第4話 陽炎の戦士
太陽が、容赦なく照りつけていた。
国境付近の平原は、かつて豊かな草原だったという。
だが今、そこには草一本生えていない。
焦土と化した大地が、どこまでも続いている。
焼け焦げた木々の残骸。
崩れた城壁の破片。
そして――無数の武器が、地面に突き刺さっていた。
戦場だった。
今もなお、戦場である。
煙が立ち上り、遠くで鐘が鳴り響く。
それは戦闘開始の合図。
神官戦士エイルは、高台に立っていた。
燃えるような金の瞳で、戦場を見下ろしている。
彼女の背には弓が背負われ、腰には短剣。
赤い外套が風になびき、まるで炎そのもののようだった。
そして、彼女の足元には――
「グルルル……」
一頭の狼が、うずくまっていた。
ノヴァ。
彼女の相棒である、銀色の毛並みを持つ雌狼。
傷だらけの身体だが、その目は鋭く、獲物を狙う狩人のそれだった。
「いくわよ、ノヴァ」
エイルは、弓を手に取った。
「太陽神アルディアの御名において――私たちは戦う」
彼女は目を閉じ、短い祈りを捧げた。
ソル=ヴァルナ族の戦士は、戦いの前に必ず祈る。
それは勝利を願う祈りではない。
死を恐れぬ心を、神に誓う祈りだ。
『太陽は生命を与え、すべてを焼き尽くす神』
『死を恐れず戦う者こそが、神の光にふさわしい』
『戦いの果てに死ぬことは祝福』
それが、彼女たちの信仰。
敗北もまた、神が与えた試練。
臆病こそが、最大の罪。
ゆえに――戦場で涙を流すことは、恥辱とされる。
「行くぞ」
エイルは駆け出した。
ノヴァが並走し、二人は一つの影となって戦場へと降りていく。
矢が、飛んだ。
エイルの放った矢は、正確に敵兵の肩を貫いた。
致命傷ではない。
彼女は殺すべき敵と、生かすべき敵を瞬時に見分ける。
「左翼を崩せ!」
味方の指揮官が叫ぶ。
エイルは頷き、ノヴァと共に敵陣へと突っ込んだ。
ノヴァが先行し、敵の足を噛み、エイルが追撃する。
弓、短剣、蹴り――彼女達の動きに無駄はなかった。
戦士たちが、彼女の名を呼ぶ。
「陽炎のエイルだ!」
「狼使いが来たぞ!」
彼女は誰よりも強く、誰よりも誇り高い戦士として知られていた。
ソル=ヴァルナ族の中でも、若くして英雄と呼ばれる存在。
だが――
エイルの瞳の奥には、どこか「孤独」があった。
それは、誰も気づかない。
彼女自身も、気づかないふりをしている。
戦いが、すべてを忘れさせてくれるから。
((後ろ!))
ノヴァの咆哮が響いた。
エイルは振り返り、弓を引く。
敵の槍兵が三人、彼女を囲もうとしていた。
「遅い」
彼女は笑った。
矢が三本、同時に放たれた。
それぞれが正確に敵の武器を弾き、隙を作る。
ノヴァが突撃し、敵を蹴散らした。
完璧な連携。
何年も共に戦ってきた、相棒との絆。
だが――その時。
エイルは、気づいた。
戦場の端に、場違いな人影がいることに。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△
エピテウスは、困惑していた。
森を抜け、北へと向かっていた。
だが道を間違えたのか、気づけば戦場の真ん中にいた。
煙と血の匂い。
叫び声と金属音。
「なんだ、ここは……」
彼は剣の柄に手を置き、周囲を見回した。
兵士たちが殺し合い、旗が燃え、死体が転がっている。
「逃げないと……」
だが、どちらへ逃げればいいのかわからなかった。
四方を敵味方の区別もつかない兵士たちに囲まれている。
「おい、お前!」
一人の兵士が、エピテウスに気づいた。
「その紋章……敵か!」
兵士が槍を構える。
「違う、俺は――」
だが、言葉は届かなかった。
槍が突き出され、エピテウスは咄嗟に横に飛んだ。
槍が地面を抉り、土煙が上がる。
「敵の捕虜だ! 捕まえろ!」
複数の兵士が、彼へと殺到した。
エピテウスは走った。
だが、行く手に――
一人の少女が、立っていた。
赤い外套を纏い、弓を構えている。
燃えるような金の瞳が、彼を見つめていた。
「その紋章……」
エイルは、エピテウスの胸元を見た。
そこには、村を出る前に母がくれた守り袋が下がっている。
それには、古い神の印が刻まれていた。
太陽ではない、別の神の印。
「太陽神を穢す異教の印ね」
エイルの声は、冷たかった。
「待ってくれ!」
エピテウスは叫んだ。
「俺はただ、ここを通り過ぎようとしただけだ! 戦うつもりはない!」
「言い訳は聞かない」
エイルは、弓を引いた。
「太陽神に背く者に、慈悲はない」
矢が、放たれた。
エピテウスは反射的に剣を抜いた。
ルキス・アナスタス。
今度は――剣が、応えた。
わずかに光を放ち、矢を弾く。
金属音が響き、矢が地面に突き刺さった。
「……剣士か」
エイルの目が、細まった。
「面白い」
彼女は、次々と矢を放ち始めた。
エピテウスは必死に剣を振るい、矢を払う。
だが、エイルの矢は速く、正確だった。
一本、二本、三本――
「くそっ!」
エピテウスは前に出た。
距離を詰めれば、弓は不利になる。
だが――
「ノヴァ!」
エイルの声に応じて、狼が突撃してきた。
銀色の影が、エピテウスの足元へと飛びかかる。
鋭い牙が、彼の腕を掠めた。
「うわっ!」
エピテウスは転がり、なんとか距離を取る。
だが、エイルはすでに次の矢を構えていた。
そして――
二人の視線が、交差した。
その瞬間。
奇妙な感覚が、走った。
エピテウスは、息を呑んだ。
『この感覚……なぜだ。初めて会ったはずなのに』
彼は、この少女を知っている気がした。
いや、知っているはずがない。
だが――どこかで、見たことがある。夢の中で、あるいは――
「……?」
エイルも、動きを止めていた。
彼女の金の瞳が、揺れている。
『矢が……読まれている?』
彼女は、エピテウスの剣筋を見た。
それは、洗練されていない。未熟で、隙だらけ。
なのに――なぜか、彼女の矢が当たらない。
まるで、彼女の動きを先読みしているかのように。
「お前……何者?」
エイルは、問う。
「俺は――」
エピテウスが答えようとした、その時。
大地が、揺れた。
「な、何……!」
戦場全体が、激しく揺れ始めた。
兵士たちが悲鳴を上げ、武器を落とす。
そして――
暗黒の風が、吹き荒れた。
それは風ではなかった。
死の気配。冥府の息吹。
空が割れ、大地に亀裂が走る。
その亀裂から、黒い霧が噴き出してきた。
「冥府の門……!?」
エイルは、息を呑んだ。
冥府――死者たちが眠る地下世界。
その門が、今、開こうとしていた。
「なんで、ここに……!」
亀裂が広がり、地面が崩れ始める。
兵士たちが次々と、闇の中へと飲み込まれていく。
「逃げろ!」
誰かが叫ぶ。
だが、もう遅かった。
エイルの足元も、崩れた。
「ノヴァ!」
彼女は狼の名を呼んだ。
だが、ノヴァはすでに遠くへと飛び退いていた。
エイル自身は――
落ちていく。
暗闇の中へ。
「くそ……!」
彼女は手を伸ばした。何かに掴まろうと。
だが、掴めるものは何もなかった。
その時――
誰かが、彼女の手を掴んだ。
「……!」
エイルは、目を見開いた。
エピテウスだった。
彼は崩れる地面の端に掴まり、もう片手でエイルの手を握っていた。
「離せっ!」
エイルは叫んだ。
「お前は敵だ! 私を助ける理由はない!」
「理由なんて……」
エピテウスは、必死に彼女を引き上げようとした。
「知るか! ただ……」
彼の手が、滑り始める。
「離したら……お前、死ぬぞ!」
「死ぬことは祝福だ! 私は戦士だ、恐れはしない!」
だが――
エイルの声は、震えていた。
エピテウスは、見た。
彼女の金の瞳に、恐怖があることを。
戦士は、涙を流してはいけない。
だが――恐怖を感じないわけではない。
「……俺は、離さない」
エピテウスは言った。
「お前が誰だろうと、敵だろうと――」
だが、彼の手も限界だった。
地面が、完全に崩れた。
「あ――」
二人とも、落ちた。
冥府の闇へと。
エイルの叫び声が、響いた。
エピテウスは、彼女の手を握ったまま。
そして――
二人は、闇に呑み込まれた。
ノヴァの遠吠えが、最後に聞こえた。
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