第7話 敗北の味と、温かい部屋

雑踏の喧騒が、遠のいたり近づいたりを繰り返す。耳鳴りがひどい。フードの男の、楽しそうな声がまだ鼓膜にこびりついていた。

路地裏でどれくらいそうしていただろうか。高坂さんに肩を支えられ、私たちは夢遊病者のような足取りで、アスファルトの上を歩いていた。

どこへ向かうというあてもない。ただ、あのビルから、あの男から、一刻も早く離れたかった。

私の肩からは、まだじくじくと血が滲み、制服のシャツを黒く染めている。痛みよりも、心の芯が凍るような、初めて味わう敗北の感覚が全身を支配していた。あれは、戦いですらなかった。まるで、虫でもいたぶるような、一方的な蹂躙。


「…水無月さん」


高坂さんが、私の顔を覗き込むようにして言った。彼女の顔も、恐怖と混乱で青ざめている。


「私の家に来て。ここから近いから。手当しないと、血が…」


私は首を横に振る気力もなかった。他人の家にあがるなんて、普段の私なら絶対にありえない選択だ。けれど、今はどうでもよかった。あの薄暗くて冷たい、誰もいない自分の家に帰るよりは、まだマシな気がした。

彼女の家は、駅から少し歩いた住宅街にある、ごく普通のマンションの一室だった。ドアを開けた瞬間、ふわりと、生活の匂いがした。夕飯の準備をしているのだろうか、醤油と出汁の混ざった温かい匂い。それは、私の知らない、家庭の匂いだった。


「おじゃまします…」


蚊の鳴くような声で呟き、私は部屋に足を踏み入れた。

リビングは、明るい色のカーテンと、いくつかの観葉植物で彩られ、綺麗に整頓されていた。壁には、幼い頃の高坂さんが両親らしき人物と満面の笑みで写っている写真が飾られている。

光だ。

ここは、隅々まで光に満ちている。私の部屋の、モノトーンで統一された、まるで時間が止まったような無機質な空間とは、何もかもが違っていた。居心地の悪さに、今すぐここから逃げ出したくなる。


「座ってて。救急箱、持ってくるから」


高坂さんは私をソファに座らせると、ぱたぱたと部屋の奥へと消えていった。柔らかなソファに体が沈み込む。その優しさが、まるで棘のように私を苛んだ。

戻ってきた彼女は、私の隣にそっと座り、慣れない手つきで消毒液をコットンに含ませた。


「ちょっと、しみるかも」


そう言って、彼女は私の肩の傷にそっとコットンを当てる。


「…っ」


消毒液が染みて、思わず声が漏れた。それよりも、彼女の指先が肌に触れる、その感触の方が、私を混乱させた。近い。近すぎる。他人に、こんな至近距離で触れられるなんて、いつぶりだろうか。


「ごめん、痛かった?」

「別に」


私はそっぽを向いて答える。彼女のシャンプーの、甘い香りがした。心臓が、うるさいくらいに鳴っている。

手当てが終わり、ガーゼとテープで傷が保護されると、彼女は「はい」と温かいマグカップを私の手に握らせた。中身は、甘いミルクティーだった。


「怖かった…」


マグカップを両手で包み込むように持ちながら、高坂さんがぽつりと呟いた。


「あの人、今までのとは全然違う。あの黒いのも、なんだか生き物みたいで…」

「…うん」


私も、頷くしかなかった。


「あいつは、今までのとはレベルが違う。あれは、人の心から生まれた澱みじゃない。悪意そのものだ」


私たちは、ソファの上で膝を抱えながら、今日の出来事を振り返った。フードの男が言っていた「世界の浄化」という言葉。「澱みを進化させている」という事実。彼らの目的も、正体も、何もわからない。ただ、途方もなく巨大な悪意の存在だけが、現実として私たちの前に立ちはだかっていた。


