第11話 誰かのための痛み
夜の学校は、死んだ生き物の骸の中を進んでいるようだった。
コンクリートの壁が吸い込んだ日中の喧騒は完全に沈黙し、代わりに、私たちの焦燥に満ちた足音と荒い呼吸だけが、がらんどうの廊下に不気味に響き渡る。月明かりが窓から差し込み、床に長い格子の影を落としていた。その光景は、まるで檻の中に囚われているかのような錯覚を私に与えた。
樹くんが通う中学校は、私たちの高校からそう離れてはいなかった。息を切らしながら校門を乗り越え、昇降口のガラスを叩き割って中へと侵入する。背徳感よりも、一刻も早く彼のもとへたどり着かなければならないという焦りが勝っていた。
「こっち!」
樹くんが言っていた音楽室は最上階の突き当たり。階段を駆け上がりながら、私はこの場所に満ちる異様な気配に眉をひそめた。
街中で感じた、人々のパニックに近い「恐怖」の澱み。それが、この学校の一点に、まるで嵐の目のように凝縮されている。フードの男たちは、樹くんという心の弱った人間を餌にして、この場所に澱みを集めるための罠を仕掛けたのだ。
音楽室のある廊下にたどり着いた時、私たちはその光景に息を飲んだ。
廊下の壁や床が、黒い粘液のようなもので、どろどろに侵食されている。それは、あの雑居ビルで見た血管のような筋とは違い、もっと生々しく、脈打っているようにさえ見えた。そして、音楽室の分厚い防音扉が、内側から押し出されるように、みしみしと不気味な音を立てて歪んでいた。
ガリ、ガリ、というドアを削る音は、もう聞こえない。化け物は、力尽くでドアをこじ開けようとしている。
「樹くん!」
高坂さんがドアに向かって叫ぶが、返事はない。
次の瞬間、バガンッ!という凄まじい破壊音と共に、鉄製のドアが蝶番から引きちぎられ、廊下の反対側の壁に叩きつけられた。
ドアの向こうの暗闇から、ぬるり、と姿を現したのは、泥と悪意を練り上げて作られたような、不定形の怪異だった。あの路地裏でサラリーマンに取り憑いていたものと同種だが、大きさと密度がまるで違う。いくつもの黒い触手を蠢かせ、その中心には、まるで嘲笑うかのように歪んだ、巨大な一つ目玉が爛々と輝いていた。
「水無月さん…!」
高坂さんが、私の腕を掴む。
怪異の背後、部屋の隅でグランドピアノの影に隠れて、樹くんが腰を抜かしたように座り込んでいるのが見えた。恐怖で声も出ないのだろう、その目は絶望に見開かれている。
「下がってて」
私は高坂さんを背中に庇い、一歩前に出た。ポーチから、見慣れたピンク色の相棒を取り出す。
袖を捲り上げ、白い腕を晒す。
高坂さんの視線、そして部屋の奥からは樹くんの怯えた視線が突き刺さる。他人の前でこの儀式を行うことへの羞恥心は、もうほとんど感じなくなっていた。いや、感じないように、心を麻痺させていた。
躊躇なく、刃を引く。
ぷつりと皮膚が切れ、鮮血が闇に散った。痛みだけが、この非現実的な状況の中で、唯一確かな現実だった。
流れ落ちる血は、空中で光の茨へと姿を変える。いつもより、棘は鋭く、色は深く、濃い。守りたい、という強い意志が、私の血に宿っているからだろうか。
『ギ…ギギ…』
一つ目の怪異が、私を認識し、不快な鳴き声を上げた。
その巨体が、津波のように私に向かって押し寄せてくる。速い。
私は床を蹴り、横に跳んでそれを避ける。怪異が通り過ぎた後の床は、腐食したように黒く変色していた。
「くっ…!」
体勢を立て直し、茨の鞭をしならせて叩きつける。
ジュッ、という肉の焼けるような音がして、怪異の体の一部が弾け飛んだ。だが、すぐにそれは再生してしまう。やはり、こいつには物理的な破壊だけでは意味がない。
『オマエ…モ…オナジ…』
怪異の中心にある一つ目玉が、ぎょろり、と私を捉えた。
途端に、脳内に直接、声が響く。
『孤独…憎シミ…絶望…ソレガ、オマエダ』
「…っ!」
精神攻撃。
私の心の闇を読み取り、内側から揺さぶってくる。忘れたいはずの過去の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
