第9話 何のために、この血を

高坂さんという「戦友」ができてから、私の孤独は和らいだのだろうか。

答えは、否だ。

むしろ、隣に彼女がいることで、私自身の心の空洞が、よりくっきりと、より冷たく感じられるようになっていた。

彼女には目的がある。『街を守る』『人々を助ける』そして何より、『私を一人にしない』という、眩しいほどにまっすぐな目的が。

では、私は?

私が戦う理由は何だ?

フードの男が現れる前は、ただ視えてしまうから、放置すれば誰かが不幸になるから、という消極的な理由で動いていただけだ。それは義務感や、あるいは自己満足に近かったのかもしれない。

では、今は? 街を蝕む巨大な悪意を前にして、私は何のためにカミソリを握るのだろう。


「水無月さん、ぼーっとしてる。聞いてる?」


放課後のファミレス。私たちの新たな作戦会議室。

高坂さんが、ドリンクバーから持ってきたメロンソーダをストローでかき混ぜながら、私の顔を覗き込む。


「…聞いてる」

「ほんとかなー。えっとね、あの黒い石について、もうちょっと調べたいんだ。似たような伝承がないか、オカルト系の本とかも読んでみようと思って」

「…好きにすれば」


私の気のない返事に、彼女は少しだけ表情を曇らせた。


「水無月さんは、どうしたい?」

「別に」

「別に、じゃないでしょ。あいつらを止めなきゃいけないんだよ。このままじゃ、この街、本当に大変なことになる」

「…あんたは、なんでそんなに必死なの」


思わず、冷たい言葉が口をついて出た。


「あんたには関係ない世界だったはずでしょ。見えなかったし、知らなかった。知らなければ、今まで通り、普通に、平和に暮らせてたのに」

「……」

「なんでわざわざ、こっち側に来るの。馬鹿みたいに」


言ってしまってから、後悔した。

高坂さんは、何も悪くない。彼女はただ、善意と、私への友情だけで動いている。そんな彼女を、私の歪んだ心で傷つけてしまった。

高坂さんは、俯いて、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと顔を上げて、私をまっすぐに見つめた。


「馬鹿でいいよ」


彼女は、静かに、でもはっきりとそう言った。


「見て見ぬふりなんて、私にはできない。友達が、一人で血を流して戦ってるのを知ってて、自分だけ安全な場所で笑ってるなんて、絶対にできない。それに…」


彼女は言葉を切って、自分の胸に手を当てた。


「私も、あの資料室で、澱みに飲み込まれそうになった。あの時の苦しさ、怖さ、よく覚えてる。ああいう思いをする人を、一人でも減らしたい。それが、私が戦う理由。…これじゃ、ダメかな」


ダメなはずがなかった。

あまりにも正しくて、あまりにも眩しくて、私は目を逸らすことしかできなかった。

そうだ、彼女は一度、当事者になったんだ。だから、他人事じゃない。

では、私は?

私は、いつだって傍観者だ。誰かの病みを、外側から眺めて、ただ壊してきただけ。誰かの心に寄り添ったことなんて、一度もなかった。

その日の夜、私は一人、街を彷徨っていた。

高坂さんには「今日は一人で考える」とだけ告げて、先に別れた。一人になりたかった。一人になって、自分の心と向き合わなければ、前に進めない気がした。

雨上がりの湿った空気が、肌にまとわりつく。

私は、無意識に、あの廃映画館のある駅裏の路地へと足を向けていた。あいつらの気配はないか、確かめるため…いや、違う。私は、何かを求めていた。自分が戦う意味を、この澱んだ街に問いかけていたのかもしれない。

その時、路地の奥から、微かな澱みの気配を感じた。

でも、それはこれまで感じてきたものとは、少しだけ質が違った。悪意や憎しみといった攻撃的なものではない。もっとずっと弱々しくて、悲痛な、助けを求めるような気配。

警戒しながら、気配のする方へ近づく。

そこは、行き止まりの壁の前だった。壁には、不気味な落書きがいくつも描かれている。その壁の前に、一人の少年が蹲っていた。中学生くらいだろうか。フードを深く被り、顔は見えない。

