第10話 愛の女神

目を覚ました時――


エイルは、薔薇の香りに包まれていた。


「……ここは」


彼女は、ゆっくりと身体を起こした。


柔らかい寝台。絹のような布。


周囲を見回すと――


そこは、見たことのない部屋だった。


白銀の壁。


天井には、無数の薔薇が描かれている。

いや、描かれているのではなく、実際に咲いているようだった。

光を放ちながら、ゆっくりと揺れている。


床は、透明な水晶でできていた。

その下に、光が流れている。

白と、淡いピンクの光が、川のように流れ続けていた。


「……天界?」


エイルは立ち上がった。


身体が、軽い。


あれほど重かった身体が、嘘のように軽い。


「制限が……解けてる?」


彼女は、自分の手を見た。


金と黒の光が、いつも通り指先で揺れている。


「エピテウスは……!」


エイルは、周囲を見回した。


だが、彼の姿はどこにもなかった。


ノヴァも、いない。


「どこ……どこにいるの……!」


その時――


扉が、開いた。


いや、扉はなかった。


ただ、壁の一部が光となって消え、そこから誰かが入ってきた。


女性だった。


いや、女神。


彼女は、この世のものとは思えないほど美しかった。


長い金髪が、腰まで垂れている。

その髪は光を放ち、まるで液体の黄金のように流れていた。


瞳は、深い紫色。


その瞳には、無限の優しさと、同時に――深い悲しみが宿っていた。


ドレスは、白銀と薔薇色が混ざり合っている。それは常に形を変え、まるで生きているかのように彼女の身体を包んでいた。


「やっと目を覚ましたのね」


女神は、微笑んだ。


その笑みは、温かかった。


だが――どこか、危うさも感じさせた。


「私の勇者」


「勇者……?」


エイルは、警戒した。


弓を探したが、それも見当たらなかった。


「誰ですか、あなたは?」


「ああ、失礼」


女神は、優雅に一礼した。


「私はカリューナ」


「愛の女神よ」


「愛の……?」


「そう」


カリューナは、エイルへと近づいてきた。


「神々に壊されそうになった、あなたの絆を守るため――」


彼女は、エイルの頬に手を触れた。


「ここに、連れてきたの」


「絆……?」


「あなたと、あの少年の」


カリューナの瞳が、優しく輝いた。


「エピテウスとの絆」


エイルの胸が、痛んだ。


「エピテウス……どこにいるんですか!」


「安心して」


カリューナは、微笑んだ。


「彼は無事よ。ただ――」


「ただ?」


「別の場所にいる」


カリューナは、窓の外を指差した。


そこには、天界の景色が広がっていた。

無数の雲の島が、空に浮かんでいる。


「リミタールの制限によって、あなたたちは引き裂かれた」


「なら――」


「でも、会えるわ」


カリューナは、エイルの手を取った。


「すぐにではないけれど」



エイルは、部屋の隅に座り込んでいた。


自分の敗北を、悔やんでいた。


「私は……弱かった」


彼女は、拳を握りしめた。


「あの神に、何もできなかった」


「制限され、動けなくなって――」


「結局、エピテウスを守れなかった」


涙が、溢れそうになった。


だが――


戦士は、泣いてはいけない。


彼女は、必死に涙を堪えた。


「エイル」


カリューナの声が、優しく響いた。


「戦士としての価値は、強さだけではないのよ」


「でも――」


「聞いて」


カリューナは、エイルの隣に座った。


「あなたの光は、ただ強さで測れるものではない」


彼女は、エイルの胸に手を置いた。


「誰かを想う心」


「信じる意志」


「そして、守ろうとする勇気」


カリューナの瞳が、エイルを見つめた。


「それが、戦士としての本当の力よ」


「でも、私は――」


「あなたは、あの少年のために立ち上がった」


カリューナは言った。


「制限されても、身体が動かなくても」


「最後まで、諦めなかった」


「それが――」


彼女は、微笑んだ。


「あなたの強さ」


エイルは、黙っていた。


そして――


思い返した。


エピテウスとの、記憶を。


戦場で初めて会った時。


冥府で、手を取り合った時。


聖都で、共に戦った時。


彼らは、言葉を多く交わしたわけではなかった。


だが――


沈黙の中で、誓いがあった。


互いの攻撃を補い合い、背中を預け合い、共に立ち上がった。


「……そうね」


エイルは、小さく呟いた。


「私たちは、一人じゃない」


「ええ」


カリューナは、頷いた。


「だから――」


彼女は立ち上がり、手を差し伸べた。


「あなたに、力を授けましょう」


「力……?」


「天界の祝福」


カリューナの手が、光を放った。


その光は、エイルの身体を包んだ。


温かく、優しい光。


それは、徐々に形を変えていく。


鎧。


だが、金属の鎧ではなかった。


光でできた、透明な鎧。


それは、エイルの身体にまとわりついた。

