第4話 孤独じゃない影法師
私の世界に亀裂が入ってから、数日が過ぎた。
日常は、何も変わらないようでいて、確実に何かが変わってしまっていた。その変化の正体は、高坂さんだ。
彼女は、あの日以来、私に馴れ馴れしく話しかけてくることはなかった。けれど、その視線はいつも、教室のどこかから私を捉えていた。私が昼休みに席を立てば、彼女も少し遅れて席を立つ。私が一人、旧校舎へ続く渡り廊下で時間を潰していると、彼女は廊下の入り口に姿を現し、ただそこに立っている。そして、昼休みが終わるチャイムが鳴ると、何も言わずに自分の教室へ戻っていく。
それはまるで、迷子のペットを見守る飼い主のようで、ひどく鬱陶しかった。私の聖域だったはずの孤独な時間に、他人の気配が混じり込む。その居心地の悪さに、何度も「ついてこないで」と喉まで出かかった。でも、その言葉を飲み込んでしまうのは、彼女の存在が、ただ鬱陶しいだけではなかったからかもしれない。一人きりの空間に、もう一人誰かがいる。その奇妙な安心感を、私は認められずにいた。
その日も、放課後になると彼女は当たり前のように私の後をついてきた。私が何も言わないのをいいことに、今や私の半歩後ろを歩くのが定位置になっている。
「…あんた、暇なの」
耐えきれずに私が言うと、彼女は「暇じゃないよ。でも、水無月さんの方が大事だから」と、平然とした顔で答えた。その言葉の意味がわからなくて、私は黙り込む。
駅へ向かう雑踏の中、私はふと足を止めた。
空気が重い。まるで、水の中にいるみたいに、まとわりついてくる。道行く人々の表情は険しく、誰もが些細なことでイライラしているのが伝わってくる。ぶつかった肩に悪態をつく声。スマホを見ながら溜息をつく人。数日前よりも明らかに、街全体が病んでいる。
「ほら、言ったでしょ。おかしいんだよ、この街」
私の呟きに、高坂さんも不安そうに周りを見渡した。
「うん…なんだか、みんなカリカリしてるみたい。私まで、胸がざわざわする」
彼女には、私が見ているような具体的な「澱み」は見えないはずだ。それでも、肌で感じるほどの負のオーラが、この街を覆い始めていた。
その時、ひときわ濃い澱の気配を捉えた。
発生源は、大通りから一本外れた、古い雑居ビルが並ぶ薄暗い路地裏。それは、攻撃的な感情じゃない。もっと静かで、冷たい感情。「諦め」と「無気力」。社会に、人生に、自分自身に絶望し、何もかもを投げ出してしまった心が発する、ヘドロのような気配だった。
「…行くよ」
「え、どこへ?」
私は高坂さんの返事を待たず、路地裏へと足を踏み入れた。彼女も慌てて後を追ってくる。
路地の突き当たり、ゴミ収集所の脇で、一人のサラリーマンが壁に寄りかかっていた。虚ろな目で、虚空を見つめている。彼の足元から、黒い泥のような怪異がじわじわと染み出し、その全身を覆おうとしていた。それは明確な形を持たず、ただ、そこにいる人間の生命力を吸い尽くすことだけを目的とした、たちの悪い怪異だった。
「見て、あれ」と私が顎で示す。
高坂さんは目を凝らすが、サラリーマンしか見えないようだ。
「あの人、すごく辛そう…。周りの空気が、なんだか黒く見えるような…」
どうやら、完全には視えなくても、その気配だけは感じ取れるらしい。
「ここで待ってて。絶対に、来ないで」
私は念を押して、サラリーマンへと歩み寄る。高坂さんが息を飲む気配を背中に感じながら、ポーチからピンクのカミソリを取り出した。
袖を捲る。白い腕が夕暮れの薄闇に晒される。高坂さんが見ている。その事実が、私の指先をほんの少し、躊躇させた。
「…見ないでよ」
小さく毒づき、私は刃を走らせた。
痛みと共に溢れた血が、茨の鞭を形作る。いつもより、少しだけ形成が遅い。他人の視線が、私の儀式を鈍らせている。
