第5話 冥府の神

意識が、戻ってきた。

エイルは目を開けた。


そこは――見たことのない場所だった。

黒曜石のような砂が、一面に広がっている。

空は灰色で、太陽はどこにもない。

薄暗く、どの方向を見ても同じ景色。地平線すら、曖昧だった。


「ここは……」


彼女は身体を起こした。


身体に傷はない。

落下の衝撃もない。

まるで、最初からここにいたかのように。


「冥界……」


エイルは、震える声で呟いた。


死者の国。太陽の光が届かない、地下世界。


「なぜ、私が……」


戦士は死を恐れない。

だが――死んではいない。

彼女は、まだ生きている。


「……あの少年は?」


エイルは周囲を見回した。

少し離れた場所に、岩があった。

そこに、誰かが座っている。

エピテウスだ。

彼はぼんやりと、灰色の空を見上げていた。

その手には、剣が握られている。


「お前……」


エイルが声をかけると、エピテウスは振り向いた。


「……気がついたか」


「なぜ、お前がここに?」


「それは、こっちのセリフだ」

エピテウスは立ち上がった。

「お前を助けようとしたら、一緒に落ちた」


「助ける……?」


エイルは眉をひそめた。


「私は、お前の敵だったはずだ」


「そうかもしれないけど」


エピテウスは肩をすくめた。


「目の前で人が死ぬのを見過ごせなかった。それだけだ」


エイルは、何も言えなかった。


戦士として、助けを拒むべきだった。

だが――助けられてしまった。


その時。

遠くから、鳴き声が聞こえてきた。


「アオォォォン……」


「この声は……!」


エイルは、駆け出した。

黒曜の砂を蹴り、声のする方へ。

そして――


「ノヴァ!」


銀色の狼が、そこにいた。

傷だらけで、疲れ切った様子だが――確かに、ノヴァだった。


「どうして……お前まで……!」


エイルは、狼を抱きしめた。


ノヴァは、彼女の顔を舐めた。

尻尾を振り、小さく鳴く。


「私を追って……飛び込んだの?」


狼は、何も答えない。

ただ、そこにいる。

エイルの目に、涙が滲んだ。

だが――彼女はすぐに拭った。

戦士は、涙を流してはいけない。


「……ありがとう」


彼女は、小さく呟いた。

エイルとエピテウスは、向かい合って座っていた。

ノヴァは、エイルの隣で丸くなっている。


「自己紹介、しておくか」


エピテウスが口を開いた。


「俺は、エピテウス。リュキナ村から来た」


「……エイル」


少女は、短く答えた。


「ソル=ヴァルナ族の戦士」


「戦士、か」


エピテウスは、彼女を見た。


赤い外套は汚れ、髪も乱れている。

だが、その目には変わらず炎が宿っていた。


「この状況、どう思う?」


「最悪ね」

エイルは答えた。


「冥界に落ちて、太陽もない。脱出方法も分からない」


「じゃあ、協力するか」


「……何?」


「俺一人じゃ、ここから出られそうにない」


エピテウスは言った。


「お前も、そうだろ?」


エイルは、黙っていた。

確かに、その通りだった。


「敵同士だったかもしれないけど」

エピテウスは続けた。


「今は、生きて帰ることが先だ」


「……いいわ」


エイルは、頷いた。


「協力する。だけど――」


彼女は、鋭い視線をエピテウスに向けた。


「地上に戻ったら、また敵よ」


「了解」


エピテウスは、苦笑した。


こうして、二人は冥界を歩き始めた。

時間の感覚が、ない。

太陽がないから、昼も夜もわからない。

ただ、灰色の空が続いている。


黒曜の砂を踏みしめ、二人は無言で歩いた。

時折、奇妙なものが見えた。

石像。朽ちた建物。錆びた武器。

それらは、かつてここに文明があったことを示していた。


「冥界にも、人が住んでいたのか?」


エピテウスが呟くと、エイルが答えた。


「死者が住んでいる」


「死者……?」


「ここは死者の国。罪を犯して死んだ者、病で死んだ者、多くの魂が集まる場所」


エイルは、遠くを見つめた。


「私たちの信仰では、戦士は死後、太陽の国へ行く。神の光に迎えられ、永遠の戦場で戦い続ける」


「でも、ここは……」


「太陽がない」


エイルの声は、硬かった。


「ここは、光に選ばれなかった者たちの場所だ」


その時――

前方に、人影が現れた。


いや、人ではない。

影だった。

