第8話 総理、立ち向かう
レイダーとの戦闘を制して、新宿ダンジョンの下層へ足を踏み入れた迅一郎。
その景色に目立った変化はないものの、空気の重さが違っていた。
息を吸い込むたび、鉛の塊を押し込まれるような重圧が胸を締めつける。
迅一郎はわずかに眉間にシワを寄せると、小さく息を吐いた。
「……ふむ」
息を整えようとしたその時——
『総理、体調に異常はありませんか?』
結月の柔らかい声が耳に届く。
彼女は、迅一郎が浮かべたわずかな苦悶の色を、見逃さなかった。
『現在地の瘴気濃度が40パーセントを超過しています。今更説明は不要だとは思いますが、通常であれば
結月が語った言葉——
それは、ダンジョンに満ちる呪いの霧だ。
目には見えず、無味無臭。
だが、肺を満たした瞬間から体内をじわじわと蝕んでいく。
瘴気は、ダンジョンの奥へ潜れば潜るほど濃くなる。
山で空気が薄くなった登山者が高山病を発症するように、瘴気もまた濃度に比例して人間を蝕んでいくのだ。
上層ではただの違和感に過ぎないが、中層を越えるあたりから、頭痛や吐き気を訴える探索者が出始める。
さらに下層に進めば症状は急激に悪化し、呼吸困難や幻覚症状、そして意識の混濁——最悪の場合は死に至る。
正式名称〝特地障害症候群〟。
探索者たちは、俗にこれを〝
ダンジョンに挑む者にとって、モンスターと並ぶ重大な脅威——それがこの瘴気だった。
そして、迅一郎が今味わっているのは、濃度40パーセントの瘴気。
耐性のない者であれば昏倒していてもおかしくない、致命的な濃度である。
「心配無用だ、白瀬くん。この程度なら、昔、いやというほど浴びてきた。むしろ——下層に戻ってきた実感が湧いて気が引き締まるね」
『……総理がそんなふうに笑っていられるのは、きっと血の滲むような修練の賜物でしょうね』
結月はわずかに口元をほころばせた。
だが彼女はすぐに表情を引き締めると、迅一郎に忠告の言葉を寄せる。
『ですが油断は禁物です。瘴気は少しずつ積み重なり、肉体を確実に蝕みます。私も総理の体調については常にモニタリングしているつもりですが、総理もご自身の体調変化にはくれぐれもご留意ください』
「承知した」
結月との短い応答を済ませたあと、迅一郎はナビゲートに従って通路を進んでいく。
やがて、その突き当り。
重厚な玄室の扉が、迅一郎の行く手を遮った。
『総理、その先が目的地。オリハル鉱の探索ポイントです——』
目的地への到達を告げた結月。
モニターに映る彼女の表情には、警戒の色が刻まれている。
『お気をつけください。中から巨大な敵対反応があります。この反応は
「さながら、宝を守る番人といったところか。面白い、腕がなるよ白瀬くん」
迅一郎は、結月の忠告に臆するどころか、不敵な笑みを浮かべる。
そして、玄室の扉をゆっくりと押し開き、中に踏み込んだ。
扉の先には、これまで通過してきたどの玄室よりも、広大な空間が広がっていた。
ドーム状にせり上がった天井は闇に溶け、そこに散らばる無数の光が瞬いている。
まるで地下に星空を閉じ込めたかのような光景。
その輝きの源は、岩盤から突き出した結晶だった。
一つ一つが青白い光を脈動させ、呼吸しているかのように明滅している。
「……あれが、オリハル鉱か」
:めっちゃ光ってる
:ゲームのレア鉱石感やべえ!
:まじでオリハル鉱までたどり着いちゃったよ、この人w
:今更だけどオリハル鉱ってそんなに凄い資源なの?
:めっちゃ強靭、軽い、かつ加工性にも優れてるで
:車や電車、飛行機、ビルの資材から発電機構まで、ありとあらゆる工業製品に使われてる最重要資源の一つや
画面を流れるコメントを視界の端で拾い、迅一郎は簡潔に補う。
「皆さんが言及しているとおり、オリハル鉱に限らず、ダンジョン内で採掘される〝マテリアル〟と呼ばれる希少資源は、現代社会において、必要不可欠な重要資源となっています。しかしその重要度と反面、マテリアルの産地は極めて限られているのが現状です——」
迅一郎は足を止めて、しばしオリハル鉱石が放つ、群青色の輝きを見上げた。
「マテリアルの発見例は、基本的にダンジョンの下層以降に限られます。当然、安定確保できている事例は世界的に見てもわずか。つまり、マテリアルの供給を握った国家や企業は、工業力そのものを半独占できるわけです。飛行機や自動車どころか、発電所や軍需産業まで、マテリアルの供給が止まれば、その工業生産はストップしてしまうわけですから」
:戦略資源を持つ国が強いのはいつの世も同じ
:一昔まえは石油とかレアメタルとかだったけど、ダンジョンが現れてから一気に変わったもんね
:じゃあマテリアルをゲットできれば、日本覚醒ってことでおけ?