泥状の怪異は、私に気づくと、その矛先をこちらに向けた。ぬるり、と地面を這い、私に向かってくる。私は茨を力いっぱい叩きつけた。べちゃり、という鈍い音と共に泥が飛び散る。だが、すぐにそれは再生し、また元の塊に戻ってしまう。手応えが、ない。
何度も、何度も茨を叩きつける。けれど、怪異はびくともしない。それどころか、泥に触れるたび、その根源である「諦め」の感情が私の中に流れ込んでくる。
『もういいだろう』『頑張ったって、何の意味もない』『楽になれ』
囁きが、頭に響く。私の戦う気力が、じわじわと削られていく。
もう、どうでもいいか。こんなこと、やめてしまいたい。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「水無月さん!」
路地の入り口から、高坂さんの悲鳴のような声が聞こえた。
その声で、私はかろうじて意識を繋ぎとめる。
「来ないで、って、言ったでしょ…!」
私が叫ぶのと、彼女が路地に飛び込んでくるのは、ほぼ同時だった。
「だって、あなた、危なかったから!」
彼女は怪異のことなど目に入っていないかのように、私を通り過ぎ、その発生源であるサラリーマンに駆け寄った。馬鹿だ、この子。そう思った。
「大丈夫ですか!」
彼女はサラリーマンの肩を揺さぶる。男は虚ろな目で、彼女を一度見ただけだった。
「何があったかは知りません! でも、そんな顔しないでください! 生きてれば、きっと何か…!」
ありきたりな、使い古された励ましの言葉。そんなもので、人の心が動くはずがない。私が、一番よく知っている。
けれど。
彼女の必死な声が、澱んだ路地裏に響き渡った瞬間、泥の怪異の動きが、ぴたり、と一瞬だけ止まったのだ。
その変化を、私は見逃さなかった。
そうか。こいつは、ただ壊すだけじゃダメなんだ。
こいつを生み出している人間の心が、少しでも動けば、弱体化する。
人の心に働きかける。そんなこと、私には絶対にできない。私にはない力。
「高坂さん!」
私は、初めて彼女を名前で呼んだ。
「もっと。そいつに話しかけ続けて」
「え?」
「いいから!」
戸惑いながらも、彼女は頷き、さらに必死にサラリーマンに語りかけ始めた。
そのまっすぐな言葉が、光の矢のように、怪異の動きを縛り付けていく。
動きが鈍った、今だ。
私は残った全ての力を振り絞り、茨を泥の中心、最も色が濃い部分に突き立てた。
「これで、終われ…!」
ジュウ、と肉が焼けるような音と共に、泥の怪異は断末魔さえ上げずに蒸発し、消えていった。
後に残されたのは、壁に寄りかかって荒い息をつく私と、呆然と立ち尽くす高坂さん。
そして、はっと我に返ったサラリーマン。彼は高坂さんの顔を見て「すまない、少しぼーっとしていた」と呟くと、夢から覚めたような足取りで、ふらふらと路地裏から去っていった。
「…あんた、馬鹿じゃないの。死にたいの」
私は、壁に背を預けたまま、かろうじて言葉を絞り出した。声に、いつもの刺々しさはない。
「だって、水無月さんが、飲み込まれそうだったから…」
彼女は、泣きそうな顔でそう言った。
沈黙が、私たちの間に流れる。
私は、気づいてしまった。高坂さんのような人間が隣にいることが、私の孤独な戦い方を、根底から変えてしまうかもしれないという事実に。
それは、救いなのだろうか。
それとも、私の脆い世界を、さらにめちゃくちゃに壊してしまう、劇薬なのだろうか。
「…帰るよ」
ようやく立ち上がった私がそう言うと、彼女はこくりと頷いた。
夕暮れの帰り道。
並んで歩く私たちの影が、二つ、アスファルトに長く伸びていた。
いつも一人だった私の影法師に、もう一つの影が寄り添っている。その光景から、私は、どうしても目を逸らすことができなかった。
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