灰色の霧のような姿。

だが、人の形をしている。


そして――

その影は、エイルを見つめていた。


「あなたは……」


エイルは、息を呑んだ。

その影に、見覚えがあった。

それは、かつて戦場で対峙した敵兵だった。

彼女が、矢で射抜いた者。


「なぜ、ここに……」


影は、口を開いた。

声は、遠く、虚ろだった。


「我らの魂は……神に祝福されたのか?」


「え……?」


「太陽は……戦士すべてを照らすのか?」


影の背後から、さらに影が現れた。


二つ、三つ、四つ――

無数の影が、エイルを囲んでいた。

それらはすべて、彼女が戦場で葬ってきた者たちだった。


「我らは、誇りを持って戦った」


「剣を取り、命を賭けた」


「なのに、なぜ――」


「光は、我らを迎えなかったのか」


影たちは、怨嗟の声ではなかった。


静かに、ただ――問うていた。

エイルは、答えられなかった。


「私は……」


彼女の声が、震えた。


「あなたたちは、戦士だった。誇り高く戦った!そして、死んだ…」


「だから、太陽の国へ……行けたはずだ」


「だが、我らはここにいる」


影の一つが、言った。


「光には選ばれなかった」


「平等なる戦士の楽園など――嘘だったのだ」


エイルは、言葉を失った。

彼女が信じてきたもの。


〖 戦士は死後、平等に光に迎えられる 〗


それが――嘘だったのか?


「違う……」


彼女は、首を振った。


「太陽神は、すべての戦士を愛する」


「ならば、なぜ我らは闇にいる?」


影たちが、じりじりと近づいてくる。

エイルは、後ずさった。


「エイル」


エピテウスが、彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫か?」


「……わからない」


エイルは、呟いた。


「何が真実なのか、わからない」


二人は、さらに奥へと進んだ。

影たちは、追ってこなかった。


ただ、問いだけを残して。


やがて、巨大な門が見えてきた。

黒い石で作られた、冥府の門。


そこを抜ければ――何かがあるはずだ。


だが、門の前に――

二つの影が、立っていた。


それらは、他の影よりもはっきりしていた。

まるで、生きているかのように。


エイルは、その影を見て――

立ち止まった。


「……嘘」


彼女の声が、掠れた。


「父さん……兄さん……」


二つの影。

一つは、大柄で、剣を持っていた。

もう一つは、若く、槍を持っていた。


エイルの父と兄。


彼らは、五年前に戦場で死んだ。

誇り高き戦士として。

光に召されたはずだった。


「エイル……」


父の影が、口を開いた。


「お前も、ここに来たのか」


「どうして……」


エイルは、震える声で問うた。


「どうして、あなたたちがここに?」


「光には、選ばれなかった」


兄の影が、答えた。


「我らは戦った。誇りを持って。だが――それだけでは足りなかった」


「神々は、勝者の魂しか愛さぬ」


父の影が、続けた。


「死者の中にも、序列がある」


「勝者は光へ。敗者は闇へ」


「それが、真実だ」


エイルは、膝をついた。


「そんな……」


彼女が信じてきたもの。

戦士は平等に扱われる。

死を恐れず戦えば、神が迎えてくれる。


それが――すべて、嘘だったのか。


その時――

周囲の闇が、波打った。


空気が揺らぎ、温度が下がる。

そして――

巨大な影の輪郭が、現れ始めた。

それは、門よりも大きく、空よりも暗かった。人の形をしているようで、していない。

無数の影が集まり、一つの存在を形作っている。


「やぁ、仔供達こどもたち


声が、闇の奥から響いた。

それは低く、穏やかで、どこか優しささえ感じさせる声だった。


エイルとエピテウスは、その存在を見上げた。


「お前は……」


「私はエレボルス」


影が、答えた。


「冥府を統べる神」


冥府の神。

死者の王。


彼の姿は、はっきりとは見えなかった。

見ようとすればするほど、ぼやけていく。

まるで、視線そのものを拒絶しているかのように。


「太陽の娘よ」


エレボルスは、エイルに語りかけた。


「おまえの光は、誰のために燃えていた?」


「……何?」


「勝者のためか? 神のためか? それとも己のためか?」


エイルは、答えられなかった。

誰のために?


