第25話 総理、一日を終える
恐山ダンジョンを攻略し、外界に帰還した迅一郎。
総理大臣として、配信が終わった後こそが本番だった。
帰還報告、医療班への指示、緊急記者会見──
次々と押し寄せる公務をこなし、ようやく首相官邸へ戻ってきた時には、時刻は深夜を回ろうとしていた。
官邸の正面扉をくぐり、エレベーターで五階へ。
廊下を歩く靴音だけが、静まり返った官邸に響いている。
執務室のドアを押し開けると、淡い灯りが彼を迎えた。
「総理、お疲れ様でした」
不意にかけられた声に、迅一郎は立ち止まった。
誰もいないと思っていた執務室──そこには白瀬結月がいた。
デスクの脇で、書類をまとめていた彼女がこちらを向く。
迅一郎は思わず腕時計を見やる。
とっくに退庁時刻を過ぎていた。
「こんな時間まで……僕を待っていたのか?」
「はい。秘書官として当然のことです」
控えめな微笑みを浮かべる結月。
そんな彼女の顔を見て、迅一郎も思わず口元を和らげた。
「すまないね。だが助かった。明日のスケジュールで確認したいことがあったんだ。申し訳ないが、三十分ほど——」
コートを脱ぎながら歩み寄ったその時、視界がふっと揺らいだ。
足元が崩れ、膝が折れそうになる。
「っ、先輩!」
結月が慌てて駆け寄り、倒れかけた彼の体を支えた。
彼女の肩に重みを預けながら、迅一郎は息をつく。
体の奥から心臓の鼓動に従って響くような痛みが広がっていた。
それは疲労のせいではなかった。
スキルを使いすぎた反動──命を削る感覚がまだ残っている。
戦いの代償が、呼吸のたびに鈍く疼いていた。
それでも迅一郎は、かすかに笑って首を振った。
「すまない、白瀬くん。大丈夫だ。すこし疲れが溜まっているみたいだね」
「大丈夫じゃありません。総理、今日はもう休んでください」
結月の声がわずかに震える。
迅一郎は、そんな彼女を元気づけようと冗談めかして言う。
「こと総理大臣に、ワークライフバランスは存在しないからね」
「そんな冗談で済ませないでください!」
結月の声が鋭く響いた。
その声色には、わずかな怒りと、それ以上に大きな不安の色が滲んでいた。
普段の彼女らしからぬその剣幕に、迅一郎は思わずたじろいだ。
しばしの沈黙。
それから、結月は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「国のために身を削る総理を、私は尊敬しています。でも……同時に、総理は一人の人間なんです。代わりなんていません。総理がいなくなったら……悲しむ人がいるんです」
結月の言葉を受けて、脳裏に、あかりの笑顔が浮かんだ。
最後に顔を見たのは三日前。
忙しさにかまけ、電話すらできていなかった。
胸の奥がじんと痛み、言葉にできない後ろめたさが広がっていく。
迅一郎はその痛みを隠すように、静かに視線を落とした。
「そうだな……僕がいなくなったら、あかりは一人ぼっちになってしまう」
「……あかりちゃんだけじゃありません」
「え?」
迅一郎は顔を上げて結月の顔を見つめる。
彼女の潤んだ瞳が、静かに光を映していた。
「私も……もし先輩がいなくなったら……耐えられません」
「結月……泣いてるのか?」
「すいません、先輩の顔を見たら……」
結月は顔を覆った。
肩が小さく震えている。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたようだった。
「先輩が腕を失くしたとき……本当に怖かったんです。先輩がもう戻ってこないんじゃないかって……! 秘書官として冷静でいなきゃいけないのに……! わたし……!!」
震えた声。
迅一郎は、黙ってその言葉を受け止めるしかなかった。
彼は一歩近づくと、ためらいながらも結月の肩に手を置いた。
慰めの言葉を探すことも、言い訳を並べることもしなかった。
ただ、その沈黙のまま、彼女の震える心に寄り添おうとした。
「すまない。僕が頼りないせいで、辛い思いをさせたね」
「……違うんです。先輩はなんにも悪くなくて……謝らないでください。私が、未熟なだけなんです……でも、本当によかった……先輩が生きていてくれて……」
涙の合間に、かすかに笑みがこぼれた。
迅一郎も小さく息をついて笑う。
「取り乱してしまって、ごめんなさい。先輩……」
「僕のほうこそ」
言葉が途切れた。
二人の間に、静寂が降りる。
「先輩、約束してくれませんか。もう、無理はしないって」
「それは……悪いが約束できない。総理大臣として、命を賭して職務を果たす覚悟がある。その覚悟がなければ、最初からこの席には座っていない」
結月は唇を噛み、目を伏せた。
その沈黙を受け止めながら、迅一郎は少しだけ息をつく。
「でも──これだけは約束するよ。無駄に死ぬことは絶対にしない。生きるために、何度でも立ち上がる。生きて、生きて、生き抜いてみせる」
迅一郎の言葉に、結月は微笑みながらかぶりを振った。
そして、真っすぐに見つめ返す。
「だったら、支えます。何度でも。——先輩が、立ち続けられるように」
その言葉に、迅一郎は静かに目を細めた。
しばらくののち、ぽつりと呟く。
「ありがとう結月。僕の右腕でいてくれて」
結月は小さく頷くと、微笑んだ。
その瞳には、ようやく涙の跡が消えていた。
迅一郎が再び机に向かおうとすると、結月がその手をそっと押さえる。
驚く彼に、彼女は小さく笑って言った。
「もう仕事は禁止です。公邸まで、お送りします」
「……わかった。君の言う通りにしよう」
窓の外では、深夜の東京が静かにネオンの灯りを放っていた。
執務室にかけられた壁時計の鐘が鳴り、日付の境を刻む音が響いた。
戦いの一日が、静かに終わりを告げた。
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