第9話 制限の神
階段を登りきった先に、扉はなかった。
ただ、光があった。
眩しいほどの、純白の光。
エピテウスとエイルは、その光の中へと足を踏み入れた。
瞬間――
世界が、変わった。
そこは、白き広間だった。
床も、壁も、天井も――すべてが白。
だが、それは雪の白ではなく、光の白でもなく。
何もない白。
色すらない、概念としての白。
そして――
空気が、止まっていた。
風もない。
音もない。
時間すら、止まっているかのような静寂。
「……ここは」
エピテウスが、呟いた。
声が、妙に響かない。まるで、空間に吸い込まれていくようだった。
「天界……」
エイルも、周囲を見回した。
「神々の、領域」
その時――
ため息が、聞こえた。
「あー、また来たのか」
声は、若く、気だるげだった。
二人は、声のする方を向いた。
広間の中央に、玉座があった。
いや、玉座というより――ただの椅子。
白い石でできた、簡素な椅子。
そこに、一人の男が座っていた。
いや、座っているというより――寄りかかっていた。
無造作に。
まるで、退屈しているかのように。
男は、若く見えた。
二十代前半くらいの、細身の青年。
髪は銀色で、乱雑に伸びている。
服装は、ラフだった。白いシャツに、黒いズボン。
神というより、どこかの街で見かけるような青年に見えた。
だが――
その瞳は、違った。
灰色の瞳。
それは、深い深い虚無を湛えていた。
青年は、片手に林檎を持っていた。
もう片方の手には――鎖。
それは、青年の手首に絡みついている。いや、絡みついているというより、青年そのものから生えているようだった。
「人間ってほんっと飽きないね」
青年は、林檎を齧った。
「自慢の力でも見せに来たのか? それとも――」
彼は、二人を見た。
「“自由”とか言うやつを取り戻しに?」
エピテウスは、剣の柄に手を置いた。
「お前は……誰だ」
「ああ、俺か?」
青年は、椅子から立ち上がった。
ゆっくりと。
まるで、面倒くさそうに。
「俺はリミタール」
彼は、手に持った鎖を揺らした。
「“制限”の力を司る、神様ってヤツだ」
「制限……?」
「そ」
リミタールは、林檎をもう一口齧った。
「神々の秩序を守るため、存在そのものを縛る権能」
彼は、二人へと歩いてきた。
足音が、妙に響かない。
「お前たち、ここまで来たってことは――」
リミタールは、目の前で立ち止まった。
「番人を倒したんだろ? すごいじゃん」
その言葉には、皮肉が込められていた。
「でも、ここからが本番だぜ?」
リミタールの瞳が、冷たく光った。
「天界に来た人間は、必ず制限される」
「それが、ルールだから」
エピテウスは、迷わず剣を抜いた。
エイルも、弓を構えた。
ノヴァが、唸り声を上げる。
「お、やる気満々だね」
リミタールは、肩をすくめた。
「いいよ、来な」
エピテウスは、駆け出した。
ソルディアスを置いてきたため、自分の足で。
剣を振るう。
全力の一撃。
だが――
違和感。
剣が、わずかに遅れた。
いつもより、重い。
「……え?」
エピテウスの剣が、空を切った。
リミタールは、軽く横に動いただけだった。
「今ので1つ」
リミタールは、指を一本立てた。
「“速さ”を制限した」
「な……」
エイルが、矢を放った。
闇を帯びた光の矢。
だが――
それも、遅かった。
いつもの半分ほどの速度。
リミタールは、首を傾けるだけで避けた。
「2つ目」
彼は、指を二本立てた。
「“跳躍力”を制限」
「くそっ!」
エピテウスは、再び斬りかかった。
だが――
身体が、重い。
反応が、鈍い。
呼吸すら、苦しい。
「3つ目」
リミタールは、欠伸をした。
「“反射神経”も制限っと」
エピテウスの剣が、また空を切った。
「何が……起きてる……!」
エイルも、跳躍しようとした。
だが――
足が、地面に張り付いたように重い。
いつもなら軽々と跳べる高さが、跳べない。
「わかんない?」
リミタールは、退屈そうに言った。
「俺の周りには、見えない鎖がある」
彼が手を動かすと――
空間に、淡い光の線が浮かび上がった。
鎖。
無数の鎖が、リミタールを中心に広がっていた。
それらは、エピテウスとエイルにも絡みついていた。
「この鎖が触れたもの――」
リミタールは、指を鳴らした。
「すべて、制限される」
エピテウスは、歯を食いしばった。
