番外編 灰の旗

この物語は、聖都セラフィオンから馬車でおよそ3日離れた農村アルデンから始まる。


*** 第一章 喪失


土は乾き、風は冷たかった。


カストルは膝をついて、ひび割れた大地に指を這わせた。

指先に感じるのは、かつてここにあった豊かさの残滓ではなく、ただ冷たく固い現実だけだ。


かつて実りを誇ったカストルの畑には、いま一本の麦も立っていない。


五年前、この畑は村で一番の収穫を誇っていた。

黄金色に輝く麦の穂が風に揺れ、妻のエリアは笑いながら息子のユリウスの手を引いて畑の間を駆け抜けた。

あの頃、カストルは神に感謝を捧げていた。

毎朝、東の空に向かって祈りを唱え、収穫の一割を神殿に納めることを誇りに思っていた。


それが変わったのは、聖都が”神の大事業”を始めてからだ。


最初の年、徴収は二割になった。

「神殿の修復のため」と祭司は説明した。

村人たちは不満を口にしながらも、従った。

従うしかなかった。


二年目、徴収は三割になった。

「異端との戦いのため」と祭司は言った。

村の備蓄は底をつき始めたが、それでも人々は耐えた。

耐えるしかなかった。


三年目、徴収は五割を超えた。


「これは神の試練である」


祭司の言葉は、もはや誰の心にも届かなかった。


その冬、村に飢餓が訪れた。


エリアは自分の食事を息子に分け与え続けた。カストルが止めると、彼女は微笑んで言った。


「大丈夫よ。母親は強いの」


だが彼女の頬はこけ、目の光は日に日に弱くなっていった。


ユリウスは七歳だった。

痩せ細った体で、それでも毎日父の畑仕事を手伝おうとした。

ある日、畑で倒れた息子を抱き上げたとき、その体があまりにも軽いことにカストルは愕然とした。


「父さん……麦、いつ育つの?」


息子の問いに、カストルは答えられなかった。


春が来る前に、エリアは眠るように息を引き取った。

その三日後、ユリウスも母の後を追った。


カストルは二人を裏の丘に葬った。

墓標代わりに立てた木の枝に、エリアが大切にしていた布を結んだ。風に揺れるそれを見つめながら、カストルは一粒も涙を流さなかった。涙を流すには、心が乾きすぎていた。


葬儀の翌日、祭司がやってきた。


「悲しみはよく分かる。だが、これは神がお与えになった試練なのだ。試練を乗り越えた先に、必ず救いがある」


カストルは黙って頷いた。


祭司は満足そうに微笑み、神殿へと戻っていった。


その背中を見送りながら、カストルは胸の奥で静かに何かが折れる音を聞いた。


それは信仰が砕ける音だった。


翌朝、カストルは妻の墓に手を合わせ、息子の墓に額を押し当てた。


「すまない。お前たちを守れなかった」


彼は立ち上がり、小屋の中から鍬を取り出した。長年使い込んだそれは、彼の手に馴染んでいた。

だが、もうこれを握ることはない。


カストルは鍬を畑の真ん中に突き立て、背を向けた。


村の入口で、戦場へ向かう荷車が止まっていた。傭兵を募集しているという。

行き先は、神に抗うと噂される”連合軍”の陣。


「乗せてもらえるか」


御者は訝しげにカストルを見た。


「あんた、農夫だろう? 戦場は畑とは違うぞ」


「分かっている」カストルは答えた。


「だが、もう守るべき畑も家族もない」


御者は何かを言いかけたが、カストルの目を見て黙り込んだ。

その瞳には、もう何も映っていなかった。


「……好きにしな」


荷車が動き出す。


カストルは振り返らなかった。


村も、畑も、墓も。


ただ前だけを見つめて、彼は戦場へと向かった。


*** 第二章 灰の旗


連合軍の野営地は、予想以上に混沌としていた。


傭兵、脱走兵、追放された騎士、行き場を失った民。

様々な出自の者たちが、ただ一つの共通点で結ばれていた。


聖都への憎悪。


カストルが荷車を降りると、兵士たちの視線が集まった。


「ハァ…また農夫か」


誰かが嘲笑した。


「オイオイ、鍬でも振り回すつもりかぁ?」


カストルは答えなかった。

ただ黙って、募兵所のテントへ向かった。


中にいたのは、隻眼の将軍ガルムだった。

聖都軍の元将校で、異端審問にかけられる前に脱走したという男だ。


「名は?」


「カストル」


「戦の経験は?」


「ない」


ガルムは鼻を鳴らした。


「なら何ができる?」


