第2話 旅立ち

 

 夕陽が差し込む森。

 かつて剣鬼と呼ばれた男は、咳き込みながらも口元に薄く笑みを浮かべていた。リナはポカンとした表情を浮かべ、静かに立っていた。


 リナはまだ、言葉の意味を理解できていなかった。


「構えろ、リナ。これがの稽古だ」

「最期? それに斬れって──」


 どういうこと──と、訊くことは許されなかった。師は明確な殺意をもって、刀を振るう。


「……ぐっ!」


 リナもまた、剣を抜くしかない。

 状況は全く理解できない。リナにとって、斬る対象は敵しかいない。しかし今は、敵ではないのに、師本人を斬れと言われた。


「どうした、リナ! 俺を斬り伏せてみせろ!」

「何で。どうして……?」

「おい。迷っていると──死ぬぞ」


 それは最期のきらめき。

 生命のすべてを燃やし尽くすかのように、師は全身へ魔力を巡らせていき、完全に本領へと至る。


 晩年にあった衰えは、もはや影すら残さない。いまこの瞬間――ここに、あの〈剣鬼〉が再誕した。


「……ッ!」


 斬り違い、斬り結ぶ。リナは確かに、全盛期へと向かいつつある。だが、まだ途上だ。


 一方、目の前に立つのは、かつて〈剣鬼〉と恐れられた傑物。その実力は――完全に拮抗していた。



「ふ──そうだ。そのまま来い」


 微かに笑みを浮かべる。

 そして、師はさらに加速した。


 一歩。それだけで、空気が軋む。

 無駄のない踏み込み。

 足裏が地を抉り、砂が風に舞い上がる。



「──スゥ」


 意識がさらに深層へ沈む。

 リナはすでに──〈斬る〉という本能の内側にいた。


 体を捻り、刃を合わせる。

 火花が散る。視線は逸れない。


 重い。病に蝕まれた身でなお、師の剣は圧倒的な圧を放っていた。


「いいぞ。しかし、それだと俺は斬れないぞ? もっと魅せてみろ。リナの剣を──」

「……」


 もうリナに声は届いていない。


 二人の刃が交わるたび、空気が鳴動する。

 剣気が風圧を生み、足元の砂を巻き上げた。


 斬り違い、斬り結び、また踏み込む。

 互いの間合いが消えるほどの接近戦。

 リナは一瞬の隙を見極め、下段から斜めに振り上げる。だが、師は刃を寝かせて受け流した。


 力を抜く。

 そのわずかな柔の動きが、リナの体勢を崩す。


「──柔よく剛を制す。思い出せ。お前に教えたことを」


 その言葉と同時に、師の剣が横薙ぎに走る。

 頬をかすめ、赤が一滴落ちた。


 しかし、リナは斬られたことを意に介せず、さらに踏み込む。師の剣筋を読む。呼吸、視線、肩の動き――全てが彼女の学んだ軌跡だ。


 だからこそ、次を読める。


「――ハアッ!」


 リナの鋭い踏み込みから、閃きが生まれる。その閃きを師は防ぐことができなかった。


 今、この瞬間。

 リナは──〈神の剣域〉へ足を踏み入れた。


「ふ。そうだ……それでいい」


 時が、止まったかのようだった。

 細められた師の瞳には、慈しみと誇りが静かに宿っている。


 彼から血が滴る。

 もはや、長くはない。


 リナは全身全霊をもって、師を斬り捨てた。


「師匠……」


 リナの意識が戻ってくる。

 なぜ敵ではないのに、斬れと言ったのか。

 なぜ斬られたというのに、笑っているのか。


 リナにはまだ、その理由が分からなかった。


「人は、ひとりで死ぬものだと思っていた。だが──どうやら俺はそうじゃなかったみたいだ。あぁ。悪くない。悪くない人生だった」


 師は懐かしむように、これまでの人生を振り返るように、満足そうに言葉を紡いだ。


「俺はお前に、剣しか教えられなかったが……剣の果てにある心は、自分おまえで掴め」


 血溜まりの中に立つ師は、リナに向けて使い古した刀を差し出す。


「お前が使え。お前こそが、コイツに相応しい」

「……うん」


 師を〈剣鬼〉たらしめた刀は、リナへと受け継がれた。




「──斬れ。これが、最期の命令だ」



 分からない。分からないが、リナはこれこそが師との別れだと知る。


 その声に導かれるように、リナはゆっくりと抜刀した。


 風が鳴り、夕陽の中に閃光が走る。

 刃は確かに師の胸を貫いた。

 

 血の温もりが腕を伝う。だがリナの表情は、何も映さなかった。ただ、生命を終える師のことを静かに見つめるだけだった。



「──もっと広い世界を知れ。お前はもう……自由だ」



 その言葉が途切れ、師の身体が静かに崩れ落ちる。リナは納刀し、糸が切れた師の体を受け止めた。


 手の中に残ったのは、血の温もりと。

 剣の教えだった。


 その後――

 リナは、海の見える丘に師を埋葬した。

 心は何も感じない。

 ただ、空虚な何かだけが、彼女の内側に静かに広がっていた。


「広い世界って、自由って……何だろう」


 命じられるままに生きればいい。

 剣だけを振るえばいい。

 

