歪み愛

先輩という人

 憂鬱な青空に包み込まれた学校の屋上――そんな屋上のドアの近くの日陰の下に、私と先輩は今日もいた。誰もやってこないこの場所に二人きり。

「私はね、残されている選択肢は愛というものだけだと思うの」

 私の隣に座っている先輩は独り言みたいにそう呟きながら、ずっと読んでいた本をパタリと閉じて、空へと視線を向けた。それにつられるようにして、私も空へと目を向ける。乾いた空にふさわしい大きな雲が揺蕩うようにそこにあった。

「それは……どういう意味ですか?」

 そんな言葉を口に出してから、ゆっくりと先輩へ視線を向ける。先輩のお人形みたいに白くて透き通った横顔を見て、私の胸が小さな鼓動を鳴らしていた。

「もう、手遅れなの」

 先輩はとても嬉しそうに、そう言葉を紡ぐ。

「………多くの人たちが、苦痛や不幸のような制御不能な何かを、何らかの言葉に変換してきた。それを、ある小説家はお話にして、ある哲学者は理論にした」

 先輩は私の方へゆっくり顔を向けて、まるで世界の全てを見通しているかのような、水晶みたいな透明な瞳で私を見た。

「だけれど結局、現実という肉体の前で、それらは新しい言葉――概念の発明か、修飾語の増殖にしかなっていない」


概念の発明――不幸とは意識なる観念が存在することである。

言葉の意味をずらすこと――不幸とは病気のように衰退していくものである。

私的な修飾語――神が人間に与えし最大量の苦痛。

修飾語の増殖――運命という名の呪詛に刻まれし我が苦痛。


「もちろん、だからといって彼らの営みが無駄で無意味なことだったなんて、決して思わない。彼らのは文字を通じて伝わってくる。それは、とても共感できるものだから」

 先輩は淡々と、されどどこか熱を帯びた口調でそう言った。

「………それが、さっきの話とどう繋がるんですか?」

 先輩に私はそう問いかける。

 すると先輩は、ふっ、と微笑んだ。まるで、私という人間を楽しむかのように。

「つまりね、圧倒的な苦痛を前にした時、言葉という次元ではもうどうしようもない。過去、多くの人たちが敗北してきたように。………私たちは、もうそこから抜け出さないといけない」

 私たち――その言葉が意味するのは。

「でもね、私はそこから抜け出すために、あれこれと思索を巡らせて考え続けるということが出来るほど強くない。いや、それだけの力がないって言うべきなのかな」

 先輩はそう言うと、ちょこんと座っている体勢を崩して、私との距離を詰め始めた。流れるように。さも当然のことのように。

「えと、……先輩?」

「ん? なあに?」

 先輩は甘い声音を吐息のように吐き出しながら、私の腕と自身の腕を絡み合わせた。先輩の華奢な細い腕が、まるでアサガオのつるのように絡まる。決して離さないという強い意志と共に。

「近くないですか?」

「だめ?」

「…………だめでは、ないですけど」

 私の理性やら何やらがもたないという大問題がある。

「じゃあ、いいでしょ?」

「………はい」

 上目遣いで私のことを覗き込むようなその目に、私は観念した。まあ、本当に嫌ではないし、別にいいのだけれど。

 先輩は私の了承の返事を聞くと、満足そうな笑みを浮かべてから、私の肩に頭を乗せた。じんわりとした温かさが重みと共に服越しに伝わると同時に、先輩の髪の毛の柔らかな香りが、風に乗って私の空間を満たしていた。

「私には力がない。世界に立ち向かうだけの力がね。だから出来ることは一つだけ」

 先輩の私の腕をつかむ力が強くなる。また、私の手のひらにまで伸ばされた先輩の手が、まるで雪を溶かすみたいに私の指をほどいていって、液体が浸食するかのように指と指とが絡められる。私は何も抵抗しなかった。する必要がないから。

「貴女と一緒に逃げること――すなわち、愛の逃避行」

 歌でも歌っているかのような軽やかな口調で先輩はそう言う。それはまさに、物語の世界に酔っている愛のヒロインの言葉だった。

「愛の逃避行、ですか」

「うん。そうだよ」

「………それは、ずいぶんと可愛らしい表現ですね」

「ふふふ、うふふふ」

 私の言葉に先輩は楽しそうに笑う。その声はとても冷ややかなメロディのようだった。

 先輩は私の肩にこすりつけるようにしていた自身の頭を持ち上げて、私の顔へと視線を向けた。

 そこには、先輩の顔がある。あらゆる意味で調和がとれたその顔は、まさしく狂気的なものだった。そこにあるのは美というものを越えた概念だった。言葉の限界など優に超えているというのは、自明の理だった。

