第12話 青い夜想曲への扉

あの夜、中学校の音楽室で繰り広げられた死闘は、私の心に確かな熱を残していった。

翌日、いつもの退屈な日常に戻っても、その熱は冷めることなく、胸の奥で静かに燻り続けていた。

昨日の戦いは、これまでとは全く違っていた。

今までは、ただ目の前に現れた澱みを、作業のように「壊して」きただけだ。けれど、昨日は違った。私は、震える樹くんを、恐怖に立ち向かおうとした彼の心を、「守る」ために戦った。

誰かのために血を流し、痛みを引き受けること。

その行為が、空っぽだったはずの私の心に、名前のつけられない感情を灯していた。それは、誇らしさとも、自己満足とも違う、もっと温かくて、穏やかな光。


『本当にありがとうございました。俺、生きててよかったです』


朝、樹くんから届いた短いメッセージを、私は何度も読み返していた。

彼を救えたのだろうか。まだ、わからない。でも、彼の言葉が、私の中で確かな意味を持って響いていることだけは、事実だった。

この変化を、隣にいる高坂さんにどう伝えればいいのか、私にはまだわからなかった。

放課後の帰り道。高坂さんは、いつもより少しだけ静かだった。昨夜の戦闘で消耗した私を、気遣ってくれているのがわかる。


「樹くんから、私にもメッセージが来たよ」


彼女が、不意に口を開いた。


「水無月さんと高坂さんのおかげで、目が覚めました。これからは、ちゃんと前を向いて生きます、だって」

「…そっか」

「うん。…本当に、よかった」


彼女の横顔は、心からの安堵に満ちていた。

私は、意を決して、ずっと言えなかった言葉を口にした。


「…あんたが、いてくれたからだよ」

「え?」


きょとんとして、私を見る高坂さん。


「昨日の戦い、私一人じゃ、勝てなかった。あんたの声が聞こえなかったら、私はあいつの精神攻撃に、とっくに飲み込まれてた」


それは、紛れもない本心だった。弱さを認めるようで、ずっと口にできなかった言葉。

私の告白に、高坂さんは一瞬、目を丸くした後、花が咲くように、ふわりと笑った。


「…そっか。よかった。私にも、ちゃんと水無月さんの力になれてたんだね」


その笑顔を見て、私は確信した。彼女は、もはや単なる友人ではない。私の弱さを預けられる、唯一無二の「パートナー」なのだと。

私たちは、フードの男たちへの対策について話し合いながら、商店街を歩いていた。


「やっぱり、情報が足りなすぎるよね。あいつらが次にどこを狙うのか、あの黒い石は何なのか…」

「ネットの情報だけじゃ、もう限界がある。もっと生々しい、街の裏側の噂が集まるような場所が必要だ」


どうすれば、そんな情報にアクセスできるだろうか。

考えあぐねていた、その時だった。


「…そうだ」


私が、ぽつりと呟く。


「バイト、してみようかな」

「えっ、バイト?」

「家にいたくないし、お金も必要。それに、何より…」


私は、スマホを取り出して、求人アプリを開いた。


「夜の街に自然に溶け込んで、情報を集める。普通の女子高生をやってるより、よっぽど効率的でしょ」


私の突飛な提案に、高坂さんは最初は驚いていたが、すぐに「…そっか。それ、いいかも!」と目を輝かせた。

私たちは、アプリの画面を二人で覗き込む。

居酒屋、コンビニ、カラオケ店。様々な募集が並ぶ中、私たちの指がある一つの広告でぴたりと止まった。


『JAZZ喫茶 & Bar “Blue Nocturne” ホールスタッフ募集』


写真に写っていたのは、アンティークなランプに照らされた、落ち着いた雰囲気のカウンター。壁一面に、レコードジャケットが飾られている。

場所は、駅前の、少し寂れた路地裏。私たちが調査した廃映画館や、フードの男がいた雑居ビルからも、そう遠くないエリアだ。


「ここ、どうかな」

「うわ、すごくお洒落…。なんだか、大人のお店って感じだね」


その店は、私たちが生きる世界とは全く違う、別の時間が流れているように見えた。音楽、大人、夜の街。未知の世界への好奇心が、私の心を強く惹きつけた。


「…私、ここの面接、行ってみる」


放課後。私は一人で、その店の前に立っていた。

地下へと続く階段の入り口に、控えめな真鍮のプレートで『Blue Nocturne』とだけ記されている。高坂さんは「終わったらすぐ連絡してね!」と心配そうに手を振り、角の向こうに消えていった。

深呼吸を一つして、私は重い木の扉を開けた。

カラン、とドアベルの澄んだ音が鳴る。

店内は、昼間だというのに薄暗く、紫煙と珈琲の香りが混じり合った、大人の匂いがした。スピーカーからは、サックスの気怠いメロディが流れている。

カウンターの奥で、一人の男が、黙々とグラスを磨いていた。


「…あの、バイトの面接に来たんですけど」


男は、ゆっくりと顔を上げた。

四十代くらいだろうか。無精髭を生やし、その目は、全てを見透かすように、鋭く、そしてどこか哀しげだった。


「…あんたがか」


低い、よく響く声だった。

男は私の頭のてっぺんから、厚底の靴の先までを、値踏みするように一瞥した。私の見た目や、制服姿を気にする風でもなく、ただ、じっと私の目を見てくる。


「名前は」

「水無月、です」

「なぜ、うちで働きたい」


その問いに、私は用意していた答えを忘れて、思わず本音を漏らしてしまっていた。


「…家に、あまり、いたくないので」


その言葉を聞いた瞬間、男の険しい表情が、ほんの少しだけ、和らいだように見えた。


「そうか」


彼は、それだけを呟くと、磨いていたグラスをカウンターに置いた。


「採用だ。明日から来れるか」

「え…」


あまりにもあっけない決定に、私は拍子抜けしてしまった。


「高校生ですけど…」

「知ってる。うちは、夜十時までだ。問題ない」


男は、それ以上何も言わず、再びグラスを磨き始めた。

私は、礼を言うのも忘れて、呆然と店を出た。

高坂さんに『受かった』とだけメッセージを送る。すぐに、『おめでとう!』という、びっくりマークがたくさんついた返信が来た。

私は、もう一度、店の看板を見上げた。『Blue Nocturne』。青い夜想曲。

これから、私の日常に、「学校」と「戦い」以外の、三番目の居場所が生まれる。

「守る」という感情を知った私が、今度は「働く」という行為を通じて、何を見つけるのだろうか。

期待と不安が入り混じった、複雑なメロディが、私の心の中で、静かに流れ始めていた。

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