第2話 目撃者

翌日の教室は、昨日と何も変わらない退屈な空気に満ちていた。

気怠い。体というより、心の芯が鉛みたいに重い。昨夜取り込んだ、見知らぬ誰かのどす黒い嫉妬が、まだ胃のあたりに粘りついている感覚。消化不良の感情は、私の思考を鈍らせ、世界から彩度を奪っていく。


教師が黒板に書きつける数式の羅列も、クラスメイトたちのひそやかな笑い声も、全部が遠い世界の出来事みたいだった。私は頬杖をついて、窓の外を流れる雲をただ眺めていた。あの雲みたいに、何の形も意味も持たず、ただ流れて消えていけたら、どんなに楽だろうか。

私のこの戦いは、一体何なんだろう。

誰かを救ったところで、感謝の言葉は私をさらに重くするだけ。誰もこの戦いを知らない。知られたくもない。見返りなんて何もない、ただ心をすり減らすだけの不毛な作業。なのに、見つけてしまったら、見て見ぬふりはできない。それは偽善か、自己満足か、それともただの馬鹿なのか。答えは、いつまで経っても見つからない。


昼休みを告げるチャイムが鳴ると、教室は一気に騒がしくなる。机をくっつけて弁当を広げるグループ。購買に走っていく男女。私は誰に声をかけるでもなく、静かに席を立った。賑やかな場所は苦手だ。他人の幸福そうな空気が、私の孤独の輪郭をくっきりと浮かび上がらせるから。

逃げるように向かったのは、ほとんど誰も利用しない旧校舎へと続く渡り廊下だった。埃っぽくて、少しカビ臭い、忘れられた場所。ここなら、誰も来ない。そう思ったのに。

ひやり、とした嫌な感覚が肌を撫でた。

昨日とは違う種類の、粘りつくような空気の澱み。それは一つの強い感情じゃない。いくつもの弱々しい負の感情が寄り集まって、一つの大きな塊になろうとしている気配。

焦り、劣等感、見捨てられることへの恐怖。

ああ、ここは学校だった。そんな感情のゴミ溜めみたいな場所だってこと、忘れてた。受験、成績、友人関係。生徒たちの見栄と不安が、この古い校舎の隅に吹き溜まっている。

面倒だ、と心底思う。でも、足は勝手に澱の中心へと向かっていた。軋む床を踏みしめて、突き当たりの資料室の前に立つ。扉は少しだけ開いていた。澱の気配は、この中から漏れ出している。

そっと中を覗くと、そこにいたのは意外な人物だった。

山積みの資料に囲まれて、床に座り込んでいる女子生徒。いつもクラスの中心で、誰にでも明るく声をかける、学級委員長の彼女だ。名前は、確か高坂さんだったか。私とは住む世界が違う、光の側にいる人間。

でも、今の彼女は、いつもみたいに笑ってはいなかった。

膝に置かれたノートには、解読不能な文字がびっしりと書き殴られている。カタカタと小刻みに震える指先は、爪を噛む癖でもあるのか、痛々しいほど短くなっていた。

彼女の周りに、黒い靄のようなものがまとわりついているのが視える。まだ完全な形にはなっていない、怪異の赤ん坊。彼女自身のプレッシャーと、この場所に溜まった他の生徒たちの負の感情が共鳴して、今まさに生まれようとしていた。

私が息を飲んだ、その音に気づいたらしい。彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを向いた。その目は虚ろで、焦点が合っていない。


「…水無月さん」


私の苗字を、彼女が知っていたことに少し驚く。私たちは、まともに話したことなんて一度もないはずだ。


「ここで、何してるの」


か細い、消え入りそうな声だった。いつもの快活さはどこにもない。


「別に」


私は短く答えて、その場を立ち去ろうとした。関わってはいけない。彼女のような人間と、私のような人間は。


「待って」


彼女は震える声で私を呼び止める。


「あなたも、そうでしょ」

「…何が」


「みんな、私に期待してる。委員長だから、しっかりしてて当たり前。勉強ができて当たり前。いつも笑っていて、当たり前。でも、本当は、もう無理なの。苦しいの。息ができない」


彼女の言葉に、澱が呼応するように蠢いた。まずい。彼女の精神が、怪異の孵化を促している。


「あなたも、そうでしょ。水無月さん。いつも一人で、誰とも喋らなくて、つまらなそうな顔して。本当は、誰かに構ってほしいんじゃないの? 寂しいんでしょ?」


それは、彼女自身の心の叫びだった。私に投げかけた言葉は、ブーメランのように彼女自身に突き刺さっていく。

その瞬間、彼女の背後の靄が、一気に形を成した。

現れたのは、無数の黒い「手」。壁や床から、何十本もの腕がぬるりと生えてきて、彼女に向かって伸びていく。それは誰かの期待の手。誰かの嫉妬の手。そして、自分自身を縛り付ける、自分の手。


