第11話 恐怖の迷宮
リミタールとの戦い。
刃が立たない。
無力感と恐怖。
最後の記憶はエイルの手の温もり。
そして―
光が、弾けた。
エピテウスの身体は、空中を舞った。
制御できない。
落ちる。落ちる。
ただ、落ちる。
風が、耳を切り裂く。
視界が、回る。
そして――
地面に、叩きつけられた。
痛い。
全身が、悲鳴を上げていた。
エピテウスは、目を開けた。
空が、灰色だった。
雲ではない。
ただ、色のない空。
「……ここは」
彼は、身体を起こそうとした。
だが――
腕が、動かない。
血が、流れている。
全身が、傷だらけだった。
「くそ……」
エピテウスは、やっとのことで身体を起こした。
周囲を見回す。
荒野だった。
焼け焦げた地面が、どこまでも続いている。
草一本、生えていない。
そして――
砕けた武器が、地面に突き刺さっていた。
剣、槍、盾。
無数の武器が、墓標のように立っている。
「戦場……だったのか」
エピテウスは、自分の手を見た。
ルキス・アナスタスを握っていた。
いや、握っていたものは――
柄だけだった。
刃が、折れている。
「嘘だ……」
エピテウスは、震える手で柄を見つめた。
父から受け継いだ剣。
唯一の、武器。
それが――折れた。
「くそ……くそっ……!」
彼は、地面を叩いた。
血と灰にまみれた手が、乾いた土を掴む。
「俺は……何も……」
涙が、溢れそうになった。
だが――
その時。
遠くで、鐘の音が響いた。
ゴォォォン……
ゴォォォン……
重く、低い音。
それは、どこか懐かしい響きだった。
エピテウスは、顔を上げた。
朦朧とした視界の中――
誰かが、歩いてくる。
僧衣を纏った、男。
背は高く、痩せている。
顔は、フードで隠れていた。
だが――
その瞳は見えた。
深い、茶色の瞳。
それは、神々の光とは正反対の静けさを宿していた。
「ようやく――」
僧侶は、エピテウスの前で立ち止まった。
「落ちてきたか」
「あんたは……」
「天に挑んだ愚か者を――」
僧侶は、しゃがみ込んだ。
「我らは、長く待っていた」
次に目を覚ました時――
エピテウスは、違う場所にいた。
天井が、見える。
石でできた、高い天井。
そこには、無数の文字が刻まれていた。
見たこともない異国の文字。
だが――どこか、美しかった。
「……ここは」
エピテウスは、身体を起こした。
柔らかい布団の上だった。
身体の傷は、手当てされていた。
包帯が巻かれ、薬草の匂いがする。
部屋を見回すと――
そこは、寺院のようだった。
岩をくり抜いて造られた、巨大な空間。
壁には、無数の経文が刻まれている。
微かな人の気配、焚かれた香の薫り。
灯りは、火ではなかった。
青白い石が、そこここに置かれ、淡く光を放っていた。
「目を覚ましたか」
声が、聞こえた。
エピテウスは、振り向いた。
僧侶が、入口に立っていた。
「あんたが……俺を助けたのか」
「助けた、というより――」
僧侶は、部屋に入ってきた。
「拾った、というべきか」
彼は、エピテウスの前に座った。
「お前は、天界から落ちてきたのだろう?」
「天界……」
エピテウスは、思い出した。
リミタール。
制限の神。
そして――エイル。
「エイルは……!」
エピテウスは、立ち上がろうとした。
だが、身体が動かない。
「焦るな」
僧侶は、彼を押しとどめた。
「お前の仲間は、無事だ」
「本当か……!」
「ああ」
僧侶は、頷いた。
「別の場所にいる」
「なら――」
「だが、お前は会えない」
僧侶の声は、静かだった。
「今のお前では」
「なぜだ……」
「なぜなら――」
僧侶は、エピテウスを見つめた。
「お前は、剣を振るう事に重きを置き、心を置き去りにした」
「心……?」
「神に抗うとは――」
僧侶は言った。
「己の中の
「それができぬ限り――」
彼は、折れた剣の柄を取り出した。
「いくら剣を振るっても、その刃は届かぬ」
エピテウスは、柄を見つめた。
父の剣。
折れた、剣。
「俺は……」
「お前は、未だに復讐のために戦っている」
僧侶の言葉が、胸に刺さった。
「神々を憎み、運命を呪い――」
「己の剣を怒りに支配させている」
「それは……」
エピテウスは、何も言えなかった。
確かに。
彼は、怒っていた。
神々に。
運命に。
自分自身に。
「だから、お前の剣は折れた」
僧侶は言った。
「怒りだけでは――」
「神は、倒せない」
エピテウスは、拳を握りしめた。
「じゃあ……どうすればいい」
「試練を授けよう」
僧侶は、立ち上がった。
「この山の奥には、"とある迷宮"がある」
「恐怖の……?」
「そこでは――」
僧侶は、エピテウスを見下ろした。
「お前が恐れるものが、形を持って現れる」
「武器も力も要らぬ」
彼は、手を差し伸べた。
「心だけで、挑め」
エピテウスは、裸足で立っていた。
剣も、鎧も、何も持たされていなかった。
ただ、簡素な白い衣を纏っているだけ。
目の前には、洞窟の入口があった。
巨大な口のように、闇が広がっている。
「入れ」
僧侶は、後ろから言った。
「そして、自分自身と向き合え」
エピテウスは、深呼吸した。
そして――
一歩、踏み出した。
闇の中へ。
洞窟は、ただの洞窟ではなかった。
空間が、ねじれていた。
壁が波打ち、床が傾き、天井が回転する。
視覚が、信用できない。
「……何だ、ここは」
エピテウスは、手探りで進んだ。
やがて――
光が、見えた。
いや、光ではない。
映像。
それは、壁に映し出されていた。
