第6話 街中の澱み
高坂さんに「友達」と言われた日を境に、私の日常は音を立てて変わり始めた。
いや、日常そのものは変わらない。教室の隅で息を潜める私と、光の中で笑う彼女。その構図は同じだ。変わったのは、休み時間の風景。
「水無月さん、これ卵焼き。ちょっと甘すぎたかもだけど、食べる?」
「…いらない」
「えー、美味しいのに。一口だけ」
「いらないってば」
高坂さんが、屈託なく自分の弁当のおかずを私に差し出してくるようになったのだ。私はいつも断るけれど、彼女は全くめげない。そのやり取りを、クラスメイトたちが「どういう関係?」とでも言いたげな顔で、遠巻きに見ている。居心地の悪さと、胸の奥が少しだけ温かくなるような感覚。私はまだ、その感情に名前をつけられずにいた。
そんな奇妙な日常が続いていたある日、学校で不穏な噂が流れ始めた。
「ねえ、聞いた? 駅前のさ、あの古い雑居ビル」
昼休み、高坂さんが私の机にやってきて、声を潜めて言った。
「最近、あのビルに入ると急に気分が悪くなるって話。中には、入ったきりしばらく帰ってこなかった人もいるらしいよ」
「……」
「もしかして、これって澱みと関係あるんじゃないかな」
彼女の言う通りだった。
ここ数日、あのビルの方角から、これまでとは明らかに質の違う澱みの気配を感じ取っていた。個人の心から自然に漏れ出す、悲しみや怒りといった生々しい感情じゃない。もっと冷たくて、計画的で、ねじくれた悪意の匂い。
放課後、私たちは自然な流れで、噂の雑居ビルへと向かっていた。
ビルは、シャッターが下りたテナントばかりが並ぶ、ゴーストタウンのような場所だった。入り口に立っただけで、空気が重く、澱んでいるのがわかる。
「うっ…ここ、何かすごく嫌な感じがする…」
高坂さんが腕をさすって顔をしかめる。
「引き返しなよ。あんたが来ていい場所じゃない」
「嫌だ。水無月さんを一人にはしておけないよ」
彼女は、頑として譲らなかった。
私たちは、軋む階段を上り、ビルの中へと足を踏み入れた。内部は、想像以上だった。壁や床に、まるで血管のように、黒い筋が幾重にも走っている。ビル全体が、巨大な澱みの巣にされかかっていた。
一番気配が濃いのは、最上階の突き当たりの部屋だ。
私たちは息を殺して、その部屋のドアをゆっくりと開けた。
そこに広がっていたのは、異様な光景だった。
部屋の中央には、魔法陣のようなものが描かれ、その中心に、これまで見たこともない怪異が蠢いていた。それは、人間の感情から生まれたとは思えないほど、歪で、禍々しい。まるで、誰かが悪意だけを抽出して、無理やり形にしたような、人工的な気配。
そして、その怪リのそばに、一人の男が立っていた。
黒いフードを目深に被っていて、顔は見えない。男は、怪異をまるでペットでも眺めるように、満足げに見下ろしていた。
「おや」
男が、ゆっくりとこちらを向いた。
「お客さんか。この子の餌にしては、少し元気すぎるみたいだね」
不気味なほど落ち着いた声だった。
まずい。こいつが、このビルを、この街をおかしくしている元凶だ。
「高坂さん、下がってて!」
人工的な怪異が、獣のような唸り声を上げ、私たちに襲いかかってきた。これまでの澱みとは比べ物にならないほどの速さ、そして純粋な殺意。
私は咄嗟にカミソリを抜き、袖を捲る。痛みと共に生まれた血の茨で、その攻撃を受け止めた。
「へえ」
フードの男が、面白そうに声を漏らした。
「血を糧にする能力か。珍しい。そして、とても美しい」
怪異の爪が、茨とぶつかり、火花のようなものを散らす。なんて力だ。受け止めているだけで、腕が痺れる。しかも、相手の攻撃に宿る純粋な悪意が、私の精神を直接削ってくる。
高坂さんが後ろで「頑張って!」と叫んでいるが、今回はその声が力にならない。この怪異には、人の心を動かして弱らせるという攻略法が通用しない。
「君、いいね。すごくいい」
男は楽しそうに語りかける。
「その力、こんな掃き溜めみたいな街で、ちまちまと澱み掃除に使うなんてもったいない。僕たちの仲間にならないか? 君がいれば、僕たちの理想はもっと早く実現できる」
「仲間…? あんたたちの目的は、何」
「世界の浄化さ。病みきった人間たちを、一度すべて更地に戻す。そのために、僕たちは『澱み』を集め、より強力なものへと進化させているんだ」
男の言葉に、全身の血が凍るような感覚を覚えた。こいつは、私とは違う。澱みを消すんじゃなく、利用しようとしている。
「ふざけないで…!」
私が叫んだ瞬間、怪異が茨を弾き飛ばし、その鋭い爪が私の肩を浅く切り裂いた。
「っ…!」
「水無月さん!」
このままじゃ、殺される。
私は初めて、戦いの中で明確な「死」の恐怖を感じていた。
今までの相手は、ただそこに在るだけの現象だった。でも、こいつらは違う。明確な意志を持って、私たちを排除しようとしている。
「高坂さん、走って!」
私は高坂さんの腕を掴むと、振り返りもせずに出口に向かって全速力で走り出した。
「あはは、逃げるのかい? いいよ、今日は見逃してあげよう。君の名前、教えてくれるかな?」
背後から、男の楽しそうな声が追いかけてくる。
「また、迎えに行くからさ」
私たちは、もつれる足でなんとかビルから脱出し、雑踏の中へと紛れ込んだ。
路地裏で、壁に手をつき、二人で荒い息を繰り返す。私の肩からは、じわりと血が滲んでいた。
恐怖と、屈辱。自分の無力さに、奥歯を強く噛み締める。
「あれは、一体、何なの…」
高坂さんが、震える声で尋ねた。
「わからない…」
私は、かろうじてそれだけ答える。
「でも、あいつが、この街をおかしくしてる元凶だ」
これまでは、誰かの心を救うための、孤独な後始末だった。
でも、違う。
これから始まるのは、そんな生易しいものじゃない。
街全体を蝕もうとする巨大な悪意との、本当の「戦い」だ。
私の平凡な絶望は、もう、どこにもなかった。
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