番外編 月狼と狩人
父が戦場で討ち死にし、兄もその後を追うように帰らぬ人となった。
「戦士としての誉れだ」と言い聞かせながらも、戦士の娘エイルの胸の奥は涙で満ちていた。
母も六つの時に流行り病で往ってしまった。
まだ戦場に出る年齢ではなかった彼女は、後方の野営地で食糧調達を任されていた。
森へ入り、弓で小動物を狩る。
それが、せめてもの務めだった。
十三の春、彼女は初めて死の影に触れた。
ある日、森の奥で空気が変わった。
茂みの向こうから現れたのは、野営地でも恐れられていた巨熊――隻眼のリョンカ。
傷だらけの体、血の匂い、そして濁った瞳。
少女は逃げた。
必死に、息が詰まるほどに。
しかし、リョンカの脚は速かった。
木々が裂け、大地が震える。
エイルの足がもつれ、転がった。
背後に迫る獣臭。
父も兄も、もうここにはいない。
自分一人で、この恐怖に立ち向かわなければならない。
弓を引こうとした手が震えた。
絶体絶命のそのとき、一頭の狼が立ちはだかった。
月光を宿したような毛並み。琥珀色の瞳。
(戦って…!!)
声ではない何かが、エイルの心に響いた。
その狼は、自分より何倍も大きい獣に怯むことなく飛びかかっていった。
牙が熊の喉元を狙い、爪が肉を裂く。
エイルも矢を放つ。
最初の一本は外れた。
二本目が熊の肩に刺さった。
狼が咆哮し、エイルは三本目を番えた。
二つの命が一つの意志で動き、やがてリョンカは倒れた。
どれほどの時が過ぎたのか分からなかった。
気づけば、エイルは地面に座り込み、荒い息をついていた。
狼は傷だらけだったが、その瞳には光があった。
近づいてきた狼は、そっとエイルの手に鼻先を寄せた。
温かかった。
それからというもの、狼はエイルの傍を離れなかった。
エイルはその狼に「ノヴァ」と名を与えた。
幾億万の星々の中で一際、美しい星。
伝説の戦士の名を冠する、今も輝く導きの光。
ノヴァは狩りを助け、夜はそっと背中に身を寄せ、時に危険を知らせた。
エイルが独り涙を流す夜には、ただ黙ってそばにいた。
二人の間には、言葉を超えた絆が生まれていった。
野営地の者たちは初め、狼を恐れた。
だがエイルは言った。
「ノヴァは私の家族です。今は彼女だけ・・」
やがて人々も、この白銀の狼を認めるようになった。
三年後、エイルは戦士の試練に挑む日を迎えた。
エイルは十六になっていた。
髪は伸び、弓を引く腕には筋肉がついた。
ノヴァもまた、大きく逞しくなっていた。
二人で狩った獲物の数は数え切れない。
二人で乗り越えた冬は三度。
二人で見上げた月は、いつも同じ色をしていた。
三日以内に、自らが最も強いと信じる相手を狩る――それが掟。
彼女が選んだのは、あの隻眼のリョンカの血を引く巨熊、アリョンカ。
山を恐怖で支配し続ける、黒影の主。
「本気か」長老は身を案じていた。
「本気です」
「あの日、リョンカを倒したのは私とノヴァでした。でも、まだ子供だった。今なら、それを証明できる」
ノヴァは黙ってエイルを見ていた。
山道を進むうちに、ノヴァが立ち止まった。
耳がぴくりと動く。
エイルも息を殺す。
木々のざわめきの奥で、獣の吐息が響いた。
腐葉土を踏む足音が重く沈む――巨体が近い。
空気が重くなった。
鳥が鳴かない。
虫の声も消えた。
「……行こう、ノヴァ」
声に応えるように、狼の瞳が光を宿した。
次の瞬間、轟音。
木々をなぎ倒し、アリョンカが姿を現した。
岩のような筋肉、深紅に濡れた毛並み、そして左目の古傷――リョンカとよく似ている。
エイルの心臓が高鳴る。
恐怖ではない。
これは、挑戦への昂ぶりだ。
エイルの弓が唸りを上げる。
矢が一本、二本、三本――
だが皮膚に浅く刺さるだけ。
その巨体が振り上げた爪が風を裂き、地面を爆ぜさせた。
衝撃で吹き飛ばされそうになる。
三年前のリョンカよりも、明らかに大きい。
明らかに強い。
(左!!!)