「この辺りの地理なら、誰よりも詳しい。川の流れ、森の道、村と村をつなぐ小道。それから……」

カストルは続けた。


「聖都軍の補給路も知っている」


ガルムの目が鋭くなった。


「ほう?」


「徴収隊が通る道は毎年同じだ。荷車が通れる道は限られている。川を渡れる浅瀬、峠を越える細道。それらを押さえれば……」


「補給を断てる、というわけか」


カストルは頷いた。


ガルムは腕を組んで、しばらくカストルを見つめていた。


「面白い。使ってやろう」


だが、他の将たちの反応は冷ややかだった。


「農夫に何ができる」


「戦は畑仕事とは違うぞ」


カストルは黙って耐えた。

言葉で証明する必要はない。

行動で示せばいい。


最初の作戦は、聖都軍の補給隊への夜襲だった。


カストルは地図を広げ、補給路上の最も脆弱な地点を指し示した。森に挟まれた細い道で、護衛が前後に分散せざるを得ない場所。


「ここで待ち伏せる。火を使え。荷車は木と布でできている。燃えれば混乱する」


将たちは半信半疑だったが、ガルムが作戦を承認した。


その夜、カストルの読み通り、補給隊が現れた。


松明の火が森を照らし、荷車が軋む音が響く。


カストルは合図を送った。


火矢が空を切り、最初の荷車に突き刺さる。炎が上がり、馬が嘶き、兵士たちが混乱する。


「今だ!」


連合軍が四方から襲いかかった。


戦闘は短時間で終わった。聖都軍の護衛は散り散りになり、補給物資は連合軍の手に落ちた。


野営地に戻ると、兵士たちの目が変わっていた。


「すごいな、農夫」


「また頼むぜ」


カストルは何も答えず、ただ戦利品の中から一袋の麦を手に取った。その重さを確かめながら、彼は複雑な表情を浮かべた。


この麦も、どこかの農夫が育てたものだ。どこかの村から奪われたものだ。


だが、もう引き返せない。


二度目の作戦は地形を生かした伏兵だった。三度目は敵将を誘い込む退却戦。


勝利を重ねるたびに、カストルの名は広まっていった。


そして、彼のもとに人が集まり始めた。


最初に来たのは、少年だった。名はトーマス。両親を聖都軍に殺され、一人で生き延びてきたという。


「あんたについていきたいんだ!」


少年の目には、カストルと同じ光——いや、光の消えた闇があった。


次に来たのは、元盗賊のヴィクトル。聖都の監獄から逃げ出した男だ。


「神に祈ったって何も変わらねえ。だが、あんたは違う。あんたは戦い方を知ってる」


そして、カストルと同じ農民たちも加わった。飢餓で家族を失った者、土地を奪われた者、税の取り立てで家を焼かれた者。


彼らはみな、"神"に見捨てられた者たちだった。


ある夜、野営地で誰かが言った。


「俺たち、部隊の名前がないな」


「そうだな。何か旗でも作るか?」


だが、立派な布も染料もなかった。

あるのは、戦場で拾った布の切れ端だけ。

煤けて、血に染まり、燃え残ったような色をしている。


トーマスがそれらを集めて、不器用に縫い合わせた。


「これでどうだ!」


完成したそれは、どう見ても立派な旗とは言えなかった。

灰色で、継ぎはぎだらけで、風に吹かれればすぐに破れそうだった。


だが、ヴィクトルが笑った。


「いいじゃねえか。俺たちにはこれがお似合いだ」


「灰の旗ってところか」


その名が、自然と定着していった。


カストルはその旗を見上げた。


立派でもなく、美しくもなく、誰からも称賛されない旗。


だが、それは確かに彼らの旗だった。


奪われ、捨てられ、燃やされ、それでもまだ立ち上がる者たちの旗。


「灰か……」カストルは呟いた。


「悪くない」


風が吹き、継ぎはぎの旗が揺れる。


彼らの戦いは、まだ始まったばかりだった。




*** 第三章 相克


冬が来た。


雪が降り始めた日、斥候が報告に来た。


「聖都軍が動いています。大軍です」


ガルムが地図を睨んだ。


「数は?」


「三千。いや、それ以上かもしれません」


連合軍は千にも満たない。

数の差は歴然としていた。


将たちの間に動揺が走る。


「退くべきだ」


「山に逃げ込むか?」


「いや、冬の山は死を意味する」


カストルは黙って地図を見つめていた。

聖都軍が進軍してくるルート。

そこには、かつて彼が麦を運んだ道がある。


「戦おう」


カストルの声に、一同が振り返った。


「正気か? 数が違いすぎる」


「逃げても、いずれ追いつかれる。ならば、戦える場所で戦うべきだ」


カストルは地図の一点を指した。


「ここだ。アルヴァの平原」


「平原? そんな開けた場所で戦えば、数で圧倒される」


「いや」カストルは首を振った。


「この時期、あの平原は雪で覆われる。地面は凍り、視界は悪い。重装備の聖都軍は動きが鈍る。だが、軽装の俺たちなら動ける」


ガルムが腕を組んだ。


「……賭けだな」


「戦いはすべて賭けだ」


ガルムは笑った。


「いいだろう。お前の策に乗る」


連合軍はアルヴァの平原へ向かった。灰の旗を先頭に、千に満たない兵が雪の中を進む。


平原に着いたとき、すでに聖都軍の姿が見えていた。


白金の鎧が雪に反射し、まるで天軍のように輝いていた。その先頭に立つのは、一人の将。


ラドミル。


“神の槍”と呼ばれる男。


彼は槍を掲げた。

その穂先が光を放ち、周囲の雪が溶ける。

神から授かったという聖遺物——光を操る槍。


聖都軍が前進を始める。

大地が揺れ、軍靴の音が雪原に響く。


カストルは剣を抜いた。

父から譲り受けた古い剣だ。

刃こぼれしているが、それでも彼の手には馴染んでいた。


「怖いか?」


隣に立つトーマスに問いかける。


少年は震える手で剣を握りしめていた。


「……怖いです」


「そうか」カストルは頷いた。


「俺もだ」


「でも」トーマスは続けた。


「逃げません。もう、奪われるだけの人生はいやだから」


カストルは少年の肩を叩いた。


「よく言った」


両軍が対峙する。


ラドミルが声を張り上げた。


「神を信じぬ者に、明日はない!」


その声は平原に響き渡り、聖都軍の兵士たちが応えた。


「神に栄光を!」


カストルは一歩前に出た。


「明日か」彼は静かに笑った。


「俺の明日は、お前たちが奪った。妻の明日も、息子の明日も」


ラドミルの目が細められる。


「異端者め。神を冒涜するか」


「神?」カストルは剣を構えた。


「神がいるなら、なぜ俺の家族を救わなかった? なぜ、奪うばかりで何も与えない?」


「それが試練だ。試練を乗り越えた先に——」


「黙れ」


カストルの声は、静かだが冷たかった。


「お前たちの試練で、どれだけの人間が死んだ? お前たちの神の栄光のために、どれだけの家族が引き裂かれた?」


彼は剣を掲げる。


「もう聞き飽きた。お前の神も、お前の言葉も」


ラドミルは光の槍を構えた。


「ならば、神の裁きを受けるがいい」


「裁きなら、俺が下す」カストルは微笑んだ。


「お前の言う通り、俺に明日はない。だから——」


彼は叫んだ。


「今日で終わらせる!」


合図とともに、両軍が激突した。


雪が舞い上がり、剣戟の音が響き渡る。


カストルは一直線にラドミルへ向かった。

聖都兵が立ちはだかるが、彼は迷わず切り伏せていく。

農作業で鍛えた腕力が、今は武器となる。


ラドミルも彼に気づき、光の槍を放った。


眩い光が雪原を照らす。

カストルは間一髪で身を翻し、光の軌跡をかわした。


「速いな、農夫風情がッ」


「生きるために必死だったからな」


二人の間合いが詰まる。


鉄の槍と光の槍がぶつかり合った。

衝撃で地面が裂け、雪が爆発的に舞い上がる。


刃が閃くたびに、雪が血に染まり、蒸気のように立ち上る。


カストルの頬が裂ける。

ラドミルの肩に刃が食い込む。


互いに傷を負いながら、それでも二人は攻撃の手を止めない。


「なぜだ」ラドミルが吠えた。


「なぜ、お前はそこまで戦える? 神への信仰もなく、何のために戦う?」


カストルは答えた。


「奪われた者の怒りだ。それだけで十分だ」


最後の一撃。


二人は同時に踏み込んだ。


一瞬、時が止まる。


雪が静かに舞い落ちる。


次の瞬間——


互いの胸を、刃が貫いていた。


ラドミルの光の槍がカストルの胸を貫き、カストルの剣がラドミルの心臓を穿っている。


ラドミルの膝が崩れる。


「……ば、馬鹿な……神の、加護が……」


彼は倒れ、雪に沈んだ。

光の槍が手から滑り落ち、その輝きが消えていく。


カストルも膝をついた。


胸から血が溢れる。もう長くはない。それは分かっていた。


