第10話 守りたい、という熱
あの夜、路地裏で震えていた少年、樹(いつき)を腕の中に抱いた時の感触が、私の心から消えずにいた。
彼の体温、小さな嗚咽、そして絶望の匂い。それは、かつて私が取りこぼしてしまった、あの日の記憶と残酷なほどに重なった。
私は彼を警察に突き出すことも、学校や親に連絡することもしなかった。そんなことをしても、彼の心の穴は埋まらないとわかっていたから。ただ、連絡先だけを交換し、一言だけ告げた。
『死ぬな。それ以外なら、何したっていい。でも、死ぬことだけは考えるな。何かあったら、連絡してこい』
それが、私にできる精一杯だった。
彼を救えたのかは、わからない。結局、私の行動は過去の罪滅ぼしで、自己満足に過ぎないのかもしれない。それでも、あの瞬間、確かに私は「この子を守りたい」と願った。
虚無感と諦観で塗り固められていた私の心に、ぽつり、と灯った小さな熱。
その熱は、私を温めると同時に、ひどく戸惑わせた。守りたいものができる、ということは、失うことを恐れなければならない、ということだから。
その変化に、高坂さんはすぐに気づいた。
放課後のファミレス。いつもの作戦会議室。テーブルの上には、地域の歴史書やオカルト雑誌が乱雑に広げられている。あの黒い石について、私たちは地道な調査を続けていた。
「水無月さん」
高坂さんが、分厚い本のページから顔を上げて、じっと私の目を見た。
「うん?」
「最近、何かあった?」
核心を突く、まっすぐな問い。私は一瞬、言葉に詰まった。
樹くんのことを、彼女に話すべきだろうか。あれは、フードの男たちとは直接関係のない、私の個人的な問題だ。これ以上、彼女を私の闇に引きずり込んでいいのだろうか。
「…別に、何も」
「嘘だ」
高坂さんは、私の嘘を簡単に見破った。
「嘘つく時、水無月さん、瞬きの回数がちょっとだけ増えるんだよ」
「…なにそれ、気持ち悪い」
「いいから、話して。水無月さんが一人で何かを抱え込むのは、もう禁止。私がそう決めたの」
彼女は、有無を言わせない強さで、そう言った。
私は、観念して、重い口を開いた。数日前の夜、あの路地裏で出会った少年のことを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼が抱えていた憎しみ、自らを傷つけることで澱みを生み出そうとしていたこと。そして、私が、彼を止めたこと。
ただし、自分の過去と彼を重ねてしまったことだけは、どうしても言えなかった。
私の話を、彼女は黙って聞いていた。時折、悲しそうに眉をひそめながら。
私が話し終えても、彼女はすぐに何かを言うことはなかった。ただ、テーブルの上に置かれていた私の手に、自分の手をそっと重ねた。
「そっか」
彼女の手は、温かかった。
「大変だったね。怖かったでしょ」
責めるような言葉は、一つもなかった。私の行動を評価するのでもなく、ただ、私の心に寄り添うように、静かにそう言った。
「水無月さん、少し顔つきが変わったよ」
「は?」
「うん。なんて言うか…前よりも、優しくなったみたい」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
顔が熱くなるのを感じて、私は慌てて彼女の手を振り払い、窓の外に視線を逃がした。
「…うるさい。あんたに関係ない」
照れ隠しに吐き出した言葉は、ひどく掠れていた。
誰かと、こんな風に秘密を共有したのは初めてだった。自分の内側を、誰かに見せるのは初めてだった。それは、裸のまま人前に立つような、途方もない羞恥と恐怖を伴う行為のはずなのに。
高坂さんの前では、不思議と、それが苦痛ではなかった。むしろ、ずっと背負ってきた重い荷物の半分を、彼女が持ってくれたような、そんな安堵感があった。
私たちの関係は、もうただの「戦友」ではないのかもしれない。
調査は、思うようには進まなかった。
ネットや本の情報だけでは、あのフードの男たちの正体にはたどり着けそうにない。
「もっと、リアルな情報が欲しいな。この街の裏側で起きてることとか、普通の高校生には入ってこないような情報が…」
高坂さんが、うーん、と唸る。
その時、私の頭に、一つの考えが浮かんだ。それは、ここ数日、ずっと考えていたことでもあった。
「…バイトでも、してみるか」
ぽつりと、呟きが漏れた。
「えっ、バイト? 水無月さんが? なんで急に?」
高坂さんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見る。
「金もいるし。いつまでも親のスネかじってるわけにもいかないでしょ」
半分は、本音だった。そして、もう半分は、ただ家にいたくないという、逃避の気持ち。
「それに…」
私は、言葉を続けた。
「夜の街で働けば、何か聞けるかもしれない。あいつらみたいな胡散臭い連中の噂とか、出入りしてる場所とか。普通の女子高生やってるよりは、よっぽど情報が集まるでしょ」
それは、我ながら悪くない考えに思えた。家に帰りたくない。お金が欲しい。そして、調査もできる。一石三鳥だ。
「そっか…でも、危なくないかな」
「大丈夫。何かあれば、これがある」
私は、ポーチに入ったピンクのカミソリを、指先でそっと撫でた。
そんな話をしている間にも、街の空気は確実に悪化していた。
私が感じる澱みの質が、明らかに変わってきていたのだ。
以前のような、個人の内側からじわりと滲み出す澱みではない。もっと表層的で、パニックに近い「恐怖」と「混乱」。街のあちこちで、人々が黒い影のようなものを見た、という噂が爆発的に広まっていた。フードの男たちが、儀式の準備として、街全体に恐怖をばら撒き、効率よく病みを収集しているのだ。
「あいつら、本格的に動き出すつもりだ」
ファミレスの窓から見える、行き交う人々の不安げな顔。この日常が壊されるまで、もう時間がない。
その時だった。
私のポケットに入れていたスマホが、短く振動した。ディスプレイに表示された名前に、心臓が跳ねる。
『樹』
電話に出ると、スピーカーの向こうから、彼の切羽詰まった声が飛び込んできた。
『水無月さん…! 助けて!』
「樹くん!? どうしたの!」
『学校に、変なのが…! 黒い、泥みたいな化け物が…!』
息も絶え絶えな彼の声に、血の気が引いていく。
あいつら、澱みを生み出しやすい、心の弱い人間を狙ってやがる。そして、そのターゲットに、樹くんが選ばれてしまった。
「今どこにいるの!」
『学校の、音楽室に隠れてる! でも、もうドアが…!』
ガリガリ、と何か硬いものでドアを引っ掻くような、不快な音が電話越しに聞こえる。
「高坂さん、行くよ」
私は、伝票を掴んで席を立つ。
「うん!」
高坂さんも、即座に頷いた。
ファミレスを飛び出し、夜の街を、私たちは全力で走り出した。
以前の私なら、面倒だと舌打ちしただろうか。
これは自分一人の問題だと、高坂さんを突き放しただろうか。
わからない。
でも、今の私は、迷わなかった。
守りたい、と思った命が、今、助けを求めている。
隣には、背中を預けられる、たった一人の友がいる。
「何のために戦うのか」
その答えは、まだ見つからない。
でも、それでいい。
今はただ、助けを求めるあの声に、応えたい。
そのために、私の血を流す覚悟は、もうできていた。
夜の闇を切り裂いて、私たちは、学校へと走った。
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