そして、彼の足元から、あの微かな澱みが生まれていた。

怪異、と呼ぶにはあまりにも頼りない。陽炎のように揺らめくだけの、小さな黒い靄。

少年は、その靄に向かって、何かを必死に呟いていた。


「お願いだ…あいつを、あいつだけは、許せないんだ…」


憎しみの言葉。けれど、そこから生まれる澱みには、力がなかった。

少年は、ポケットから取り出したカッターナイフで、自分の手の甲を、浅く、何度も切りつけている。血は滲む程度で、ほとんど出ていない。

彼は、私の真似事をしているんだ。

どこかで、澱みや怪異の噂を聞きつけ、自らの負の感情と痛みで、それを操ろうとしている。あまりにも稚拙で、あまりにも痛々しい儀式だった。

私は、物陰から出て、彼に声をかけた。


「…何してるの」


少年は、びくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを向いた。フードの隙間から見えた目は、憎しみと絶望に濁っていた。


「あんたには関係ないだろ!」

「関係なくはない。あんたがやろうとしてること、少しだけわかるから」


私は、彼の前に立った。

足元の黒い靄は、私を警戒するように、少しだけ揺らめく。


「復讐?」

「…っ」


少年は、息を飲んで私を睨みつけた。図星だったようだ。


「そんなもので、誰かに復讐なんてできやしないよ。それは、あんた自身を蝕んで、壊すだけ。やめなよ」


私の言葉に、少年は逆上した。


「あんたに何がわかるんだ! 俺の苦しみが、わかるって言うのかよ!」


彼は、カッターナイフを私に向けた。その切っ先は、小刻みに震えている。


「あいつのせいで、俺の親友は…!」


少年が何かを叫ぼうとした、その時だった。

彼の足元の靄が、彼の激情に呼応するように、一瞬だけ、強く脈打った。

まずい。感情が高ぶりすぎている。

どうする?

いつもの私なら、カミソリを抜いただろう。彼の感情が生み出したこの小さな澱みを、血の茨で、一瞬で消し去ったはずだ。

でも。

本当に、それでいいのか?

これは、ただ壊せば終わる問題じゃない。この子の心の叫びを、私が力で捻じ伏せてしまって、本当にいいのか?

高坂さんなら、どうするだろう。きっと、彼女なら、まずこの子の話を聞くはずだ。

一瞬の、逡巡。

その隙を、少年は見逃さなかった。彼は、私にではなく、自分自身の首にカッターナイフを突き立てようとした。


「もう全部、どうでもいいんだ!」

「!」


考えるより先に、体が動いていた。

私は彼の腕を掴み、カッターナイフを弾き飛ばす。金属が、アスファルトに当たって、乾いた音を立てた。


「馬鹿なこと、しないで」


私の声は、震えていた。

彼が死のうとしたその姿に、過去の、忘れたいはずの記憶が重なる。

雨の匂い。サイレンの音。そして、私の手から滑り落ちていった、小さな体温。

助けられなかった、あの子の顔。


「死んだら、終わりなんだよ…!」


気づけば、私は彼を強く抱きしめていた。

自分の腕の中で、少年が小さく嗚咽を漏らしているのがわかる。

澱みは、いつの間にか消えていた。私が壊したわけじゃない。彼の心が、ほんの少しだけ、憎しみ以外の感情で満たされたからだろうか。

私は、何のために戦うんだろう。

その答えは、まだ見つからない。

でも、今、この腕の中で震えている命を、守りたいと思った。

誰かを救うため、とか、街のため、とか、そんな大それた理由じゃない。

ただ、目の前で、昔の私みたいに、全部を諦めようとしているこの子を、独りにはしたくない。

それは、偽善かもしれない。自己満足かもしれない。あの子を助けられなかった、私の罪滅ぼしに過ぎないのかもしれない。

それでも。

今は、それでいいと思った。


「…名前は」


私は、腕の中の小さな背中に、優しく問いかけた。

それが、私が戦う理由を見つけるための、最初の、小さな一歩になるような気がした。

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