だが、彼は笑った。


遠くで、灰の旗が風に揺れている。

トーマスがそれを掲げ、仲間たちが雄叫びを上げている。


聖都軍は、将を失って動揺している。

連合軍が押し始めている。


「……ようやく、奪われるだけの人生が終わったか」


カストルは空を仰いだ。


雪雲の切れ間から、夜明けの光が差し込んでいる。


「エリア……ユリウス……見てるか? 俺は、最後に少しだけ、奪い返したぞ」


視界が霞む。


だが、彼の顔には笑みがあった。


灰の旗が、最後まで風に揺れているのが見えた。


そして、カストルはゆっくりと目を閉じた。




*** 第四章 冥府にて


静寂。


音が、ない。


戦場の喧騒も、剣戟の響きも、兵士たちの叫びも。


すべてが遠ざかり、消えていく。


そして、白い霧。


カストルは目を開けた。


胸の痛みがない。傷もない。

だが、これは生きているということではない。それは直感的に分かった。


立ち上がると、そこは見たこともない大地だった。


黒い空には星がない。月もない。

ただ、どこからともなく薄明かりが漂っている。


足元には灰色の大地が広がり、ところどころに黒い岩が突き出している。


遠くで川が流れる音がする。


カストルはその方向へ歩き始めた。

足音がしない。

地面に触れているのに、感覚が曖昧だ。


川に辿り着く。


それは静かに、ゆっくりと流れていた。

水は透明ではなく、どこか濁っている。

いや、濁っているというより、色がない。


川の向こう岸に、無数の影が見えた。


人の形をしているが、顔は判別できない。

ただ、静かに佇んでいる。


「……ここは、どこだ」


カストルは呟いた。


答えは返ってこない。


ただ、風のような音だけが聞こえる。

いや、風ではない。

囁きだ。

無数の声が重なり合った、言葉にならない囁き。


「冥界へようこそ」


背後から声がした。


カストルは振り返った。


そこに、一人の男が立っていた。


黒い衣を纏い、フードで顔を隠している。だが、フードの奥から覗く瞳は、深淵のように深く、静かに揺れる灯火のような光を宿していた。


「お前は……」


「エレボルス」男は名乗った。


「この冥界を司る者だ」


カストルは警戒したが、不思議と恐怖は感じなかった。

むしろ、どこか懐かしいような、安心するような感覚があった。


「俺は……死んだのか」


「その通り」エレボルスは頷いた。


「戦場で、敵将と刺し違えた。よく戦ったな」


カストルは自分の胸に手を当てた。

傷はない。

痛みもない。


「……そうか」


彼は川を見つめた。


「あの向こうにいるのは?」


「死者たちだ。この川を渡り、冥界へと進む者たち」


「俺も、あそこへ行くのか?」


「いずれはな」エレボルスは言った。


「だが、お前にはまだ時間がある」


「時間?」


「お前の魂は、まだ戦場に残っている。お前が遺した意志が、まだ燃えている」


エレボルスは手を上げた。


すると、宙に様子が幻影の様に浮かび上がった。


それは戦場だった。

雪に覆われたアルヴァの平原。


カストルの遺体の傍で、トーマスが灰の旗を掲げている。

その周りに、仲間たちが集まっている。


「将軍は死んだ! だが、戦いは終わってない!」


トーマスの声が響く。


「俺たちは、将軍の意志を継ぐ! 灰の旗は、まだ降りてない!」


兵士たちが剣を掲げ、叫ぶ。


「灰の旗に栄光を!」


聖都軍は混乱している。

ラドミルを失い、指揮系統が崩れている。


連合軍が押し、戦況が傾いていく。


カストルは映像を見つめた。


「……あいつら」


「お前の戦いは、終わっていない」エレボルスは静かに言った。


「お前が灯した火は、彼らの中で燃え続けている」


幻影が消える。


カストルは深く息をついた。

いや、息などしていないのだが、そんな感覚があった。


「俺は……何も成し遂げられなかった」


「そうか?」エレボルスが問う。


「妻も、息子も救えなかった。村も守れなかった。俺はただ……怒りに突き動かされて、戦っただけだ」


「それでいい」


エレボルスの言葉に、カストルは顔を上げた。


「怒りでもいい。憎しみでもいい。お前は立ち上がった。奪われるだけの人生を拒絶し、剣を取った。その選択が、他の誰かを立ち上がらせた」


