第3話 踏み込んできた他人
世界が壊れた翌日は、嘘みたいに平凡な顔をしてやってくる。
資料室での一件以来、私は一つの視線を常に背中に感じるようになっていた。それは粘つくような好奇の視線でも、侮蔑するような冷たい視線でもない。ただ、ひたすらに戸惑いと、何かを問いたげな色を帯びた、まっすぐな視線。高坂さんの視線だった。
彼女は、話しかけてはこなかった。
授業中も、休み時間も、ただ遠くから私を見ているだけ。クラスメイトたちは、そんな彼女の様子を少し不思議に思っているようだった。いつも輪の中心にいる彼女が、時折会話から意識を飛ばし、教室の隅にいる私をじっと見つめているのだから。その度に私は気づかないふりをして、窓の外に広がる、どうでもいい景色に意識を溶かす。
面倒なことになった。
心の中で、何度も同じ言葉を繰り返す。
私の世界は、私一人で完結しているはずだった。誰にも理解されず、誰のことも理解せず、ただ息をして、時々血を流して、心をすり減らしていく。それが私の日常で、私の世界のすべてだった。
そこに、他人が入り込む余地なんて、ないはずだったのに。
あの女は、見てしまった。私の聖域であり、同時に地獄でもある、あの瞬間を。
苛立ちと、ほんの少しの恐怖。そして、認めたくはないけれど、ほんのわずかな好奇心。彼女は、私のことをどう思っているんだろう。化け物みたいだと、気味が悪いと、そう思っているに違いない。それでいい。そうであってほしい。そうでないと、困る。
放課後、逃げるように教室を飛び出した。早く一人になりたかった。一人になって、このざわつく心を鎮めたかった。昇降口で靴を履き替え、校門へと早足で向かう。その時だった。
「水無月さん、待って!」
背後から聞こえた声に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
振り返るまでもない。高坂さんだ。
私は無視して歩き続けた。しかし、彼女は小走りで追いついてくると、私の腕を掴んだ。昨日とは違う、ためらいがちで、でも決して離さないという意志の籠った手つき。
「話がしたいの。お願い」
息を切らしながら、彼女はまっすぐに私の目を見て言った。
「話すことなんてない」
私は腕を振り払おうとする。でも、彼女は離さなかった。
「ある。私にとっては、あるの」
周囲の生徒たちが、何事かと私たちを遠巻きに見ている。最悪だ。
私は深く、深くため息をついた。
「…わかった。場所、変える」
私たちは、駅前の騒がしさから一本路地に入った、古びた喫茶店のボックス席に向かい合って座っていた。珈琲の香りと、微かに漂うタバコの匂い。客は私たち以外に、カウンターで新聞を読んでいる老人だけだった。ここなら、誰にも邪魔されない。
テーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスが、水滴で濡れていく。気まずい沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「昨日のこと…あれは、一体何だったの」
切り出す声は、少し震えていた。
「あなたの腕の傷は…昔から? あなたは、いつも、ああやって…」
私はストローで氷をかき混ぜるだけで、答えなかった。
「忘れて。あなたには関係ない」
「関係なくない!」
彼女は、テーブルを叩きそうな勢いで声を上げた。カウンターの老人が、ちらりとこちらを見る。彼女は慌てて声を潜めた。
「関係なくないよ。だって、私はあなたに助けてもらったんだから」
助けた、という言葉が、ガラスの破片みたいに私の耳に突き刺さる。
「助けたんじゃない。ただ、そこにいた邪魔なものを壊しただけ。あなたは、たまたまそこにいただけ」
「それでも!」
彼女は食い下がる。
「じゃあ、あれは何なの。あの、黒い手は…」
「言ったって、どうせ信じない」
「信じる。信じるよ。だって、見たんだから」
その目には、嘘はなかった。ただ純粋な、知りたいという意志だけがあった。
私は観念して、重い口を開いた。どうせ、もう知られてしまったんだ。
「人の病みだよ。嫉妬とか、劣等感とか、そういう負の感情が集まって、形になったもの。私は、それを視て、壊せるだけ」
「病みが…形に…」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「じゃあ、あの手は、私の…。私が、生み出したの…?」
「あんた一人のものじゃない。あんたのプレッシャーが引き金になって、あの場所に溜まってた他の奴らの感情と混ざっただけ。言ったでしょ、感情のゴミ溜めだって」
彼女は言葉を失くし、俯いた。
「そう…私、あんなものに、飲み込まれそうになってたんだ…」
そして、顔を上げて、もう一度私の目をまっすぐに見た。
「どうして、そんな力があなたにあるの? いつから…?」
その質問に、私の心臓が、また軋むような音を立てた。
脳裏に、忘れたいはずの光景が蘇る。雨の匂い、サイレンの音、そして、私の手のひらから滑り落ちていった、小さな体温。
「…昔」
私の口から、自分でも意図しない言葉が漏れた。
「昔、助けられなかった子がいたから、かもね」
それ以上は、何も言えなかった。言いたくなかった。
私は話を断ち切るように、アイスコーヒーを一口飲んだ。氷の冷たさが、喉を焼くようだった。
彼女も、それ以上は聞いてこなかった。ただ、何かを察したように、悲しそうな顔で私を見ていた。
「ごめん、なさい」
「謝ることじゃない」
私はぶっきらぼうに答える。
「それより、最近おかしい。街全体の澱みが、濃くなってる気がする。昨日みたいなのが、これからもっと増えるかもしれない」
これも、口にするつもりのなかった言葉だった。
「街全体が…?」
「あんたも気をつけなよ。光の中にいる人間ほど、影は濃くなるから」
それは、ほとんど忠告のようだった。なぜ、私はこんなことを言っているんだろう。
しばらくの沈黙の後、彼女は意を決したように言った。
「私に、何かできることはないかな」
その言葉に、私は思わず鼻で笑ってしまった。
「ないよ。あなたみたいな普通の人間に、できることなんて何もない。関わらないで。それが一番」
「でも…」
「いい? 今日のことは、誰にも言わない。私のことも忘れる。いいね?」
私は席を立ち、伝票を掴んだ。もう、この場所にいるのは限界だった。
「待って」
彼女の声が、背中に投げかけられる。
「忘れない。忘れることなんてできない」
私は振り返らなかった。
「私は、あなたのことを知ってしまったから。もう、他人事じゃない。だから…」
彼女は、最後まで言い切らなかった。
いや、私が、聞かずに店を出てきてしまった。
一人で歩く帰り道。
夕日が、私の影を長く、長くアスファルトに伸ばしている。
高坂さんと話したことで、心の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。他人に自分の領域へ踏み込まれる、耐えがたいほどの不快感。そして、心の奥の奥の方で、ほんの米粒みたいに小さく灯った、安堵感。
私の世界に、他人がいる。
なんて、気持ち悪いんだろう。
…でも。
あいつの隣にいる時、ほんの少しだけ、息がしやすかったのは、なんでだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、私は自分の影を踏みつけて、歩き続けた。
孤独な私の世界に、はっきりと亀裂が入った音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます