第3話 少年の選択

村を後にしてから、最初の夜明けが訪れた。


エピテウスは岩陰で夜を明かし、まだ暗い空を見上げていた。

東の空が薄紫に染まり始め、やがて黄金色の光が地平線を這い上がってくる。

潮風の匂いは、まだ胸に残っていた。

塩と魚と、母の祈りの香。村の、家の、すべての記憶が、風に乗って彼を追いかけてくる。


だが――海の果てから吹く風は、どこか異なる世界の匂いを運んでいた。


それは森の匂い。土と苔と、朽ちた木の匂い。そして、その奥に潜む何か古いもの、忘れられたものの匂い。


エピテウスは立ち上がり、背の剣に手を伸ばした。

ルキス・アナスタス。

父が命を賭けて託した、神剣。

だが、それは今――異様な沈黙を保っていた。

鞘に収められたその刃は、もはや光を放たない。

かつて父の手で雷のごとく輝いたその刃も、今はただの金属の塊にしか見えなかった。


「……父さん。俺には……この剣、重すぎるよ」


答えは、返ってこなかった。


三日間、エピテウスは北へ向かって歩き続けた。


海沿いの道はやがて内陸へと曲がり、森の中へと入っていく。

木々が空を覆い、陽の光が届かない薄暗い道。

時折、獣の遠吠えが聞こえ、少年は剣の柄を握りしめる。

だが、剣は何も応えてくれなかった。


三日目の夜、雨が降り始めた。

冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、エピテウスの服はすぐにずぶ濡れになった。

慌てて雨宿りの場所を探し、森の奥に朽ちた祠を見つけた。


それは、誰かが昔、神を祀るために建てたものだろう。だが今では屋根は半ば崩れ、壁には蔦が這い、石の床には苔が生えている。

それでも、雨をしのぐには十分だった。


エピテウスは祠の隅に座り込み、濡れた服を絞った。

寒さが骨まで染み込み、歯がカチカチと鳴る。

火を起こそうにも、すべてが濡れていて使い物にならなかった。


「……くそ」


情けなさが込み上げてくる。


旅立って三日で、もうこの有様だ。戦うこともできない。火も起こせない。

ただ震えているだけの、無力な少年。


そのとき――

足音が聞こえた。


エピテウスは、はっとして顔を上げた。

祠の入口に、三人の男が立っていた。

彼らはボロをまとい、錆びた剣や斧を手にしている。顔は汚れ、目つきは鋭かった。そして――その目が、エピテウスの背にある剣に釘付けになっていた。


「おや、先客か」


先頭の男が、ニヤリと笑った。歯が何本か欠けている。


「それも、良い剣を持ってるじゃねえか」


盗賊だ、とエピテウスは悟った。


「あ、あんたたちは……」


「どこから来たんだ、え?」


男が一歩、祠の中に入ってきた。


「旅人か? ずいぶん高そうな剣だな。どこで盗んだ?」


「盗んでない! これは父さんの――」


「ほう、親父の?」


男は仲間と顔を見合わせて笑った。


「なら、親父さんはもういないんだろ? だったら、お前にはちと重すぎるんじゃねえか?」


男たちが、じりじりと近づいてくる。


「きれいな剣だな、坊主」


もう一人の男が言った。


「使えるのか? 見せてみろよ」


エピテウスは、後ずさった。


「来るな……!」


「おいおい、怖がるなよ。ただ見せてもらうだけだ」


男が手を伸ばしてきた。


エピテウスは反射的に、剣の柄に手を伸ばした。


「触るな!」


彼は剣を抜こうとした。


だが――

剣が、動かなかった。


まるで根を張った木のように、鞘に封じられていた。

いくら力を込めても、一寸たりとも抜けない。


「なんで……!」


エピテウスは必死に引っ張った。

両手で柄を掴み、全身の力を込める。


「応えてくれないんだ……!」


盗賊たちが、笑い声を上げた。


「なんだ、使えねえのか」


「ただの飾りかよ」


「それなら、売り飛ばせばいいな」


男が、エピテウスの胸倉を掴んだ。


「悪く思うなよ、坊主。俺たちも生きるのに必死なんだ」


そして、拳が振り下ろされた。


エピテウスの頭に鈍い痛みが走り、視界が歪む。

もう一発、腹に拳が入り、彼は床に倒れ込んだ。


「剣を寄こせ!」


男が剣を奪おうと手を伸ばす。

だが、剣は彼の手にも応じなかった。

まるで石のように重く、びくともしない。


「くそ、なんだこれは!」


男が苛立ち、剣を蹴り飛ばした。

剣は床を滑り、祠の隅に転がった。


「もういい、他の荷物を探せ」


盗賊たちはエピテウスの荷物を漁り始めた。

僅かな食料と、母がくれた守り袋を奪い取る。

エピテウスは泥にまみれ、必死に手を伸ばした。


「やめろ……返せ……!」


だが、身体が動かなかった。痛みと疲労で、指先すら動かせない。

やがて盗賊たちは満足したのか、獲物を抱えて祠を出て行った。

嘲笑の声を残して。

エピテウスは、ただ横たわっていた。

雨の音だけが、虚しく響いている。


「……父さん」


小さく呟いた。


「俺は……何もできない」



翌朝。

エピテウスは、目を覚ました。

雨は止んでいた。朝日が祠の隙間から差し込み、床を照らしている。

身体中が痛む。顔も腫れ、唇は切れていた。

彼はゆっくりと立ち上がり、泥にまみれた守り袋と転がった剣を拾い上げた。

重く、冷たく、何も応えてくれない剣。


「……行こう」


どこへ、とも決めずに。

ただ、ここにいても何も変わらない。

エピテウスは祠を出て、森の奥へと歩き始めた。

やがて、彼は辿り着いた。


森の最も深い場所に、遺跡があった。

古びた石碑が、蔦に覆われながらも立っている。

その中央には、小さな窪みがあり――そこに、金色の糸が納められていた。

アステリオネが落とした、糸の欠片。

それは、誰かがここに祀ったものだった。


「これは……」


エピテウスは、その糸を見つめた。

答えなど、ここにはない。

彼は立ち去ろうとした。


その時――

周囲の音が、消えた。


鳥のさえずりも、風の音も、自分の呼吸すら。

すべてが、静止した。


エピテウスは振り返った。

木や葉から滴り落ちる雨粒が、空中で凍りついていた。


落ちるはずの雫が、宙に浮いたまま動かない。

時間が――止まっている。


「な、何が……」


彼の足元から、何かが広がり始めた。

金糸の模様。

それは地面を這い、木々を伝い、空へと昇っていく。

世界全体が、その糸で覆われていく。


そして――

世界が、割れた。


硝子のように。透明な破片となって、砕け散っていく。


その奥に――

少女が、立っていた。


蒼い衣を纏い、長い黒髪に幾何学模様が浮かび上がっている。その手には、砂時計。そして全身から、時の流れが見えた。

過去、現在、未来が、彼女の中で渦を巻いている。


「あなたは……」


「私はクロノメア」


少女は、静かに言った。


「時間を司る女神」


彼女は、エピテウスへと近づいてきた。

足音はなく、まるで時の流れそのものが歩いているようだった。


「お前は"時の恩寵"を知らぬまま、流れの外に立っている」


クロノメアの瞳が、少年を見つめた。

その瞳には、無数の時計の針が回っていた。


「だから剣は応えない。ルキス・アナスタスは"時の織り"に逆らう刃――持つ者が成長せねば、世界ごと裂いてしまう」


「時の織り……?」


「すべての存在は、時の中に生きる」

クロノメアは説明した。


「生まれ、成長し、やがて死ぬ。それが時の流れ。だがお前は――誤りの子。本来存在しない命。だから、お前の時は定まっていない」


彼女は、砂時計を少年の前に

正確には、砂時計は宙に浮いている。

砂がゆっくりと、上から下へと落ちていく。


「この砂がすべて落ちるまでに、己の"時間"を見つけなさい」


クロノメアの声は、優しく、そして厳しかった。


「さもなくば、お前という存在は時の外に置き去りになる。永遠に、誰にも触れられず、誰も触れることのできない――存在しない存在として」


「待って、俺は――」


エピテウスの視界が、歪んだ。

世界が溶け、色が混ざり合い、そして――

彼は、落ちていった。


そこは、無数の"もしも"が流れる世界だった。