エレボルスは川を指した。


「あの向こうには、無数の魂がいる。生前、理不尽に奪われ、虐げられ、それでも何もできずに死んでいった者たちだ。お前は違う。お前は最後まで戦った」


カストルは黙って、川の向こうを見つめた。


無数の影。その中に、妻と息子の姿があるような気がした。


「エリア……ユリウス……」


「彼らは、お前を誇りに思っている」

エレボルスは言った。


「お前は彼らの仇を討った。それだけではない。お前は、同じ苦しみを抱える者たちに希望を与えた」


カストルは小さく笑った。


「希望か。柄じゃないな」


「お前が思うより、お前は多くのものを遺した」


エレボルスは振り返り、霧の奥を指した。


「さあ、行くといい。お前の安らぎの場所へ」


カストルは一歩踏み出しかけて、立ち止まった。


「待て」


「何だ?」


「あの旗……灰の旗は、どうなる?」


エレボルスは微笑んだ。

フードの奥で、静かに。


「お前の旗は灰となり、大地に帰る。だが、お前の生きた軌跡は消えない。それはいずれ、誰かの光となろう」


「光……」カストルは呟いた。


「灰が、光に?」


「そうだ。灰の中から、新たな火が生まれる。それが世の理だ」


カストルは頷いた。


「……そうか。なら、いい」


彼は霧の中へ歩き始めた。


一歩、また一歩。


体が軽くなっていく。


心が、静かになっていく。


怒りも、憎しみも、悲しみも。


すべてが、ゆっくりと溶けていく。


最後に振り返ると、エレボルスがまだそこに立っていた。


「神の国じゃなくてよかった」

カストルは笑った。


「……ここなら、少しは眠れそうだ」


「ゆっくり休むといい、戦士よ」


霧が深くなる。


カストルの姿が、少しずつ薄れていく。


彼の視界が白く染まる中、最後に見えたのは——


戦場で燃えた旗の残り火だった。


灰色の布が、風に揺れている。


その灰の中から、小さな火種が見えた。


やがてそれは、誰かの手に受け継がれる。


灰の中から、また誰かが立ち上がる。


それが、彼の遺したものだった。


***


冥界の川のほとりで、エレボルスは静かに立っていた。


また一人、魂が安らぎの地へと向かったようだ。


「よく戦った、カストル」


彼は呟き、黒い衣を翻して霧の中へと消えた。


川は今日も、静かに流れている。


そして、どこか遠くで——


灰の旗が、まだ風に揺れていた。




*** エピローグ 灰は風に


それから五年の月日が流れた。


アルヴァの平原での戦いは、歴史の転換点となった。


ラドミルを失った聖都軍は撤退を余儀なくされ、連合軍は一時的な勝利を収めた。


やがて聖都は内部から崩壊し、神権政治は立て直しを強いられている。


かつて奪われた土地は民に返され、重税は廃止され、人々は再び自分たちの手で未来を築こうとしている。


だが、その礎を築いた者たちの多くは、もうこの世にいない。


カストルの墓は、アルヴァの平原を見下ろす丘の上にあった。


簡素な石碑には、ただ一つの言葉が刻まれている。


「灰の旗の将 英雄 ここに眠る」


その墓の前に、一人の青年が立っていた。


トーマスだった。

かつての少年は、今や立派な青年に成長していた。

顔には戦いの傷跡があり、目には決意の光が宿っている。


彼の隣には、灰色の旗を持った少女がいた。

エミリアという名の孤児で、戦後、トーマスが引き取って育てた子だった。


「これが、英雄カストルの墓?」


エミリアが問う。


「ああ」トーマスは頷いた。


「俺を、俺たちを導いてくれた人だ」


「どんな人だったの?」


トーマスは少し考えた。


「強い人だった。でも、無敵だったわけじゃない。傷つき、悲しみ、怒っていた。ただの人間だった」


「それなのに、どうして戦えたの?」


「それしかなかったからだ」

トーマスは言った。


「奪われて、失って、それでも諦めなかった。立ち上がることを選んだ。それだけだ」


エミリアは旗を見つめた。


継ぎはぎだらけで、色あせて、ところどころほつれている。

それでも、この旗は今も受け継がれている。


「この旗、大事にされてるね」


「ああ。これは俺たちの誇りだ」

トーマスは旗に手を伸ばした。