「きゃっ」


彼女は短い悲鳴を上げて、腰を抜かした。

私は舌打ちしながら、彼女の腕を掴んで無理やり後ろに引き倒す。すんでのところで、手が空を切った。


「面倒くさいな、ほんと」


呟きながら、私は彼女の前に立つ。背後で、彼女が息を飲む気配がした。

もう隠している時間はない。トイレに駆け込む余裕もない。

私は、覚悟を決めた。

ためらいがちに、左腕のシャツの袖を捲り上げる。

白い腕に刻まれた、幾重もの白い線。

ポーチから取り出したピンクのI字カミソリを、その一つに重ねるように、強く、引いた。

ぷつり、と熱い痛みが走る。

流れ出した赤い血は、床に落ちる前に光の茨へと変わっていく。

後ろで、ひっ、と彼女が息を止めるのがわかった。驚愕と、恐怖と、そしておそらくは嫌悪に染まった視線が、私の腕と、血の武器に突き刺さる。

見るな、と叫びたかった。

でも、声は出なかった。


『お前も同じ』


怪異が、無数の手を蠢かせながら囁く。その声は、この資料室に溜まった全ての負の感情を束ねたように、重く響いた。


『期待されるのも辛い。期待されないのも辛い。お前には誰も期待していない。お前は無価値だ。誰にも必要とされていない』


その言葉は、委員長の心を抉るための刃だ。

そして、私の心にも、深く突き刺さる。


「うるさい」


私は茨を構え、迫りくる黒い手の一本を叩き斬った。手応えはない。断末魔もなく、斬られた手は黒い霧となって消えるが、すぐにまた別の手が壁から生えてくる。キリがない。


『独りだ』

『お前はいつも独りだ』


黒い手が、四方八方から私に襲いかかる。捕まれれば、きっとその手が生み出された感情の渦に引きずり込まれる。茨を鞭のようにしならせ、なぎ払う。でも、数が多すぎる。


「水無月、さん…」


背後から、震える声が聞こえる。


「なに、それ…腕、血…」


うるさい、黙ってて。今は集中させて。

心の中で叫ぶが、彼女の動揺が私の集中を乱す。一本の手に、足首を掴まれた。ひやりとした感触と共に、劣等感の奔流が流れ込んでくる。「どうしてあの子ばかり」「私だって頑張っているのに」。知らない誰かの感情が、私を飲み込もうとする。


「…っ!」


茨で、自分の足首を掴む手を斬り裂く。痛みで、さらに意識が覚醒する。そうだ、この痛みだけが私のものだ。

この怪異の核はどこだ。

そこら中から生えてくる手を一つ一つ潰しても意味がない。この澱を生み出している中心。おそらく、それはまだ形になっていない。この空間そのものが、怪異の本体に近い。

ならば、やることは一つだけだ。

私は手首の傷に意識を集中する。もっと血を、もっと力を。傷口が熱く脈打ち、茨の棘が鋭さを増し、長く伸びていく。


「こんな世界、全部壊れちゃえばいいのに」


私の口から漏れたのは、私の言葉なのか、それとも私の中に流れ込んできた誰かの言葉なのか。

もう、どうでもよかった。

茨を、天に向かって突き上げる。

伸びた茨は複雑に絡み合い、巨大な檻のような形を成した。そして、その無数の棘の先端が、一斉に内側を向く。


「消えろ」


檻が、急速に収縮した。

内側に向けられた無数の棘が、資料室に生えていた全ての黒い手を、空間ごと貫き、引き裂いていく。ギャア、という悲鳴にもならない音が、部屋中に木霊した。それはまるで、たくさんのガラスが一斉に砕け散るような音だった。

黒い手は跡形もなく消え去り、まとわりついていた澱んだ空気も、嘘のように晴れていく。

血の茨は役目を終え、光の粒子となって私の手の中で消えた。

後に残ったのは、静寂と、床にへたり込んだまま呆然としている委員長と、そして、ひどい消耗感に包まれた私だけだった。

捲れていた袖を、無言で下ろす。傷はもう塞がっている。

でも、彼女は見てしまった。私の傷跡を。私が自らを傷つける姿を。

そして、この非現実的な戦いを。

私は彼女に背を向け、一歩、踏み出す。

もう、ここにはいられない。


「待って」


腕を、掴まれた。

振り向くと、高坂さんが、泣きそうな顔で、それでも必死に私の腕を掴んでいた。


「今の、何…? あなた、一体…。その腕の傷は…」

「…見るな」


私は、自分でも驚くほど冷たい声で言った。

彼女の手を、振り払う。


「関わらないで。私のことなんて、放っておいて」


そう言い捨てて、私は資料室から逃げ出した。

ありがとう、という言葉も、同情するような視線も、もういらない。

ただ、独りにしてほしかった。

自室のベッドに倒れ込む。

今日取り込んだのは、焦りと劣等感。自分はここにいてはいけないんじゃないかという疎外感。最悪の気分だった。

でも、今日はいつもと違うことが一つだけあった。

私の秘密が、あの光の中にいるはずの女の子に、知られてしまったこと。

それは、終わらないループに差し込んだ、一筋の光なんだろうか。

それとも、私の孤独な世界を壊しにきた、新たな絶望の始まりなんだろうか。

答えは、まだ、わからない。

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