第9話 宮廷の嘲り、もう一度
宮廷の「形式の間」は冷たかった。
高い天井、石の花弁、よく磨かれた床の表面に、朝の光が薄く漂う。古参派の女官たちは肩章を揃え、文官たちは巻物を胸に抱き、衛兵は呼吸まで規律に合わせている。
噂の紙はもう貼られていない。代わりに、**古い次第(しだい)**が壇上に積まれていた。紙ではなく、儀式の順番そのものが、ここでは掲げ物だ。
侍従長ミレイが一歩進み、手短に告げる。
「本日の評定は、“守る/守られる”の形式化について。――庇護組の手順を、宮廷の式に編み込めるかどうか」
王弟ユリウスは簡素な椅子から頷くだけで、言葉を挟まない。話を進めさせる合図だ。
最初に立ったのは、古参派の筆頭とされる女官長セレナだった。
目元に疲れのない女だ。
「式は見せ方です。見せ方は秩序そのもの。あなたたちの“手順”は、台所と橋で役に立つ。認めます。――ですが“式”に入れるには言葉が足りない」
彼女は巻物をひろげ、歌うように条文を読み上げる。
「『女が前に立つこと、法と等し』。――これが式文。書き換えるの?」
回廊にざわめき。
アデルは群衆の縁にいた。薄墨の外套の襟をひとつ指で正し、何も言わない。
私はノアと目を合わせた。
彼は親指の爪を二度押す。
返す。二度。
胸骨の奥で、緊張が合図の形に整う。
「式文は、捨てません」
私の声が石に落ちる。
「書き足します。――『前に立つ者が交代を言えること』『後ろに立つ者が離さないを言うこと』。詩を捨てない手順で、式を縫い直します」
セレナの眉がわずかに動く。「言葉遊びに聞こえる」
ミレイが帳面を閉じ、短く告げた。
「では実演。言葉は、手順の影に置く」
*
白線が引かれた。
形式の間の真ん中に四角。儀の舞踏を行う位置。今日は舞踏ではなく、庇護の式を置くための枠だ。
ユリウスが起立する。「公開とする」
扉が開き、評定の見学に市井の女たちと男たちが少しずつ入ってくる。宮廷の空気が薄まった。人が増えたのだ。
ミレイが段取りを読み上げる。
「一、誓詞(せいし)。――“離さない”を声で言う」
「二、距離の合意。――半歩、肩一枚」
「三、交代の刻。――点検の合図、湯」
「四、双糸。――剣を交えず、縁で受ける」
「五、記録。――合図と遅延を公に残す」
セレナは腕を組んだ。「舞踏なら美しいでしょうね」
「舞踏ではありません」
ノアが淡々と遮る。
「誰でも踊れるようにするのが手順です」
私はノアの親指を二度押し、声にした。
「離さない」
ノアも、声で。
「離さない」
宮廷の天井が音を吸い、代わりに回廊の人々が小さく息を吐く音が重なった。式の始まりを、言葉が作る。
距離。半歩。肩一枚。
私はノアの背に半歩重なり、セレナの視線の上で、肩を合わせる。
交代。十五分で点検、三十分で湯――ここでは短縮版、三刻で点検・湯の実演にする。
ミレイが砂時計を伏せ、その落ちる音が静かな拍子になった。
双糸。
布を肩から肩へ。
ノアが空を撫で、私は縁を受ける。
木矢が一本、宮廷式の安全規定に従って放たれる。
矢は縁で角度を変え、石に優しく落ちた。
拍手はない。宮廷は拍手の場ではない。
けれど、視線が動いた。
古参派の女官の何人かが、無意識に肩の力を抜いたのが見えた。
「では“記録”を」
ミレイが合図を出すと、文官が板を運び、私は指で書いた。
・合図:二度往復良好/遅延なし
・距離:半歩維持
・交代:湯確認
ノアは補足を入れる。「視線の泳ぎなし。次に遅延が出たら、肩を二度」
セレナは一歩進み、別の巻物を広げた。
「よろしい。――では“挑発の式”。宮廷式の嘲りを、あなたたちの式で受けられるか」
ざわめき。
古い行事だ。言葉で相手の立場を揺らし、言葉の矢を受ける儀。
彼女は声を整え、古語で詠んだ。
「『女の名こそ前に立つ旗、男は家の影に座すべし』」
視線が私を打つ。
私はノアの親指を、一度強く押した。緊急。
前に半歩出るのではない――下がらずに、言葉を受けて、縁で返す。
私は、声で返した。
「『旗の影を縫う手がなければ、布は風に裂ける』」
ノアが続ける。「『影が座す場所は家ではなく、背中』」
双糸。言葉の縁で角を取る。
セレナの表情が、一瞬だけ止まる。
宮廷の嘲りは、押し返すのが定法だ。
受けて、縫い目を見せる返しは、想定していない。
アデルが口元だけ笑った。
ユリウスは椅子の肘に指を触れ、軽く頷く。
「次だ」
セレナは声色を変え、もう一段深い古語を放つ。
「『女、背(せな)を貸すは憐れの情、男、前に立つは僭(せん)』」
鋭い。
“憐れ”“僭”――感情を罪に見せかける語だ。噂はこういう語に弱い。
私は息を吸い、吐いた。
ノアの親指が二度。平常。
私は湯を合図した。
砂時計を伏せ、席をひとつ置いて座る。
宮廷の間で座る――それ自体が嘲りに見える危うさがある。