彼女は、何のために戦ってきたのか。


「答えろ」


エレボルスの声は、優しいままだった。

だが、その優しさが――かえって重かった。


「私は……」


エイルの声が、震えた。


「戦士として……誇りのために……」


「誇り」


エレボルスは、静かに繰り返した。


「では、問おう。その誇りは、誰が与えた?」


「……神が」


「神が与えた誇りで戦い、神が与えた栄光を求め、神が決めた死後の世界を信じた」


エレボルスの声が、冥界に響く。


「だが、見よ」


闇が広がり、無数の影が現れた。

それらはすべて、戦士たちの魂だった。


「この者たちも、おまえと同じだった」


「誇りを持ち、戦い、死んだ」


「だが、お前達の神には選ばれなかった」


エイルは、その光景を見つめた。

無数の、無数の戦士たち。

彼らはすべて、闇の中にいた。


「この世界に平等など、何一つないのだよ」


エレボルスは、静かに語った。


「嘘だ……!」


エイルは叫んだ。


「神々は戦士を平等に迎えるはず……! 誇りを持って戦った者は、皆――」


「神々が平等を語るのは、己が上に立つためだ」


エレボルスの声が、彼女の言葉を遮った。


「彼らは勝者を讃え、敗者を忘れる」


「強者を選び、弱者を捨てる」


「それが、神々の”平等”だ」


「では……」


エイルは、拳を握りしめた。


「私たちは、何のために戦ったの……?」


「良い問いだ」


エレボルスは、答えた。


「だが、私は違う答えを持っている」


彼は、エイルの前に降りてきた。

巨大な影が、少女の前で人の姿を取る。

黒いローブを纏い、フードで顔を隠した姿。

だが、その目だけは見えた。

深い、深い闇の瞳。


「死こそが唯一、すべてを等しく飲み込む」


エレボルスは言った。


「強者も弱者も、勝者も敗者も、神も人も――すべては、いずれ死ぬ」


「それが……あなたの”平等”?」


エイルは、震える声で問うた。


「そうだ」


エレボルスは、頷いた。


「死は差別せぬ。選り好みせぬ。ただ、平等に訪れる」


「だからこそ――」


彼は、手を広げた。


「私は、お前達を愛している」


エイルの中で、何かが崩壊した。


彼女の胸元にあった、太陽の紋章。

それが――焼け落ちるように、消えていった。


「あぁ……」


エイルは、胸に手を当てた。

紋章があった場所が、空虚だった。

光が、消えた。


「エイル!」


エピテウスが、叫んだ。


だが――

エレボルスは、静かにエイルの前に手を差し出した。


「おまえが光を信じるなら、闇もまた抱け」


彼の声は、優しかった。


「光を照らす影がなければ、世界は形を失う」


「光と闇、両方があって初めて――真実が見える」


エイルは、その手を見つめた。


受け入れるべきか。拒絶すべきだろうか。

これは、冥府の神。死の王。


だが――

彼女の中で、何かが囁いた。


『本当の世界を知りたくないか?』

『本当のを見たくないか?』


エイルは――

その手を、取った。


瞬間。

彼女の身体に、変化が起きた。

瞳に、“金と黒”の二色が宿る。

右目は燃えるような金。太陽の光。

左目は深い黒。冥府の闇。

両方が、同時に輝いていた。


「これは……」


エイルは、自分の手を見た。

それは、まだ人間の手だった。

だが――影も、同時に見えた。


光と闇。

生と死。

両方が、彼女の中に存在していた。


「おまえは今、二つの世界に立っている」


エレボルスは言った。


「生者でありながら、死者を見る」


「光を持ちながら、闇を抱く」


「それが、真実を知る者の道だ」


エイルは、父と兄の影を見た。

彼らは、微笑んでいた。


「エイル」


父が言った。


「お前は、我らを越えて征け」


「光だけでは見えなかった真実を――」


兄が続けた。


「お前は見ることができる」


影たちは、消えていった。

今度は、悲しみではなく。

安らぎと共に。


エイルは、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の身体から、金と黒の光が漏れていた。


「……エピテウス」


彼女は、少年を見た。


その瞳は――もはや、以前とは違っていた。


「私は、変わった」


「ああ……」


エピテウスは、頷いた。


「でも、まだお前だろ?」


エイルは、微かに笑った。


「そうね。まだ、私だ」


彼女は、冥府の門を見た。

そこから、光が漏れている。

地上への道。


「行きましょう」


エイルは、エピテウスに手を伸ばした。


「まだ、やることがある」


エピテウスは、その手を取った。


そして、二人は――

ノヴァと共に、光の中へと歩いていった。

背後で、エレボルスの声が聞こえた。


「行け、二つの瞳を持つ者よ」


「お前の旅は、まだ始まったばかりだ」


闇が、静かに見送っていた。


そして――

冥府の門が、閉じた。​​​​​​​​​​​​​​​​

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