第8話 黒い石
あの夜、高坂さんの部屋の温かさに触れてから、私の中の何かが変わった。
それは、凍てついた湖の氷が、春の陽光にゆっくりと溶かされていくような、静かで、でも後戻りのできない変化だった。一人でいることが当たり前だった私の世界に、高坂さんという存在が、取り返しのつかないほど深く根を下ろし始めていた。
私たちは、あのフードの男と人工怪異について、情報を集めることにした。
手当たり次第というわけにはいかない。手がかりは、学校で囁かれていた「雑居ビルに入ると気分が悪くなる」という噂。私たちは、他にも似たような場所がないか、ネットの掲示板やSNSを漁ることにした。
放課後の図書室。
普段なら私が絶対に立ち入らない、静謐と知性に満ちたその場所で、私たちは並んで一台のパソコンの画面を覗き込んでいた。
「この地域の都市伝説スレ、見てみようか」
高坂さんが、慣れた手つきでキーボードを叩く。私は、パソコンなんてほとんど触ったことがないから、ただ彼女の横顔と、画面を往復する指先を見つめているだけだった。
「あった。『〇〇市の不気味なスポット』…書き込み、結構あるね」
「何か、それっぽいの、ある?」
画面には、ありきたりな心霊譚が並んでいた。トンネルに出る女の霊。夜中に動く銅像。そのほとんどは、ただの作り話か、あるいは自然発生した澱みに尾ひれがついただけのものだろう。私たちが探しているのは、もっと人工的で、悪意に満ちた気配だ。
「ん、これ、どうかな」
高坂さんが、ある書き込みで指を止めた。
『駅裏の廃映画館、最近マジでヤバい。前はただの廃墟だったけど、最近、近くを通るだけで頭が痛くなる。中から、大勢の人が呻いてるみたいな音が聞こえたって友達が言ってた』
書き込みの日付は、ここ一ヶ月以内のものばかりが数件。雑居ビルの噂が流れ始めた時期と、符合する。
「ここだ」
私は直感的に呟いた。
「行ってみるの?」
「もちろん」
図書室を出て、並んで廊下を歩く。私たちの関係は、いつの間にか学校の他の生徒たちにも認知され始めていた。
「ねえ、高坂さんと水無月さんって、最近仲良いよね」
「意外な組み合わせすぎない?」
すれ違いざまに聞こえてくるひそひそ話。以前の私なら、その視線と囁き声に耐えられず、すぐに一人になれる場所へ逃げ込んでいただろう。でも、今は違った。隣を歩く高坂さんが、平然とした顔で言う。
「別に隠すことじゃないし、いいよね」
「…よくない」
「えー、なんで?」
「あんたの評判が落ちる」
「私の評判なんて、どうでもいいよ。それより、水無月さんが一人で無茶する方が、私にとっては一大事」
彼女は、いつもこうだ。
まっすぐな言葉で、私の心の壁を、いとも簡単に飛び越えてくる。その度に、私はどう返事をすればいいのかわからなくなって、黙り込んでしまうのだった。
噂の廃映画館は、駅裏の、再開発から取り残されたような一角に、巨大なクジラの骸のように鎮座していた。色褪せたポスター、蔓に覆われた壁。外からでも、雑居ビルの時と同じ、粘りつくような冷たい澱みの気配が立ち上っている。
「…すごいね、ここ。噂通り、空気が重い」
高坂さんが、ごくりと喉を鳴らす。
「今日は、中には入らない。まずは周りから、あいつらの痕跡がないか探る。正面から突っ込んで、また返り討ちに遭うのはごめんだから」
私たちは、映画館の周りをぐるりと一周し、裏口の、錆びて壊れかかったドアを見つけた。夜になるのを待ち、私たちは懐中電灯の細い光だけを頼りに、その軋むドアを押し開け、暗闇の中へと忍び込んだ。
カビと埃の匂いが、鼻をつく。