けれど“湯”は式に編み込むべきだ。持続のために。
湯気。
私は一口だけ飲み、立ち上がった。
「手順は情を隠さない。情を手順にする。――“離さない”は、憐れでも僭でもない。公開の約束」
ノアが板に書く。
> 離さない=公開の誓詞(せいし)
> 合図・距離・交代=式次第に併記
セレナは目を細め、巻物を巻き直した。
「言葉は整ってきたようね。――最後に、“外乱”」
*
外乱。
儀の最中に不慮の事故が起きたと仮定し、式が瓦解しないかを試す段。
ミレイがすぐさま安全確認をし、衛兵と女官を配置し直す。
ユリウスが静かに告げる。「続けよ」
その時だった。
回廊の陰から、粗い幕の渦がひとつ、ぶつかってきた。
押し返すだけの、硬い壁。
制止の声。
衛兵が踏み込み、弾かれる。
石の床に、靴音と息が乱れる。
私は反射で前へ出かけ――立ち止まる。
渡すのが、後半戦の目的だった。
「マリア!」
昨日の第一組の女兵が、すぐに応じる。
合図。二度。
レオンが横から入り、双糸の縁を取る。
私は円の外から、短く指示する。
「“湯”を忘れない――緊急の後は、必ず」
マリアの肩が二度動き、レオンが座る。
湯。
粗い渦の角がほどけ、反動が戻らない道が作られる。
宮廷の床に、静けさがゆっくり戻る。
その渦を投げたのは、若い文官だった。
緊張と正義感が混ざった顔。
セレナが目だけで彼を咎め、すぐに視線を外す――黙認に近い。
ユリウスが立つ。「外乱への対処、式に編み込め」
私は板に書いた。
・外乱時:渡す/行かせる
・指示は名指しで短く
・“緊急”の後、湯
・記録は公開
静けさの端で、ノアが小さく息を呑んだ。
私は視線で問う。
彼は、親指の爪を一度強く。
緊急。
――遅延ではない。別の渦。
振り向いた瞬間、壇上の古い幕――儀式用の布――が誰かに粗く引かれ、こちらへ倒れかけた。
厚手の、歴代の式文を象徴する幕。
それ自体が重い。押し返すための象徴だ。
私が踏み込むより早く、ノアが動く。
濃い幕ではない。双糸だ。
私の手首を軽く引き、縁を半分渡す。
合図。二度。返す、二度。
布の角をほどく。
倒れは勢いを失い、床にやさしく落ちる。
埃が柔らかく舞い、儀の象徴は傷つかない。
回廊に、短い拍手が揃わずに散って、最後に揃った。
セレナが幕を見下ろし、ゆっくり顔を上げる。
「……式の布を守ったのね」
彼女の声は、僅かに湿っていた。
アデルは外套の袖口を指でつまみ、目を伏せる。
ミレイが帳面を閉じ、短く告げる。
「形式の間の“嘲り”――受けられる。式は、縫い直せる」
ユリウスが宣言する。
「庇護組の手順、式次第の付則として採用。
詩は捨てない。詩を、手順にする。
“離さない”を、公の誓詞とする」
石の間に、控えめで深いざわめき。
古参派の何人かは不満げに唇を結び、しかし反駁の言葉を見つけられない。見せられた事実に、式文が追いついてしまったからだ。
私はノアの親指を二度押した。
返る。二度。
声で。
「離さない」
彼も声で。
「離さない」
そのとき、壇の陰から小走りの足音。
アデルの侍女――ルーチェが、少し乱れた呼吸で駆け寄ってくる。
「……屋外の回廊で、粗い札がまた」
ミレイが眉を寄せる。「外へ回す。――だが、今は式の締め」
私は頷き、円の中央に立った。
胸の奥で、涙の合図が小さく鳴る。まだ、零れない。
ここは、次の一歩のための針目だ。
「式文に、ひと行だけ」
私は石に向かって言葉を置いた。
「『守ること/守られること、どちらも人の名で行う』」
セレナが巻物を閉じ、静かに頭を下げる。
礼ではない。合意だ。
形式の間に、ようやく人の温度が戻った。
*
夕刻、内庭。
配布所には、新しい紙束が積まれている。見出しは大きく、子どもの目線の高さで。
> 式の付則:離さない
> 合図・距離・交代・双糸・湯
ノアが紙の角を整え、私は護紋スカーフの結び目を確かめた。
アデルが歩み寄り、紙を一枚、ためらいなく取る。
「今日の“見せ方”、認めるわ」
「渡せる?」
私が問うと、彼女は小さく笑った。
「渡す。――家へ、宮廷へ。私の言葉で」
遠くで鐘が鳴る。
人々が、札を持って帰る。
噂はまだ流れている。
けれど、縫い目は増えた。
ノアが私の親指の爪を二度押した。
返す。二度。
間に、明日の重さが落ちる。
「リアナ」
「うん」
「湯を」
彼は笑わずに言い、私は笑って頷く。
湯気が、今日の式の残り火をやさしく包む。
――そして、夜の端で、私はようやくひと粒だけ涙をこぼした。
拾ってくれたのは、ノアの指。
比べない。
言う。
離さない。
《次回予告》
第10話「詩を捨てない手順」
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