エピテウスは、透明な空間に浮かんでいた。

そして、自分の周りに――無数の自分が、いた。


一人の自分は、戦場にいた。

剣を振るい、敵と戦い、そして――胸を貫かれて倒れる。

血が流れ、視界が暗くなり、命が消えていく。


「これは……俺?」


もう一人の自分は、村にいた。

父と一緒に、漁船に乗っている。網を引き、魚を獲り、笑い合っている。

平穏な日々。

怪物も、女神も、何も現れない世界。


「これも……俺?」


さらに別の自分は、海で溺れていた。

波に飲まれ、助けを求める声も届かず、静かに沈んでいく。何も知らぬまま、何も成さぬまま、終わっていく命。


それぞれの「時」が、独立して流れていた。

どれが真実なのか。

どれが、本当の自分なのか。


「俺は……」


エピテウスは、混乱していた。

戦場で死んだ自分も、村で生きた自分も、海で消えた自分も――どれも自分に見えた。

どれも、あり得た未来。


「どの道を選んでも、誰かが泣く……」


戦場の自分を選べば、村の人々が悲しむ。

村に残る自分を選べば、世界が危機に陥る。

海で消える自分を選べば、母が一人で泣く。


「ならば――」


エピテウスは、叫んだ。


「俺は、誰のために生きる?」


その瞬間。

幻界が、揺らいだ。


無数の自分が、一つに収束していく。

光の粒となって、彼の元へと集まってくる。


そして――

クロノメアの真の姿が、現れた。

蒼い衣は、今や星々を織り込んだドレスとなっていた。長い黒髪には時の流れが宿り、一筋一筋が過去から未来へと続いている。幾何学模様が全身を覆い、彼女自身が巨大な時計のように見えた。


「ようやく見つけたようだな」


クロノメアは、微笑んだ。


「答えを」


「答え……?」


「お前は問うた。誰のために生きるのか、と」


彼女は、エピテウスの胸に手を触れた。


その瞬間――

彼の中で、何かが弾けた。

眠っていた金の糸が、震えた。

アステリオネから受け取った糸の欠片が、心臓の鼓動に合わせて脈打ち始める。


そして――

剣が、共鳴した。


ルキス・アナスタス。背に背負った神剣が、淡く光を放ち始めた。

まだ弱い光。


でも、確かに――目覚めの兆し。


「お前は他の誰かの時ではなく、自らの時を選んだ」


クロノメアは言った。


「それが運命を変える最初の資格。剣は再び、お前を持ち主と認めるだろう」


世界が、動き出した。

凍りついていた雨粒が、再び落ち始める。

鳥の声が戻り、風が吹く。

時間が、流れ始めた。

エピテウスは、自分の掌を見た。

金の糸が、そこで輝いている。そして、剣が――わずかだが、温かい。


「これで……俺は……」


「まだ始まったばかり」


クロノメアは、別れを告げるように彼から離れた。


「お前が進む先に、"赤き翼を持つ少女"が現れる」


「赤き翼……?」


「彼女は戦いの火を背負い、この世界の均衡を揺るがす者」


クロノメアの姿が、徐々に透明になっていく。


「だが忘れるな――彼女はお前の敵であり、同時に"真の糸"を繋ぐ者でもある」


エピテウスは、言葉を失った。


「それが……俺の"次の試練"なのか」


「そう」


クロノメアは、最後に微笑んだ。


「お前の時はもう動き始めた。止めることはできない。前へ進むしかない」


彼女は、空気に溶けるように姿を消した。


そして――

砂時計が、砕け散った。

金の砂が、風に舞う。

それは光の粒となって、森中に広がっていく。

エピテウスは、その砂を見つめた。

自分の時間。

自分だけの時。

それが、今、動き出した。


彼は、石碑に目を向けた。

金の糸が、そこで輝いている。

彼はそれを手に取った。

今度は、迷わずに。

糸は、彼の手のひらで温かく脈打った。


「……行こう」


エピテウスは呟き、遺跡を後にした。


北へ。

赤き翼を持つ少女が待つ場所へ。

真の糸を繋ぐために。

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