ロビーには、破れたソファや、倒れたポップコーンの機械が散乱していた。壁に飾られた往年の映画スターたちの写真は、皆、黒い染みのようなもので汚れていて、まるで泣いているように見えた。
私たちは、一番大きなスクリーンのあるメインホールへと向かった。
ドアを開けた瞬間、空気がさらに重くなるのを感じた。
ホールは、がらんどうだった。
何百席もある客席のシートは、そのほとんどが破られ、綿が飛び出している。そして、巨大なスクリーンの前、ステージの中央に、それはあった。
雑居ビルの時と全く同じ、禍々しい文様の魔法陣。
幸い、まだ儀式は行われていないようで、フードの男も、人工怪異もいなかった。
「やっぱり、ここもあいつらの…」
高坂さんが息を飲む。
あいつらは、街の複数箇所に、こんな拠点を準備しているんだ。一体、何のために。
その時、魔法陣の中央で、何かが鈍い光を放っているのに気づいた。
私は、高坂さんに「ここで待ってて」と合図し、一人でステージに上がった。
それは、人の拳ほどの大きさの、黒い石だった。
表面は磨かれたように滑らかで、闇そのものを固めたように、全ての光を吸い込んでいる。石からは、澱みとも少し違う、もっと純粋で、凝縮された負のエネルギーが発せられていた。
何、これ。
私は、吸い寄せられるように、その黒い石に指先を伸ばした。
触れた、瞬間。
脳内に、膨大なイメージと声が、濁流のように流れ込んできた。
『痛い』
『苦しい』
『助けて』
『もう嫌だ』
『死にたい』
無数の人々の、絶望の声。声。声。
雑踏のイメージ、誹謗中傷が飛び交うSNSの画面、薄暗い部屋で一人泣いている誰か。
街中のありとあらゆる「病み」が、この石に吸い寄せられ、増幅されていくビジョン。そして、その中心で、あのフードの男が、オーケストラの指揮者のように両腕を広げ、高らかに笑っていた。
「素晴らしい! この負のエネルギーこそが、我らの神を降臨させる礎となる!」
「…っ、うぐ…!」
私は、頭を抱えてその場に膝をついた。精神が、直接汚染されていく感覚。石が、街の人々の病みを集めるための、邪悪な触媒なんだ。
「水無月さん!」
高坂さんが、慌ててステージに駆け上がってきて、私の体を支える。
「どうしたの、しっかりして!」
「この石…触っちゃ、ダメ…」
彼女の声で、私はかろうじて意識を保つ。
このままでは危険だ。私たちは、這うようにしてその場を離れ、映画館から脱出した。
外の空気が、こんなにも美味しいと感じたのは初めてだった。
私たちは、近くの公園のベンチに倒れ込むように座り込み、しばらくの間、言葉もなく荒い呼吸を繰り返した。
落ち着きを取り戻してから、私は高坂さんに、石に触れて視たビジョンについて、全てを話した。
「あいつら、あの石を使って、街中の人間の病みを集めてる。そして、集めた病みで、とんでもないものを、この街に呼び出そうとしてるんだと思う」
「とんでもないもの…って」
高坂さんの声は、震えていた。
敵の計画は、私たちの想像を遥かに超える、壮大で、邪悪なものだった。
「どうすれば、止められるかな」
夜景の広がる街を見下ろしながら、彼女が呟いた。
前回のような、敗北感はなかった。敵の目的の一端を掴んだことで、恐怖は、明確な怒りと闘志に変わっていた。
「わからない」
私は、正直に答えた。
「でも、やるしかないでしょ」
顔を上げると、高坂さんも、同じ目をしていた。
恐怖を乗り越えた先に灯る、強い意志の光。
私たちは、もう一人じゃなかった。
共通の敵を前にした、対等な「戦友」。
私たちは、これから始まる本当の戦いに向けて、街の夜景に、静かな誓いを立てた。
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