重さはない。

まるで、第二の皮膚のように。


「これは……」


エイルは、自分の身体を見た。


鎧は、淡く輝いていた。

白銀と薔薇色の光が、彼女を包んでいる。


「攻撃力や防御力が上がるわけではないわ」


カリューナは説明した。


「でも――」


彼女は、エイルの胸を指差した。


「心と意思を、強化する」


「心を……?」


「恐怖に負けず、絶望に屈せず――」


カリューナは言った。


「大切な人を想う気持ちを、力に変える」


エイルは、胸に手を当てた。


そこで、何かが脈打っていた。


温かい、光。


「そして――」


カリューナは、エイルの弓を取り出した。


それは、部屋の隅に置かれていた。


「あなたの弓にも、呪文を授けましょう」


カリューナは、弓に手を触れた。


すると――


弓が、淡く光り始めた。


文字が浮かび上がる。


古代語で書かれた、呪文。


「これは……」


「“二人で戦うときにのみ、神の力を相殺する力”」


カリューナは言った。


「あなた一人では、発動しない」


「でも、あの少年と共にいれば――」


彼女は、微笑んだ。


「リミタールの鎖を、断つことができるかもしれないわね」


エイルは、弓を受け取った。


それは、いつもより軽く感じた。


そして――温かかった。


「あなたが彼と再び会うとき――」


カリューナは、窓の外を見た。


「絆が、あなたたちの限界を超える鍵になるわ」


エイルは、初めて理解した。


自分たちの戦いは――


互いの存在なしでは、成り立たない。


一人では、勝てない。


でも、二人なら――


「……ありがとうございます」


エイルは、深く頭を下げた。


「いいのよ」


カリューナは、優しく笑った。


「私も、かつて同じことを学んだから」


「え……?」


「神々の中には――」


カリューナは、遠い目をした。


「愛の力を理解しない者も多い」


「秩序や力のために、人間を弄ぶ者もいた」


彼女の声に、悲しみが滲んだ。


「私も、昔は彼らと同じだった」


「でも――」


彼女は、エイルを見た。


「人の愛や絆を見て、学んだ」


「それは、神々の制限すら揺るがす」


「だから――」


カリューナは、エイルの手を取った。


「私は、あなたを守りたい」


「そして、教え導く」


彼女の瞳が、輝いた。


「愛は、戦士の武器になりうるってことをね」



それから、エイルは天界で過ごした。


時間の感覚は、曖昧だった。


一日なのか、一週間なのか、わからない。


だが――


彼女は、修行した。


カリューナの指導の下、力を磨いた。


光と影を、同時に扱う技。


太陽の光と、冥府の闇。


それらを、完璧に制御する。


最初は、難しかった。


二つの力は、常にぶつかり合おうとした。


だが――


エイルは、諦めなかった。


何度も失敗し、何度も立ち上がった。


やがて――


彼女は、できるようになった。


右手に光。


左手に闇。


それらを、同時に放つ。


矢は、二色に輝いた。


金と黒が、螺旋を描いて絡み合う。


「素晴らしいわ」


カリューナは、拍手した。


「あなたは、もう準備ができた」


「エピテウスと共に――」


彼女は、微笑んだ。


「リミタールに、挑むのでしょう?」


エイルは、頷いた。


「ええ」


彼女は、弓を握りしめた。


「今度こそ――」


彼女の瞳が、輝いた。


金と黒。


二色の光。


「必ず、勝つ」


カリューナは、満足そうに頷いた。


「では、お行きなさい」


彼女は、手を掲げた。


空間が、歪んだ。


光の扉が、現れる。


「あの先に――」


カリューナは言った。


「少年が待っている」


エイルは、扉へと向かった。


だが、振り返った。


「カリューナ様」


「何?」


「なぜ……私たちを助けるんですか?」


「あなたたちは、神々に逆らっている」


エイルは、問う。


「それなのに、なぜ――」


「だからよ」


カリューナは、微笑んだ。


「神々に抗う者こそ――」


彼女の瞳が、優しく輝いた。


「真実の愛を知る者」


「私は、その愛を守りたいの」


エイルは、何も言えなかった。


ただ――


深く、頭を下げた。


「……ありがとうございます」


「行きなさい」


カリューナは、手を振った。


「あなたの勇者が、待っているわ」


エイルは、光の扉をくぐった。


背後で、カリューナの声が聞こえた。


「愛を、力に変えなさい」


「それが――」


声が、遠ざかっていく。


「あなたたちの、武器になる」


光が、エイルを包んだ。


そして――


彼女は、次の場所へと飛んだ。


エピテウスが待つ、場所へ。


再び、共に戦うために。


今度こそ――


限界を超えるために。​​​​​​​​​​​​​​​​

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