「水無月さんを『仲間にならないか』って誘ってたよね」


高坂さんが、不安そうな目で私を見る。


「絶対ダメだよ! あんな奴らと仲間になんてなったら…」

「…わかってるよ」


私は、彼女の言葉を遮った。


「『仲間』なんて、あんたみたいな奴に言われたくない」


そう、強く言い放った。けれど、その言葉が嘘であることくらい、自分がいちばんよくわかっていた。

仲間。

その言葉は、ずっと一人だった私の心に、甘い毒のように染み込んでいく。もし、私と同じ力を持つ人間がいたら。もし、私のこの孤独を理解してくれる存在がいたら。そんなありえない妄想が、あの男の誘いをきっかけに、頭をもたげていた。


「私の力は、もう通用しないかもしれない」


弱音だった。誰にも聞かせたことのない、私の本心。


「私の力は、あくまで個人の澱みを『壊す』だけのものなんだ。人の心に根差してるから、高坂さんの声みたいに、人の心が揺らげば隙ができる。でも、あいつは違う。悪意の塊だ。心がない。だから、あんたの声も効かなかったし、私の攻撃も、威力が半減してた」


戦闘中、じわじわと精神を削られ、戦意を失いかけたことも話した。それは、私の能力の致命的な弱点だった。


「そんなことない!」


高坂さんは、私の言葉を強く否定した。


「そんなことないよ! 私、見てたもん。水無月さんの力がなかったら、私たちはとっくにやられてた。力が足りないとか、通用しないとか、そんなの、これから考えればいいじゃない!」

「どうやって…」

「私にも、何かできることがあるはず。絶対に。水無月さん一人に戦わせない。私も、一緒に戦う方法を探すから」


その目は、恐怖に濡れながらも、強い意志の光を宿していた。

私は、ふと気づいたことを口にした。


「あんたの声を聞いてると、なんだか、血の巡りが良くなる気がする」

「え?」

「気のせいかもしれないけど。第4話で、あのサラリーマンの澱みを祓った時もそうだった。あんたの声が聞こえた瞬間、茨の力が少しだけ増したような気がしたんだ」


それは、本当に些細な感覚だった。でも、もしかしたら、彼女の力は、ただの「声援」ではないのかもしれない。人の心に働きかけ、そして、私の力にさえも、何らかの影響を及ぼす、特別な何かなのかもしれない。

話しているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。部屋の明かりが、温かく私たちを照らしている。


「あのさ、よかったら、うちに泊まっていけば?」


高坂さんが、遠慮がちに言った。


「こんな時間だし、肩も痛むでしょ。ご両親に連絡して…」

「…いらない」


その言葉に、私は凍りついたように動きを止めた。


「連絡なんて、いらない。誰も、私のことなんて気にしてないから」


部屋の温かい空気が、一瞬で冷え切った。言ってしまった、と思った。一番、触れられたくない部分。

これ以上は踏み込めないと察したのだろう。高坂さんは、何か言いたげに口を開きかけたが、結局は黙って、悲しそうに微笑むだけだった。

高坂さんの家を出て、冷たい夜道を一人で歩く。

借りた傘を手に、雨上がりの匂いがするアスファルトを踏みしめた。肩の傷が、忘れた頃にずきりと痛む。それ以上に、心の奥が高坂さんの部屋で感じた温かさで、火傷したみたいにひりひりと痛んでいた。

一人で戦うのが、当たり前だった。

誰かと協力するなんて、考えたこともなかった。

でも、今日、はっきりと悟ってしまった。一人では、もう限界なんだと。


「一緒に戦う、か…」


高坂さんの言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。私は、自嘲するように小さく笑った。

その笑みには、どうしようもない絶望と、そして、ほんの少しだけ、縋りたくなるような希望の色が混じっていた。

敵は、すぐそこにいる。

私の孤独な世界は終わりを告げ、これから、二人で絶望を見上げることになるのかもしれない。

それでも。

今はまだ、隣に誰かがいるという、慣れない感覚を、もう少しだけ信じてみたいと思ってしまった。

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