 美しさの極限は暴力と何ら変わりないのだと、先輩の顔を見るたびに思う。そこにあるのは美しさという暴力的な概念そのものだった。これまでの歴史という物語の中で、多くの人間が美に狂ってきたのと同じように、私もまた目の前のその暴力に身体を侵食されているのだと、改めて認識させられる。

「うん、そうね。愛の逃避行って表現は私たちには似合わないのかも」

 先輩はそう言うと、私の腕からするりと自身の腕を抜いた。

 そのことに少しの名残惜しさのようなものを感じるよりも先に、先輩は私の頬に触れた。私の両頬を包み込むように、先輩の両手が私の頬に触れている。

 胸の奥底で、何かどろどろとした感情が込み上げる。それはきっと、愛液と執着と独占欲とが壊れるまで煮詰められたものだろう。

「いや、ううん。きっとどんな言葉も私たちの前にはふさわしくないのかもしれない」

 先輩は私の頬をもにゅもにゅと触りながら、そう言った。

「そうですよ、先輩。それだと結局、新しい表現を作ってるのと変わらないでしょ」

 私は淡々とそう言った。すると先輩は、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。それは聖母の微笑と、悪魔の笑顔を足して二で割ったような顔に思えた。狂っている、そう、まさに先輩は狂っている。慈愛と狂気は同義語なのだ、この先輩にとっては。

「――んぅ、先輩………」

 先輩は変わら微笑を浮かべたまま、私の口の中に右手の親指を入れた。舌が先輩の親指に押さえつけられる。それと同じように顎も先輩に押さえられる。口という器官が先輩に支配される。食べ物を食べ、水を飲む、そして言葉を紡ぐ、そんな生命の活動において最も重要なその場所を、先輩という人に奪われる。

「あはは、かわいい。………顔、さっきからずっと真っ赤だね」

 先輩はふんわりとした可愛らしい声音でそう言った。

「いや、だって………」

 口を押さえられているせいで、ちゃんと言葉を言うことが出来なかったけれど、私の無言の反論は先輩にしっかりと伝わっているようだった。

 だからこそ先輩は私の口から指を引き抜いて、私にまたがるように乗っかった。先輩の体が私の上に乗る。先輩の華奢なその体が、私という存在の全てを支配しようとしている。

 私の頭は後ろの壁に押さえつけられる。そんな私の顔を捕食するかのように、先輩は私の顔を先ほどのように包み込んだ。

「言葉に追放された私たちに残されているのは、この気持ちだけ。とっても素敵で、とっても魅力的で、とっても破壊的。愛という暴力的行為。愛し合うという破滅的な行為」

 先輩は私の耳元で、私に呪詛を刻み込むかのように、そんな言葉を紡いだ。私の脳が先輩に染まっていく。もうすでに先輩の色で染まり切っているのだけれど。

「私たちに残されたのは言葉の次元を超えているこの概念だけ。愛という実存的暴力。私たちの身体を壊してくれる、滅ぼしてくれる素敵な運命」

 先輩はそう言い終えると、私の顔の前に再びその綺麗な顔を現した。

「ふふふっ………やっぱり貴女の顔、かわいい。好きよ」

 その言葉を私に伝えるのと同時に、先輩の意図的に完成させられた彫刻のように整った顔が私に近づく。私はもう、目を開いていられなかった。それはもう、私には直視できなかった。

「――んうっ」

「ん」

 私の唇に先輩の唇が触れる。同じくらいの温度のそれは、私の口を愛という質量でふさいだ。先輩の鼻先と、私の鼻先が優しく触れあう。先輩の柔らかな唇の感触が、私の性的な欲求を掻き立てていた。

 心の奥底で、大きな何かが波を打つ。それは、愛と呼ばれるものに近いものであるのは確かだけれど、愛というにはあまりにもドロドロとしていて、ぐちゃぐちゃなものだった。

 先輩の口の中から、また別の意味で柔らかいものが流れるように私の口に侵入する。私はその味を知っている。これまで、何度も何度も私の口の中を犯しているそれは、先輩の可愛らしい小さな舌。

 私は全身の力が抜けていく感覚と共に、先輩にどんどん酔っていった。私という人間は今、先輩という人に全てを支配されている。

「………あ」

 ゆっくりと、その舌は私の口から引き抜かれ、私の唇からも先輩が離れていってしまった。けれどそれは、終わりの合図ではないというのは、何となく分かっていた。そう、これはむしろ始まり。さっきまでのは戯れに過ぎなかったのだ。

「………あらゆる言葉に見捨てられた私たちは、こんなにも残酷で魅力的な運命を進まなくてはいけないの。貴女と私、二人きりの世界で、互いに互いを酔わせ続けなくてはならない。――うふふっ、とっても素敵だね」