 そう思っていたが──



〈剣の果てにある心は、自分おまえで掴め〉

〈もっと広い世界を知れ。お前はもう、自由だ〉



 師の最期の言葉。それは剣ではない――別の何かを知れと告げられているような気がした。


 その時。

 ぐぅ、と腹が鳴る。


 どんな時であっても、人は空腹になる。

 これまでの生活は、すべて師が整えてくれていた。だからリナは、これからどう生きるべきかを知らない。


「──誰かに訊いてみよう」


 自分ひとりでは、まだ何も分からない。


 リナは家を出ることにした。

 きっとその先で――師の言葉を理解できると予感して。




「道は……確かこっち」


 リナは、とりあえず王都を目指すことにした。

人が多ければ、話を訊けると思ったからだ。


 だが、道のりは長い。

 途中に村があることを思い出し、リナはそこに向かうことにした。


「キャアアアアアアアアアア──!!」


 森の奥まで突き刺さる、悲鳴。

 反射的にリナはその方向へと駆け出していた。


「……血の匂い」


 低く呟く。何かが起きている。

 そう理解するには、十分だった。


 そして、彼女が辿り着いた先に広がっていた光景は──



「く、くそッ! お前だけでも逃げろ!」

「でも、旦那あなたを残してなんて──!」

「このままだと全滅する! それにお腹には子がいるだろう!! 行け! 俺が食い止める!」

「そんな……! そんなことできるわけが!」

「早く行けえええええええええ──!!」


 無惨にも横転した馬車があった。

 男性は腕を切り裂かれ、血を流している。一方、女性は涙を零しながら、その場から必死に駆け出していった。


 そして――そこにいたのは、オーガの群れだった。


『グウウウウ……』


 オーガはただの魔物ではない。人に似た歪な体躯に、岩のように盛り上がった筋肉。


 その目は理性の光を宿さず、あるのは飢えと破壊衝動だけ。並の人間が正面から挑めば、真正面から叩き潰されるだろう。


 だがそれは──の話だ。


「──スゥ」


 息を吸って、リナはタンッ──と地面を蹴る。

 たった一歩でオーガとの間合いを殺し、一気に懐へと潜り込んだ。


 空気を斬り裂く音が鳴った。

 リナはオーガを縦に真っ二つに斬り裂いたが、さらなるオーガが襲いかかってくる。


「──遅い」


 が、そんな緩慢な動きでリナを捉えることできない。


 時間にして五秒も経っていない。

 リナは全てのオーガを、瞬く間に斬り捨てた。


 キンと音を立てて納刀。

 リナはケガをしている男性の元へと近寄っていく。


「……大丈夫?」

「あ、あんた!」


 リナはその男性にガシッと肩を掴まれる。


「凄いな! 速すぎて見えなかったぞ! 剣士なのか!?」

「うん。そう」

「ぜひ、お礼をさせてくれ! うちの村で歓迎するよ!」


 興奮のせいか、男性は痛みを忘れていた。

 そこへ彼の妻が急いで近づいてくる。


「あなた、あんまり無理をしないで! 出血が……!」

「ん? うぅうん……」

「あなた──!!」


 男性はそのまま気を失ったが、リナは即座に容態を確認する。


「……脈はある。出血も酷くない。ちゃんと止血すれば大丈夫」


 リナは自身の服を裂き、出血を止めるために腕の上部を強く縛った。


「……馬車は動く?」

「え、えぇ。馬は無事だったみたい」

「なら、乗せて村まで行こう。急いで」

「えぇ」


 リナはこれまで幾度となく傷を負ってきたからこそ、治療には慣れていた。


「本当にありがとうございます。あなたがいなければ、主人は死んでいました。なんてお礼を言えばいいか……」

「別にいい」


 助けたのは気まぐれだった。

 リナは斬りたかったから、斬った。

 それだけだ。


 だが、人を助けたという事実はリナにごく僅かな変化をもたらしていた。

 

「お名前をお伺いしても?」

「リナ。あなたは?」

「私はマーシャ。村に戻ったら、ぜひお礼をさせてちょうだい。お金はそれほど余裕はないけれど……」

「お金はいらない。それより、お腹が減った」


 ぐぅ、と腹が鳴る。

 それを聞いてマーシャはくすりと笑った。


「それなら、腕によりをかけて料理を作るわ。料理は得意なの。任せて」

「うん。楽しみ」


 リナたちは、馬車を走らせて村へと向かうのだった。


 リナは新しい人生で知ることになる。

 普通の人とは、どのように生きる存在なのか。

 そして、人の心とは何なのか──を。

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