「この旗は、灰から生まれた。何も持たない者たちが、それでも立ち上がった証だ」


風が吹いた。


旗がはためき、丘の上の草が揺れる。


トーマスは墓に手を合わせた。


「将軍。約束は守りました。あなたの戦いは、無駄じゃなかった」


彼は立ち上がり、平原を見下ろした。


かつて雪と血に染まったこの大地には、今は緑が広がっている。

麦畑が風に揺れ、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。


「見てください。この景色を」

トーマスは呟いた。


「あなたが守りたかったもの。あなたが取り戻したかったもの。今、ここにあります」


エミリアが問う。


「ねえ、トーマス。私も、いつかこの旗を受け継げる?」


トーマスは少女を見下ろした。


「受け継ぐ?」


「うん。この旗を持って、誰かを守りたい」


トーマスは笑った。


「いいだろう。だが、旗を持つことは重い。この旗は、たくさんの命の重みを背負っている」


「分かってる」エミリアは真剣な目で言った。


「だからこそ、持ちたいの。忘れないために」


「忘れない……か」


トーマスは空を見上げた。


雲が流れ、陽の光が差し込む。


「そうだな。忘れてはいけない。奪われた者たちの怒りも、失われた命も、それでも立ち上がった意志も」


彼は旗をエミリアに渡した。


「これを持て。そして、覚えておけ。この旗は降りないんだ。どんなに破れても、色あせても、灰になっても。誰かが拾い上げ、また掲げる」


エミリアは両手で旗を受け取った。


「約束する。この旗を、決して降ろさない」


風が強くなった。


旗が大きくはためき、丘の上で高く舞い上がる。


その灰色の布は、遠くからでも見えた。


平原で働く農夫たちが、顔を上げてそれを見る。


村で遊ぶ子供たちが、指を差してそれを見る。


灰の旗。


誰もが知っている。


その旗が、何を意味するのかを。


それは敗北の旗ではない。


それは勝利の旗でもない。


それは、立ち上がる者たちの旗だ。




同じ頃、冥界の川のほとりで。


エレボルスは静かに微笑んでいた。


「見ているか、カストル」


彼は霧の向こうに語りかける。


「お前の灰は、風に乗って広がっている。お前の火種は、消えていない」


返事はない。


だが、風が優しく吹いた。


それは、まるで答えのようだった。


エレボルスは頷き、黒い衣を翻した。


「ゆっくり休むといい。お前の戦いは、終わったのだから」


彼は川を見つめた。


今日も、無数の魂がこの川を渡っていく。


生前、様々な人生を歩んだ者たち。


幸せだった者も、不幸だった者も。


すべての魂が、この川を越えて安らぎの地へと向かう。


だが、その中には——


立ち上がることを選んだ者たちの魂がある。


彼らの軌跡は、決して消えない。


灰となり、大地に還り、やがて新たな火種となる。


それが、世界の理。


「また誰かが、立ち上がるだろう」


エレボルスは呟き、霧の中へと消えていった。


川は、今日も静かに流れている。


そして、遠い地上では——


灰の旗が、今日も風に揺れている。




*** あとがき(語り手より)


これは、一人の農夫の物語だ。


名もなき者が、失い、怒り、立ち上がり、戦い、そして散っていった物語。


だが、それは終わりではなかった。


彼が遺したものは、今も受け継がれている。


灰の旗は、今も風に揺れている。


世界のどこかで、誰かが立ち上がるたびに、その旗は掲げられる。


奪われた者たちの旗として。


虐げられた者たちの旗として。


それでも諦めない者たちの旗として。


灰は軽い。


風に吹かれれば、どこまでも飛んでいく。


だからこそ、どこにでも届く。


どんな場所でも、種を蒔くことができる。


カストルの灰は、今も風に乗っている。


いつか、あなたの元にも届くかもしれない。


その時、あなたはどうする?


拾い上げるか。


それとも、踏みつけて通り過ぎるか。


答えは、あなた次第だ。


ただ一つ、覚えておいてほしい。


灰の中から、火は生まれる。


どんなに小さな火種でも、風が吹けば燃え上がる。


【完】

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