声ではない。
脳の奥に直接響くような”声”がした。
ノヴァだ。
エイルは反射的に身を翻す。
大地を割る一撃を紙一重で避け、弓を構え直す。
矢を番える手が震えない。
三年間の訓練が体に染み付いている。
狼はその隙を逃さず、熊の脚へ飛びついた。
牙が肉を裂く。
だが、アリョンカの腕が唸りを上げ、ノヴァの身体をはね飛ばした。
白い毛が宙を舞い、血飛沫が上がる。
「ノヴァッ!」
咄嗟に駆け寄ろうとした瞬間、また声が響く。
(……大丈夫。ほら、戦って)
ノヴァは血に染まりながらもエイルを励ましていた。
その瞳は痛みよりも炎を宿している。
エイルの心が震える――恐怖ではなく、ノヴァの心と共鳴している。
三年前と同じ。
あの時と同じ。
二人で一つの意志。
エイルは息を吸い、矢を番えた。
狙うは胸骨の隙間、動脈の鼓動を感じ取る一点。
父が教えてくれた急所。
兄が見せてくれた狙い方。
そして自分が三年間磨き続けた技術。
すべてがこの一本に込められる。
ノヴァが再び走る。
アリョンカの注意が狼に逸れた刹那、エイルの矢が放たれた。
空を裂く音。
矢が肉を貫き、巨熊が呻き声を上げる。
だが倒れない。
傷を負った獣はさらに凶暴になる。
最後の力を振り絞った巨腕が、ノヴァを薙ぎ払った。
「ノヴァ――ッ!」
エイルは叫びながら駆けた。
弓を捨て、短刀を抜き、熊の胸へ飛び込む。
死ぬかもしれない。
でも構わない。ノヴァを失うくらいなら――。
その瞬間、ノヴァの”声”が再び。
(今――!)
刃が深く突き刺さる。
手応えがあった。
確かに心臓を捉えた。
鼓動が伝わり、やがて止まる。
アリョンカの巨体が崩れ落ちた。
地響きが山を震わせる。
エイルは息を切らしながら、倒れたノヴァに駆け寄る。
その体を抱き上げると、狼は微かに息をしていた。
血が流れている。
肋骨が折れているかもしれない。
でも生きている。
(よくやったね……)
その言葉が、確かに心に響いた。
エイルは頬を濡らしながら笑う。
「うん……二人で勝ったね」
応急手当を施し、エイルはノヴァを抱えた。
重い。
でも温かい。
この温もりが消えないことが、何よりも嬉しかった。
夜、山の頂で風が吹いた。
焚き火の光の中、ノヴァが穏やかに目を閉じる。
傷の手当ては終わった。
あとは休むだけだ。
エイルは彼女の頭を撫で、そっと囁いた。
「私たちは、ずっと”家族”だよ」
ノヴァの耳がぴくりと動いた。
尻尾が小さく揺れた。それが答えだった。
朝日が昇る。
アリョンカの亡骸の傍で、一人と一匹の影が並んでいた。
ノヴァは痛みを堪えながらも立っている。
エイルはその隣で、朝日を見上げた。
新たな戦士の誕生を告げるように、風が山を駆け抜けていく。
野営地に戻ると、人々が歓声を上げた。長老は静かに頷いた。
「よくやった、エイル。これでお前も太陽神の戦士だ」
「いいえ」エイルは言った。
「"私たち"、です」
ノヴァを見る。
狼は誇らしげに鼻を鳴らした。
父も兄も、共に戦った。
一人ではなかった。
そして今も、ノヴァと共にいる。
これからも、ずっと。
それが自分の戦士の道だ。
夜、二人は焚き火の前に座った。
星が瞬いている。
父と兄が見上げた星。
そして今、自分とノヴァが見ている星。
「ねえ、ノヴァ」
(…?)
「もっと大きくなったら、旅に出ようよ」
(あなたが行きたい場所、私はついていく)
エイルは笑った。
「じゃあ、決めた。一番遠い山の向こうまで。神様が住んでるんだって!」
(……遠い…)
「うん、遠い。でも二人なら、きっと行ける」
風が吹いた。
月が昇った。
二人の影が長く伸びる。
物語は、まだ続く。
(終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます