」

 群衆の空気が一瞬、息を呑むように止まった。

 その間にノアが双糸を張る。

 布を肩から肩へ。

 風が変わり、火の勢いが吸い取られるように弱まる。

 燃え残った灰が、夜空に舞い上がる。

 火ではなく、煙として噂が残る。


 詩人の女は涙を一滴だけこぼした。

 「……燃やしたかったのは、あなたたちじゃなくて、昔の自分よ」

 リアナは微笑んだ。

 「じゃあ、燃えた灰は、新しい詩になるね」

 女はうつむき、去っていった。

 残った人々が、言葉を失ったまま布の灰を見ていた。

 ノアが湯を差し出し、リアナが静かに言う。

 「泣いていい。泣いた人が、次の交代を決める」


 *


 夜更け。

 回廊の端で、リアナは灰色の空を見上げていた。

 ノアが隣に立つ。

 「……“噂の渦”って、止まることはあるんでしょうか」

 「止まらない。

 でも、“流れ”を作れば、渦は形になる。形になれば、縫える」

 リアナは指で風をなぞりながら続けた。

 「火で焦げた布は、もう一度洗えばいい。詩は、汚れても使える」

 ノアは静かに頷いた。

 親指の爪を二度押す。

 リアナも返す。二度。

 「平常」

 「平常」


 風が、二人の肩にかかった布を優しく揺らした。

 噂はまだ続くだろう。

 だが、燃やした灰の中に、縫い目がもうひとつ見えていた。


《次回予告》

第12話「交代の刻」

リアナの体が限界を迎え、初めて指揮から外れる。

代わってノアが庇護組を率いるが、外部からの妨害で危機が迫る。

「守る」と「任せる」の境界が、試される夜。

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