雨の音。サイレンの音。私のせいだと、指をさす誰かの顔。
足がすくむ。茨を握る手に、力が入らなくなる。
「水無月さん、しっかりして!」
背後から、高坂さんの声が飛んできた。
その声は、まるで霧を切り裂く光のように、私の意識を現実へと引き戻す。そうだ、今は感傷に浸っている場合じゃない。私の後ろには、守るべき人間が二人もいる。
「…うるさい」
私は、怪異に向かって吐き捨てた。
「私の中を、勝手に覗かないで」
奥歯を強く噛み締める。
手首の傷に意識を集中した。もっと、もっと血を。もっと力を。
痛みで、恐怖を上書きする。
茨の棘が、さらに鋭く、長くなる。
「あんたみたいな、借り物の体で、私の心を語らないでよ!」
私は再び床を蹴り、怪異の懐へと飛び込んだ。
四方八方から伸びてくる触手を、茨を回転させて薙ぎ払う。触手は切り裂かれるたびに黒い飛沫を上げるが、すぐにまた再生する。キリがない。
狙うは、中心の一つ目玉。あそこが、こいつの核だ。
だが、近づくほどに、精神攻撃は強くなる。
視界の端に、いるはずのない人影がちらつく。私を置いていった両親の顔。私を裏切った、昔の友達の顔。
『オマエハ、イツモ、捨テラレル』
『誰モ、オマエヲ、愛サナイ』
「ええ、そうね!」
私は、半ば叫ぶように応えた。
「だから何!? 私は、誰かに愛されるために戦ってるんじゃない!」
その時、後方で蹲っていた樹くんが、何かを決意したように、ふらふらと立ち上がった。
「やめろ…」
か細い、震える声だった。
「その人に、そんなこと言うな!」
彼は、近くにあった椅子を掴むと、力の限り、それを怪異に向かって投げつけた。
椅子は、怪異のぬかるんだ体に虚しくめり込み、ほとんどダメージにはなっていない。
だが。
樹くんの、恐怖を乗り越えたその行動が、戦いの流れを、ほんの少しだけ変えた。
彼の「抵抗する意志」が、怪異の動きを、コンマ数秒だけ、鈍らせたのだ。
その隙を、私は見逃さなかった。
高坂さんと、樹くん。二人の声、二人の意志が、私に力をくれる。
もう、一人じゃない。
私の血は、もう私一人のものじゃない。
「これで、終わり…!」
私は、残った全ての力を茨の先端に集中させ、槍のように硬質化させる。
そして、動きの鈍った怪異の中心、爛々と輝く一つ目玉に向かって、それを全力で突き刺した。
『ギィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!』
これまで聞いたこともない、凄まじい絶叫が、音楽室中に響き渡った。
突き刺した茨が、怪異の核を内側から浄化していく。黒い泥の体は、まるで沸騰したようにぶくぶくと泡を立て、急速に蒸発し始めた。
断末魔の叫びと共に、怪異は跡形もなく消え去り、後には、腐食した床と、壁に叩きつけられた歪んだドアだけが残されていた。
戦いは、終わった。
血の茨は光の粒子となって消え、私の体から、一気に力が抜けていく。膝から崩れ落ちそうになるのを、駆け寄ってきた高坂さんが、寸前で支えてくれた。
「水無月さん、大丈夫!?」
「…うん、なんとか」
壁際には、樹くんがへたり込んだまま、呆然と私たちを見ていた。
私は、高坂さんの肩を借りて、ゆっくりと立ち上がる。
守れた。
間に合った。
安堵と共に、激しい消耗感が全身を襲う。
でも、不思議と、いつものような心の重さや、虚しさはなかった。
誰かのために流した血。誰かのために感じた痛み。
それは、空っぽだった私の心に、確かな「意味」と「熱」を与えてくれていた。
「…ありがとう」
樹くんが、涙を流しながら、そう呟いた。
その言葉は、初めて、重く感じなかった。
私は、まだ上手く笑えなかったけれど、ほんの少しだけ、口の端を緩めることができたような気がした。
戦う理由は、まだ言葉にできない。
でも、この温かい熱が、私の道標になる。
今は、それだけで十分だった。
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