第13話 薄氷

『Blue Nocturne』での時間は、私の空っぽだった世界を、静かに、だが確実に満たしていった。

マスターの長谷川さんは、相変わらず口数の少ない人だったけれど、私が仕事に慣れてくると、時折カウンターの向こうから「悪くない」と短く呟いてくれるようになった。その一言が、誰かに認められたことのなかった私の心に、小さな灯火をともした。

常連客たちとのやり取りにも、少しずつ慣れてきた。彼らが交わす夜の街の噂話に耳を澄まし、フードの男たちに繋がる情報を探す、という当初の目的も忘れてはいない。だが、それ以上に、ただ「働く」という行為そのものが、私にとって新鮮な意味を持ち始めていた。

自分の手で珈琲を淹れ、客に提供する。対価として、お金を受け取る。その当たり前の社会との繋がりが、カミソリを握ることでしか世界と関われなかった私に、別の生き方が存在する可能性を示してくれているようだった。


「水無月さん、最近、なんだか楽しそうだね」


バイト終わり、店の前で待っていてくれた高坂さんが、嬉しそうにそう言った。

彼女が隣にいてくれるこの帰り道も、今ではすっかり私の日常の一部になっていた。


「…別に。疲れてるだけ」

「またまたー。でも、よかった。水無月さんが笑ってくれるの、私、すごく嬉しいから」


太陽みたいな笑顔。

私は、その光に少しだけ慣れて、以前のように目を逸らすことはなくなっていた。

この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。

生まれて初めて、そんなありきたりな幸福を、私は願い始めていた。

だから、気づけなかったのだ。

太陽の光が強ければ強いほど、その足元にできる影もまた、濃くなるということに。

高坂さんの最初の異変は、本当に些細なものだった。

二人でファミレスで話している時、彼女が、ふっと会話の途中で言葉を切らし、虚空を見つめていたことがあった。


「…高坂さん?」


私が声をかけると、彼女ははっと我に返る。


「あ、ごめん! ちょっと考え事してて。それで、話の続きなんだけど…」


いつもの笑顔で、彼女はそう誤魔化した。

またある時は、テストの答案が返ってきた時。いつもクラスでトップを争う彼女が、珍しくケアレスミスを重ね、数点点数を落としていた。


「最近、なんだか集中できなくて。ダメだなぁ、私」


へへ、と彼女は力なく笑う。

その時の私は、新しいバイトのことで頭がいっぱいで、「疲れが溜まってるんだろう」くらいにしか、思わなかった。

彼女は強いから。光の中にいる人間だから。私なんかとは違う。

そんな私の勝手な思い込みが、彼女が発していた小さなSOSのサインを、見えなくさせていた。




その頃、街の澱みは、確実にその濃度を増していた。

それは、とある廃ビルの、とある一室にて。


「器の監視は続けている。面白いことに、最近、精神が安定傾向にある」

「原因は、あの光の娘か。高坂といったか」

「いかにも。器は、あの娘を『光』と認識し、精神的な支柱にしているようだ。我々が器を手に入れるには、まずその支柱を、内側から腐らせるのが定石だろう」

「ふふ、好都合だ。光が強ければ強いほど、それが絶望に反転した時に生まれる澱みは、極上のものとなる。あの娘は、最高の『素材』だ」


事は、進んでいた。




その頃高坂は、一人で自室の机に向かっている。

参考書を開いているが、その文字は少しも頭に入ってこない。

ふと、何の脈絡もなく、一つの考えが、まるで自分の思考であるかのように、頭の中に浮かび上がった。


『私、本当に水無月さんの隣にいて、いいのかな』


一度浮かんだ疑念は、毒のように、じわじわと心を蝕んでいく。


『水無月さんは、一人でも戦える。私がいるから、かえって動きにくくさせているんじゃないか』

『あの人は、私がいなくても、もう大丈夫なんじゃないか』

『私は、ただの足手まとじゃないのか』


彼女は、ぶんぶんと頭を振って、その考えを打ち消そうとする。

違う。水無月さんは、私が必要だと言ってくれた。私たちは、パートナーなんだ。

そう信じようとすればするほど、「囁き」は、彼女自身の元々の真面目さや、責任感の強さに巧みに取り入り、自己嫌悪を増幅させていく。

街を歩けば、すれ違う人々の視線が、自分を責めているように感じる。

SNSを開けば、友人たちの楽しそうな投稿が、自分の孤独を浮き彫りにしているように見える。

大丈夫、私は大丈夫。

そう言い聞かせるたびに、心の薄氷に、ピシリ、と小さな亀裂が入っていくのを、彼女自身はまだ知らなかった。




バイト終わりの夜道。

私は、高坂さんと並んで歩いていた。長谷川さんから聞いた、新たな澱みの噂について、真剣に話し合っていた。


「次の拠点は、港の古い倉庫かもしれない。近いうちに、二人で偵察に行こう」

「うん、わかった」


彼女の返事は、いつもより少しだけ、力がなかった。


「どうしたの。やっぱり、疲れてる?」

「ううん、大丈夫だよ!」


彼女は、慌てて、いつもの笑顔を作った。


「それより、明日の小テストの範囲、聞いた? 私、最近うっかりしてて忘れちゃった」


私は、その完璧な笑顔の裏側で、彼女の足元に、小さな、しかし確実に、黒い澱みの染みが広がっていることに、全く気づいていなかった。

自分の手に入れた、束の間の日常。

その温かさに目が眩んで、一番大切な光が、すぐ隣で静かに消えかけていることに、気づきもしなかったのだ。

破滅へのカウントダウンは、もう、始まっていた。

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