視聴者のコメントに、迅一郎はうなずく。
「ダンジョンでマテリアルを安定確保出来るようになれば、エネルギー問題をはじめとして、我が国が抱える諸課題の、解決の突破口となりえます。同時に、我が国は国際社会に対して大きなアドバンテージを得ることもできるでしょう。ゆえに私は——」
迅一郎がダンジョン開発にかける自身の展望を語ろうとした、その瞬間だった。
「グォオオオオオオオオオオオオオッ——!!」
玄室の奥から、雷鳴を思わせる轟音が響き渡った。
それは、未知なる存在の咆哮。
地震のように玄室全体が揺さぶられ、天井から砂礫がざらざらと降り注いだ。
:なんだこの声!?
:モンスター!?
:スピーカー越しの音圧でスマホ落とした
:やべー敵の予感
「……来たか、
迅一郎は小さく呟いてから、暗闇の先をまっすぐ見据える。
姿を現したのは、身の丈は20メートルをゆうに超えるであろう圧倒的な巨体だった。
全身が赤黒い鱗に覆われ、ゆるやかに持ち上がった細長い首の先には、闇を裂くように真紅の双眸が妖しく輝いている。
天井を覆わんばかりの巨大な翼がばさりと広がり、迅一郎のスーツの袖をはためかせた。
:うわあああああああああ
:ドラゴン出たーーーー!!
:Sランクモンスターだぞおおおおおお!!
:やべええええええええ
:総理、撤退しよ! さすがにドラゴンは死ぬって!!
:無理ゲーすぎる
強敵の出現を受けて、コメント欄が一気に騒然となる。
重ねるように、モニター越しの結月の声が切迫した。
『総理! ドラゴンの登場は想定外です! このまま戦闘に突入した場合、負傷可能性79パーセント! ただちに撤退を!』
常に冷静沈着な彼女が、取り乱したように撤退を推奨している。
そのことが、迅一郎が対峙しているドラゴンというモンスターの脅威を物語っていた。
ドラゴン——
ダンジョンに棲むモンスターの生態系において、絶対的な頂点に立つ存在。
モンスターの脅威度を区分する等級は、当然に最上級の〝Sランク〟に位置付けられている。
『総理……! ドラゴンは、表面上の等級だけを見れば、先ほど総理が圧倒したヒポクリフと同じです! ですが、その二種の間には、天と地ほどの実力差が……!』
「わかっているとも。現在の等級制度では一定以上の力を持つモンスターは、すべてSランクにまとめられてしまう。そうだろう、白瀬くん」
ドラゴンはS級の中でも桁外れの存在だ。
その脅威は測り知れず、外界に侵出した個体が、街ごと呑み込んでしまった事例もある。
だからこそ視聴者も。そして迅一郎の実力を誰よりも知る結月までもが、撤退を強く訴えているのだ。
「私は逃げないよ、白瀬くん」
それほどの怪物を前にしても——
迅一郎は臆することなく立ち続けていた。
その決断に、結月は思わず息を呑んだ。
『そ、総理……ドラゴンと、戦うおつもりですか……!?』
「ああ」
狼狽する彼女とは対照的に、迅一郎は落ち着き払った表情でそう言い放った。
その決意を刻むように、一歩また一歩とドラゴンの方に踏み出し、腰に下げた刀を抜き放つ。
甲高い鞘走りの音が玄室に響き渡り、張りつめた空気をさらに鋭くした。
「確かに、普通の探索者ならこの状況は撤退一択だろう。ドラゴン相手に単騎で挑むなど正気の沙汰じゃない」
迅一郎は口元に不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。
「だが私は探索者である前に、政治家だ。ダンジョン開発を推し進め、この国を立て直すと国民の皆様に約束した以上——」
迅一郎はそこで言葉を区切り、ドラゴンを見据える。
「どんな困難であろうと、
『総理……』
迅一郎の瞳に映るのは、目の前に対峙するドラゴンの姿ではなかった。
彼が巨竜の姿に重ねるのは、自身が政治家として自身が直面してきた、日本が抱える政治的課題の数々だ。
——少子高齢化。
——経済成長の低迷。
——激甚化する自然災害。
——社会不安の増大と、分断していく社会。
このまま有効な手を打つことができなければ、この国はそう遠くない未来に、立ち行かなくなってしまう。
「ドラゴン程度の困難から逃げていて、国家の舵取りという重責が務まるはずもない」
迅一郎は自らに言い聞かせるように、決意を口にした。
「国民の皆さん。私は困難に対してひたむきに立ち向かう! それは、立ち向かう気持ちがひたむきだからこそ、困難から逃げずにすむということです!」
:翻訳(私は困難から逃げません)
:これは内閣総理大臣、和泉迅一郎
:くそwww迅一郎構文のくせにちょっとかっこいいじゃねえかwww
:言葉がぐるぐるしてるのに勢いあるの草
:内容は薄いけど熱量は濃いw
:もう少しだけ、政治を信じてもいいのかもしれない
:やっちゃってください総理!!
コメント欄の熱が、一気に高まるのを感じる。
この瞬間、迅一郎は確かに国民の心を掴んでいた。
「来るがいい! ドラゴン!!」
《TIPS》マニフェスト
政党や候補者が選挙時に示す具体的な公約のことで、数値目標や期限を明示する点が特徴。
一方で、その達成は義務ではないことから、達成が困難な目標を掲げてしまったり、複雑な政策を単純化しすぎたりする問題があり、実行力や検証の仕組みが不十分で、形骸化しているという指摘もある。
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