 とても嬉しそうに、そしてどこか儚い雰囲気と纏ってそう言う先輩を、私はじっと見つめていた。頬を紅色に染めて、年相応の可愛らしい少女の笑みを浮かべているその人は、私という人間の苦しみを愛という暴力で塗り替えてくれる人。この世界で唯一の、私と同じ運命さだめを課せられている存在。

「――んぅ」

 そんな先輩は、再び私の唇に触れ、流し込むように舌を入れた。

「目、開けて」

 唇が触れられたまま先輩は私にそんなことを言った。恐る恐る目を開く。そこにいたのは、私と同じように愛に溺れている先輩だった。もう助からないのだと分かって、ただ真っ直ぐに、私と一緒に、もう手遅れのところまで沈んでいっている人。

「ね、ぎゅってしよ?」

 先輩はそう言いながら、私の頬から手を離して、首と背中にそれぞれの手を回した。私は言われるがままに先輩を抱きしめる。今すぐにでも折れてしまいそうな華奢で小さな体がそこにはあった。

「もっと、近づいて」

 先輩にそう言われて、私はさらに先輩に密着する。先輩の呼吸のリズムが体に伝わってきていた。また、私と同じくらいの大きさで脈を打つ心臓の音も。

「ん、ありがと」

「……いえ」

 そうして、私たちは再びその行為に及ぶ。お互いの愛液を交換し合って、お互いの隠された場所を執拗に舐めて、これまでに何度も及んだその行為をずっとずっと繰り返す。きっと出てはいけないような脳内物質が規定値を越えて溢れ続けて、取り返しのつかない楽園へと私たちを誘う。

「せん、ぱい」

「んぅ?」

 私は先輩のことをさらに強く抱きしめた。先輩という人を求めた。先輩という存在に身体を捧げた。それはきっと、先輩も同じだけれど。

 そんな甘い甘い時間を私たちはただひたすらに、一心に続けた。どちらがどちらの唾液なのか分からないくらいに口の中が混ざり合って、口の中が先輩で溶かされていた。

 ゆっくりと、先輩は私の口から舌を引き抜く。唾液が細い糸となって、私と先輩を繋いだままだった。先輩は小さな舌を出して、それを私の唇から舐め取った。そうして、先輩と改めて向き合う。先輩の髪が少し乱れていた。それがまるで、神聖なものを汚したような感じがして、背徳感に身体が包み込まれたような気がした。

 先輩も、私と同じように余韻に浸って呆けている。そんな顔をじっと見ていたからなのか、先輩はまるで恥ずかしがるような素振りをして、私の首のあたりに顔を埋めた。

 私はほとんど無意識に、先輩の頭をそっと撫でた。

「ん……」

 先輩は甘い声を口からこぼした。

「………サービス精神が旺盛なの?」

 そして、照れ隠しをするかのように、そんな一言を私に言った。

「いえ……その、そういう気分だったので」

 確かに、私はいつも先輩という人に照れてしまって、あまり自分からこういうことはしない。だから本当に、ただ何となくだったのだと思う。

「ふぅん。……そういう気分、って?」

「さあ……? 自分でも、よく分からないです」

「うふふ、そっか」

 先輩はそう言うと、ゆっくりと頭を上げた。頭に添えられた私の手を押さえたまま。あの美しい顔が再びそこに現れる。先ほどまでよりも、どこか熱を帯びているけれど。そして先輩は、するりと私の手を頭から取って、自身の胸のところで包み込んだ。

「本当に、可愛くて素敵………大好き」

 私のことを熱を帯びた目で見つめながら、言葉というにはあまりにも重たい何かを添えて、先輩は私にそんな言葉を紡いだ。

「先、輩………」

 世界が先輩で閉じられる。

「私も、大好きです」

 端的な一言。何度も交わした宣言。お互いにとって自明な事実。

「うふふっ」

 先輩は嬉しそうに笑った。

 純粋無垢な笑顔で、私のことをじっと見つめたまま。


 先輩も私も、このどうしようもない世界を前にして取るべき態度というものが分からなかった。それが分からないからこそ、何もかもが分からなかった。いや、きっと、本当は分かっているのだと思う。けれどそれを言葉にしてしまうことが出来ない。それをする勇気がない。真っ当な生を送る資格を己に与えることが出来ない。

 それはまさしく、この身体に刻まれた呪いだった。

 そして、そんな呪いがあったからこそ、私と先輩は出会うことが出来た。恋に堕ちて、恋人という名の共犯者になれた。この世界の片隅で、自分たちだけの世界を創って、閉じこもって、永遠にお互いを溶かし合えば、そんな呪いは消えて無くなり、私たちはようやく生きることが出来る。


 だからこそ私たちは今日も、懸命に生きて、懸命に死に続けている。いつか訪れる滅びの時を迎えるまで、ずっと、ずっと、ずーっとただひたすらに愛し合う。


 憂鬱な青空の下、今日も私は先輩と一緒。

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白百合の崇拝 神田愁作 @kandb

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