第14話 罅割れた万華鏡

私の世界は、色を持ち始めていた。

それは、バイト先の『Blue Nocturne』で覚えた、何十種類もの珈琲豆の色であり、カウンターに並ぶリキュールの瓶が照明を反射する、宝石のような色だった。

長谷川さんは、私が黙ってカウンターを磨いていると、時折、古いジャズのレコードをかけて、その曲の背景をぽつり、ぽつりと語ってくれるようになった。孤独なトランペッターの話、恋に破れたブルースシンガーの話。そのどれもが、どこか私に似ていて、私は彼の話を聞くのが好きだった。


「…あんたは、まだ若い」


ある日の閉店後、彼はバーボングラスを傾けながら、珍しく私にそう言った。


「若いってのは、傷つきやすいってことだ。だがな、傷の数だけ、人間は深く、面白くなる。音楽と一緒だ」


彼の言葉の意味は、まだ半分もわからなかった。

でも、傷つくことを肯定されたような気がして、私の心は少しだけ、救われた。

学校でも、変化はあった。

高坂さんと一緒にいることが当たり前になり、クラスメイトたちも、奇妙なものを見るような視線を向けることはなくなった。私が一人でいると、「あれ、今日高坂さんは?」なんて、声をかけてくる女子まで現れた。

私は、自分がこの教室の風景の一部として、ようやく受け入れられたような、そんな錯覚さえ抱いていた。

温かい光の中で、私の感覚は、少しずつ麻痺していったのだ。

だから、気づかなかった。

私の隣で、高坂さんの世界が、音を立てて罅割れていっていることに。


彼女が見る世界は、歪み始めていた。

授業中、ノートを取ろうとすると、文字が蠢く虫のように見えて、吐き気がこみ上げてくる。

友達と笑い合っていても、その笑顔が、自分だけを嘲笑う仮面のように見えて、背筋が凍る。

夜、ベッドに入れば、天井の染みが、あのフードの男の顔に見えて、眠りにつけない。

そして、絶え間なく、あの「囁き」が聞こえる。

それはもう、外から聞こえる声ではなかった。彼女自身の、心の奥底から響いてくる、もう一人の自分の声。

『見てみろ、みんなお前のことを馬鹿にしてる』

『お前だけが、何もできない落ちこぼれだ』

『水無月さんは、もうお前がいなくても大丈夫なんだ。お前は、あの子の隣にいる資格なんかない』

彼女は、必死に抵抗した。

違う、違う、と心の中で叫び続ける。

でも、囁きは、彼女が元々持っていた真面目さや、完璧主義な性格に巧みに取り入り、彼女を内側から食い破っていく。


その日、私たちはいつものように、放課後の帰り道を歩いていた。

私は、バイト先で仕入れた、フードの男たちに関する新たな噂を高坂さんに話していた。


「港の倉庫だけじゃない。駅の反対側にある、閉鎖された病院も怪しいらしい。あいつら、本気で街中を自分たちの祭壇にするつもりだ」

「…そっか」


彼女の返事は、空虚だった。


「どうしたの。聞いてる?」

「うん、聞いてるよ。閉鎖された、病院ね。わかった」


彼女は、無理に、笑顔を作った。

その笑顔が、まるで石膏の仮面のように、ひび割れていることに、私は気づかない。


「それより、見て、水無月さん。あそこのクレープ屋さん、新しい味が出たんだって。帰り、寄ってかない?」


彼女は、必死に、日常を演じようとしていた。

壊れかけている自分を、私に悟られないように。私に、嫌われないように。

私は、そんな彼女の痛々しい努力に気づかず、「甘いものは、いらない」と、いつものように素っ気なく返してしまうのだった。




決定的な出来事が起きたのは、その数日後のことだった。

体育館での、全校集会。退屈な校長の話が、延々と続いている。

その時、体育館の隅、ステージの袖の暗がりから、ひやり、とした澱みの気配が立ち上った。弱い。だが、確実にそこにいる。

私は、隣にいた高坂さんの袖を、そっと引いた。


「…高坂さん、あそこ」


彼女も、気配に気づいたようだった。その顔が、さっと青ざめる。

集会が終わり、生徒たちがぞろぞろと体育館から出ていく中、私たちはその場に残った。

ステージの袖から現れたのは、小さな怪異だった。

生徒たちの、集会に対する「退屈」や「面倒」といった、些細な負の感情が集まって生まれただけの、取るに足らない澱み。

いつもの私なら、トイレに駆け込み、ほんの少し血を流すだけで、一瞬で消し去れる相手。


「私が、やる」


私は、高坂さんにそう言って、一歩前に出ようとした。

その時。


「待って」


高坂さんが、震える声で、私の腕を掴んだ。


「私にも、やらせて」

「は? あんた、何を…」

「私だって、水無月さんのパートナーなんだから! いつも、守られてるだけじゃ嫌なの!」


彼女の目は、必死だった。

自分が足手まといではないと、証明したかったのだろう。

私は、その気迫に一瞬、戸惑った。


「…無茶だよ。あんたには、壊す力はない」

「でも…!」


彼女は、私の制止を振り切り、小さな怪異に向かって走り出した。

彼女に、何ができるというのだろう。

ただ、声をかけるだけか?

だが、彼女の行動は、私の予想を遥かに超えていた。

彼女は、自分のスクールバッグから、一本のカッターナイフを取り出したのだ。


「高坂さん…!?」


そして、彼女は、震える手で、その刃を、自分自身の左腕に、押し当てた。


「私だって…! あなたみたいに、痛みを力にできれば…!」


それは、あまりにも痛々しく、あまりにも愚かな、私の模倣だった。

彼女の白いシャツの袖が、じわり、と赤く染まっていく。

だが、当然、血の茨が生まれることなど、ありはしない。

ただ、生々しい傷が刻まれ、赤い血が、体育館の床にぽたぽたと滴り落ちるだけだった。


「ああ…あああ…なんで…!」


彼女は、絶望の声を上げる。

怪異は、彼女から流れ出した血と、その絶望の感情を浴びて、むしろ、先ほどよりも少しだけ、その体を大きくさせていた。


「やめて…! 高坂さん、やめて!」


私は、絶叫しながら彼女に駆け寄った。

彼女の腕を掴み、カッターナイフを弾き飛ばす。

私の腕の中で、彼女は、わんわんと子供のように泣きじゃくった。


「ごめんなさい…ごめんなさい、水無月さん…! 私、やっぱり、何もできない…!」


私は、言葉もなかった。

泣き叫ぶ彼女を抱きしめながら、もう片方の手で、カミソリを握る。

そして、自分の腕に、いつもより、ずっと深く、刃を突き立てた。

溢れ出した大量の血が、巨大な茨となって、目の前の怪異を、一瞬で飲み込み、消し去っていく。

痛みも、感じなかった。

ただ、腕の中で震える彼女の脆さと、自分の無力さと、そして、彼女をここまで追い詰めてしまった、この理不尽な世界への、どす黒い憎しみだけが、私の心を支配していた。

光は、もう、輝いてはいなかった。

私の腕の中で、罅割れたガラス玉のように、ただ、か細く震えているだけだった。

救わなければ。

そう思った。

でも、どうやって?

血を流すことしか知らない私に、壊れかけた心を、どうすれば救えるというのだろう。

答えは、どこにもなかった。

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リストカッター りばてぃ @Liberty_2032

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