「そんな……」
「信じらんないよね」
リミタールは、笑った。
「でも、これが神の力だ」
彼は、再び椅子に座った。
「さ、続けようか」
何度も、挑んだ。
エピテウスは剣を振るい続けた。
エイルは矢を放ち続けた。
ノヴァも、牙を剥いて飛びかかった。
だが――
何も、通じなかった。
刃は、神に触れることすらできない。
矢は、遅すぎて避けられる。
ノヴァの牙も、空を噛むだけ。
そして――
鎖が、増えていく。
「4つ目、“筋力”」
「5つ目、“視力”」
「6つ目、“聴力”」
「7つ目、“平衡感覚”」
リミタールは、淡々と数えていく。
鎖が絡むたび、二人の身体に重みが増していく。
やがて――
エピテウスは、膝をついた。
剣を、杖のようにして身体を支える。
視界が、霞んでいた。
エイルも、倒れた。
弓を握る力すら、残っていない。
ノヴァは、主人の隣で横たわっていた。呼吸が、荒い。
「あー、終わり?」
リミタールは、立ち上がった。
「もう動けない?」
彼は、二人の前まで歩いてきた。
「つまんないな」
リミタールは、しゃがみ込んだ。
「もっと頑張って見せろよ。せっかく天界まで来たんだぜ?」
「くそ……」
エピテウスは、唸った。
「どうしたら……」
「どうしたら、俺たちは――」
彼は、リミタールを睨んだ。
「コイツに、勝てるんだ!」
「勝つ?」
リミタールは、首を傾げた。
「無理無理」
彼は、肩をすくめた。
「お前たちが力を求める限り、制限は増える」
「人間が”超えよう”とするほど――」
リミタールの瞳が、冷たく光った。
「俺の力は、強くなるんだよ」
「あ、今ので8つ目か」
彼は、指を八本立てた。
「少ねぇな、呼吸は制限してねえんだ。まだ歩けるだろ?」
その言葉が、エピテウスの心に火をつけた。
「歩ける……?」
彼は、震える腕で身体を支えた。
「ああ、歩いてやるよ……!」
エピテウスは、立ち上がった。
いや、立ち上がろうとした。
身体が、言うことを聞かない。
だが――
諦めなかった。
「エピテウス……」
エイルも、彼を見た。
そして――
彼女も、立ち上がろうとした。
腕が、震える。
足が、動かない。
弓を射る力も、もう残っていない。
だが――
彼女は、一歩前に出た。
「……なんで」
リミタールは、不思議そうに二人を見た。
「なんで、まだ立つの?」
「決まってる」
エピテウスは、答えた。
「俺たちは――」
「神の作った限界を――」
エイルが、続けた。
「超えるために、来たんだ」
二人は、互いを見た。
そして――
微かに、笑った。
リミタールは、その笑顔を見て――
「……いいねぇ」
彼も、笑った。
「その顔」
リミタールは、初めて立ち上がった。
本気で。
「人間ってやっぱり――」
彼の周りの鎖が、激しく揺れ始めた。
「面白ぇなぁ」
広間の光が、歪んだ。
鎖が、世界そのものを締めつけ始める。
空間が、軋む音を立てた。
「じゃあ、本気出すか」
リミタールは、手を広げた。
「お前ら、全力で来い」
「俺も――」
彼の瞳が、輝いた。
「全力で、制限してやる」
エピテウスは、剣を握りしめた。
エイルは、弓を構え直した。
二人は、残された力のすべてを振り絞った。
「行くぞ!」
「ええ!」
二人は、同時に駆け出した。
いや、駆け出そうとした。
身体は、重い。
速度は、遅い。
だが――
止まらない。
前へ。
ただ、前へ。
エピテウスの剣が、光を放った。
エイルの矢も、闇を纏った。
二つの力が、再び一つになる。
そして――
リミタールへと、向かった。
リミタールは、笑っていた。
楽しそうに。
彼も、手を伸ばした。
無数の鎖が、二人へと殺到する。
剣と鎖。
矢と鎖。
それらが、ぶつかり合った。
瞬間――
光が、弾けた。
白い広間が、眩い光に包まれる。
衝撃波が、空間を揺らす。
そして――
すべてが、白に飲まれた。
光が収まった時――
エピテウスとエイルは、床に倒れていた。
意識が、遠のいていく。
リミタールの声が、遠くから聞こえた。
「……面白かったよ」
「また来な、人間」
視界が、暗くなっていく。
だが――
二人の手は、まだ繋がれていた。
互いを、離さないように。
そして――
意識が、途切れた。
戦いの、結末は……
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