村。
リュキナ村。
彼の故郷。
「これは……」
映像の中で、怪物が現れた。
スキュラ=トーン。
村人たちが、逃げ惑っている。
そして――
父が、立ち向かっていた。
「父さん……!」
エピテウスは、映像に手を伸ばした。
だが――
手は、すり抜けた。
父が、怪物に傷つけられる。
血が流れ、倒れる。
「やめろ……!」
エピテウスは、叫んだ。
「父さん!」
だが――
映像は、消えた。
そして――
また、始まった。
同じ光景。
怪物が現れ、村人が逃げ、父が戦う。
何度も。
何度も。
何度も。
「やめてくれ……!」
エピテウスは、膝をついた。
「頼む……もう……!」
だが、映像は止まらなかった。
永遠に、繰り返される。
助けようとしても、助けられない。
何度挑んでも、何度も失敗する。
やがて――
映像が、変わった。
今度は――
エピテウス自身が、映っていた。
だが、それは違う自分だった。
傲慢で、怒りに満ちた表情。
その自分は、剣を振るっていた。
だが――
斬っているのは、怪物ではなかった。
人。
無辜の人々。
「やめろ……」
エピテウスは、呟いた。
「お前は……俺じゃない……」
だが――
幻影の自分は、笑っていた。
「お前は救うためじゃない」
幻影が、こちらを見た。
「復讐のために、戦っているだけだ」
「違う……!」
「本当に?」
幻影は、血塗れの剣を掲げた。
「お前は神々を憎んでいる」
「運命を呪っている」
「そして――」
幻影の瞳が、冷たく光った。
「力を求めている」
「ただ、倒すために」
エピテウスは、何も言えなかった。
確かに――
彼は、そうだったかもしれない。
怒りに任せて。
憎しみに駆られて。
ただ、神々を倒すことだけを――
「俺は……」
エピテウスは、自分の手を見た。
震えている。
「俺は……何のために……」
幻影は、笑った。
そして――
消えた。
エピテウスは、一人残された。
暗闇の中に。
恐怖と後悔が、絡み合う。
心が、壊れそうになる。
「……くそ」
彼は、地面に倒れ込んだ。
「俺は……何も……」
涙が、流れた。
戦士は、泣いてはいけない。
だが――
もう、我慢できなかった。
「父さん……」
彼は、呟いた。
「俺は……どうすれば……」
その時――
声が、聞こえた。
懐かしい、温かい声。
『エピテウス』
「……父さん?」
『お前の剣は、誰のためにある?』
父の声が、闇の中で響いた。
『憎しみのためか』
『それとも――』
『生きるためか』
エピテウスは、目を閉じた。
そして――
思い出した。
父が、最後に言った言葉を。
『お前は、選ばなければならない』
『神々の秩序に従って消えるか』
『あるいは――自分の運命を、自分で切り開くか』
『どちらを選んでも、私はお前を誇りに思う』
「父さん……」
エピテウスは、ゆっくりと立ち上がった。
「俺は――」
彼は、前を向いた。
「生きるために、戦う」
「神々を倒すためじゃない」
「復讐のためでもない」
彼の声が、強くなっていく。
「俺は――」
「大切な人を、守るために戦う」
その瞬間――
恐怖が、消えた。
霧のように、薄れていく。
闇が、晴れていく。
そして――
光が、差し込んできた。
迷宮の奥。
そこに――
一本の剣が、浮かんでいた。
それは、透明だった。
光でできた、剣。
だが――
その形は、見覚えがあった。
ルキス・アナスタス。
父の剣だったもの。
「これは……」
エピテウスは、剣へと近づいた。
そして――
握った。
瞬間。
剣が、脈打った。
彼の心臓の鼓動に、呼応するように。
淡く、光を放つ。
それは、もはや父の剣ではなかった。
エピテウス自身の、剣。
魂の、剣。
『よくぞ見つけたな』
僧侶の声が、遠くから聞こえた。
『それが――"恐怖を越えた者"に授けられる、真の力』
『今度こそ――』
声が、優しく響いた。
『正しき心で、振るえ』
エピテウスは、剣を握りしめた。
そして――
歩き出した。
迷宮の外へ。
光の中へ。
迷宮を出ると――
そこは、山頂だった。
夜明けが、訪れていた。
東の空が、赤く染まっている。
エピテウスは、眼下を見た。
広大な世界が、広がっていた。
森、川、街。
そして――
遠く、天へ伸びる光の柱。
神の都。
アウレオス。
「……まだ、終わってないんだな」
エピテウスは、呟いた。
「ああ」
僧侶の声が、聞こえた。
彼は、そっと近づいてきた。
「行け」
僧侶は言った。
「お前の旅は、まだ終わっていない」
「だが今度は――」
彼は、エピテウスの肩に手を置いた。
「恐れずに進め」
「神ではなく――」
僧侶は、微笑んだ。
「人として」
エピテウスは、静かに頷いた。
そして――
光の剣を、腰に差した。
それは、もう折れない。
なぜなら、それは――
彼自身の心だから。
「……ありがとうございました」
エピテウスは、深く頭を下げた。
僧侶は、何も言わなかった。
ただ――
微かに、頷いた。
エピテウスは、山を降り始めた。
その瞳には――
かつてなかった、静かな炎が宿っていた。
怒りではない。
憎しみでもない。
ただ――
生きるための、意志。
守るための、決意。
それが、彼の新しい光だった。
朝日が、彼を照らしていた。
それは、優しく――
そして、力強かった。
新しい戦いが、待っている。
だが、もう恐れはなかった。
エピテウスは――
人として、前へ進む。
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