幕間 ……お姉ちゃん……無理……してる?

「じゃあ、当日はよろしくね」


 お姉ちゃんの嬉しそうな声が、2階から漏れてくる。

 その声を聞きながら、私はいつものように、半分も理解できない英語の本に目を向けていた。 


「ごめんね、ふゆ。うるさかった?」

「ううん、大丈夫」


 やがて。電話を終えた姉が1階に降りて来た。

 私に一声かけた姉は、ふぅっと息を吐きながら隣に座り、化粧水を顔につけ始める。


「最近お肌が荒れ気味なのよねー。ふゆはそんなことない?」

「……私は……いっぱい寝てるから……大丈夫」

「たしかに。登校ギリギリまで寝てるもんね。私も早く寝ようかなー」


 鏡を見ながら喋りかける姉と同じく、私も姉に応答しながら、眼前の英文から目を離さない。たとえ意味はわからなくても、その一文一文を、じっくりと噛み締めている。


「ふゆのそれ、英語の本?」

「……イヌマエル・カント……『純粋理性批判』の……英訳……原文は……ドイツ語」

「へぇ。よくそんな難しそうな本読めるわね」

「……わからないは……おもしろい……から」

「ふーん」


 昔から人と話すことが苦手で、考えることが好きだった。

 わからなければわからないほど、たくさんの考える余地がある。だから哲学は好き。いつかカントも、ドイツ語で読んでみたい。


「……お姉ちゃんは……星波と……電話?」

「うん! 今度の土曜日、遊園地でプニキュアショー観てくる」

「……それって……デート?」

「そ、そんなんじゃないって! 天宮はただの友だち、だから」


 それは嘘。

 お姉ちゃんは本音を隠すとき、左下に視線を落とす。ずっと一緒にいる私には、ちゃんとわかる


「……お姉ちゃん……無理……してる?」

「してないわよ」


 お姉ちゃんの視線は、またも左下に落ちている。


「……前も……言ったけど……私のことは……気にしないで」

「別に気にしてるわけじゃない」

「……ちゃんと……しないと……いのりって人に」

「もうほっといてよ!」


 お姉ちゃんの叫びが、2人だけの空間を裂く。

 そして沈黙が訪れ、古時計のカチカチという響き裂く空間に唯一の音を与えていた。


「……ごめん、ふゆ。おっきな声出して」


 お姉ちゃんの視線は、今度こそ私の瞳向いていた。

 ──私はやっぱり、人と話すのが苦手だ。一番近くにいる人の気持ちさえ、上手く汲み取れない。こうやって、大切な人を傷つけてしまう。


「……お姉ちゃん」

「……何?」

「……温かいお茶……飲む?」

「……飲む」


 私は本を閉じて立ち上がり、キッチンに移動する。

 そして、一度は冷めたポットのお湯を、再び沸かし始めた。

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