第二話 巫女


 西都の一宮いちのみやは、里を眺望する嶮山けんざんの中腹にひっそりと鎮座していました。

 朝霧の残る境内は、霊験の静けさをまとい、参拝者たちも粛々と神の息吹に拝しています。


 ゆるやかな上り坂になった参道を見あげるように、皇子は馬から降り立ちました。どこからか高く澄んだ鈴の音が響いてきます。皇子は首を巡らせました。

 “神に最も近い巫女” が、この大社には居るのだと、未莫が話したのを思い出しました。

 しかしその巫女の姿を見たことのある者は、誰ひとりいないのだと。


 皇子は紅梅の巫女に逢うため、まず里長に掛け合いました。


前途占ぜんとせんをお願いしたい。高い咒力じゅりょくを持つという一宮の巫女───できれば、宮司の御息女に」


 里長は喜んで大社に取次ぎ、翌日には巫女に占ってもらうことが決まりました。

 皇子は側近の雪長と、身分を隠し、里長の縁者として大社を訪れました。


 高い空へとそびえ立つ、厳格な切妻造の屋根を構えた本殿。

 静謐そのものの、朽葉色の楼門。

 外観はすべて自然の色彩を映していながら、内部は鮮やかな朱塗り、意匠に富んだ絢爛な装飾が施されており、壮麗かつ豪華な趣が漂っていました。

 元近衛中将である側近・雪長は、すっかり圧倒されて、「都の大社と比べても、引けを取りませぬな!」と感嘆の声をあげます。

 皇子はたいして興味がなかったので、巫女が現れるのを今か今かと待っていました。「若殿!」と唐突に慣れない名で呼びかけられてもすぐには頭に入らず、しばしの間を置いて、雪長の方へ目をやりました。


「巫女様がいらっしゃったようですぞ」


 雪長の視線を追って拝殿の横の通路を見遣ると、宮司と連れ立って現れたのは、あの紅梅の巫女とは別の者でした。

 姿が一瞬ちらっと見えただけで、神前に立てられた几帳のなかに入っていきました。


 卜占ぼくせんは滞りなく執り行われ、滞りなく終わりました。


 几帳の外に控えていた宮司が、「神慮示されにけり。ここにいわいて、占を結び奉る」と厳かに締めました。


「まことに尊い占いでございました」


 皇子はそう言って、胡座をかいたまま拝礼しました。何も知らない雪長も同じく拝礼し、退席の準備をはじめようとしましたが、皇子が右手で押し留めました。


「さらに詳しく占ってほしいのですが、ほかに占える方がいらっしゃるなら、その方にお願いできますでしょうか?」


 宮司は一呼吸置いて、「神の御告を疑いなさるのか? 慎み受けたてまつれ」と少し不快そうに言いました。


 皇子は控えめにしかし一歩も引かずに返しました。

「そもそも里長様を通じて、宮司様の御息女である巫女様に占いをと詣でたのであって、別の巫女に占わせ、はじめの約束と違えたのは、そちらの方でございます」


 宮司はいかにも神経質そうに額や首筋に緊張を走らせ、「ハッ」と不遜の笑みを漏らしました。ほのかな期待もすぱっと断ち切るように、こう言いました。


「娘は特別な御方の占いのみ致します。若輩の身にて、そのように気安く願い申すな。大方おおかた、紅梅の神楽でも見たのでしょう? あの神楽で娘を求めるようになる男は山といる。里長様のもとで出世なされば、いずれは占ってもらえるようになるかもしれませぬな」


 皇子は面前で罵られたのが初めてでしたが、言われたことは殆ど図星だったので、感心してして沈黙していました。

「おのれッ! 無礼者!」と、皇子の隣の男が立腹して片足をドンッと鳴らして前方に突き出し、腰を上げました。

「おのれのような田舎宮司がお目にかかることすら一生叶わない御方であるぞ! 口をつつし⋯⋯」

「よせ、雪長」


 皇子は静かに雪長の口上を遮り、わずかにおもてを伏せて「精進いたします」と言いました。

 宮司は冷ややかな一瞥を遣り、ふんッと鼻で笑って拝殿から退出しました。



 広い境内にはいつしか低い位置から淡い西陽が差しこみ、青暗い空に桃や橙の雲が重なっていました。

 人影が細長く伸び、祈りを求めて参拝する者や敷石を蹴って遊ぶ子どもらの姿がまだちらほらと見られます。どこからか、神官が祝詞を奉じる声が聞こえてきました。


 その中を並んで歩きながら、隣で雪長がぎりぎりと歯ぎしりしていました。


「殿下、面目ございません。あのような無礼をゆるし、殿下に恥をかかせるとは⋯⋯」


 尻すぼみに言って明らかに気落ちしているので、皇子は、「あれくらい恥でもなんでもない」と飄々と返しました。


「兄上に捕らえられたときは、恥どころか獣以下の扱いを受けたぞ。そなたが暗裏あんりのうちに救って逃がしてくれなければ、今ごろ兄上の意のままにされ骨までしゃぶり尽くされていただろう」


「⋯⋯⋯⋯」


 雪長は絶句して、一瞬にして顔面蒼白に転じました。


 前方の手水舎から二人組の女たちが喋りながら従者をひき連れてやってきました。そのまま進めば皇子に近すぎる距離であった為、雪長は無意識のうちに皇子の背後から回り込んで間に入りました。

 女たちは、この地では貴族並みの裕福な家の者なのであろう、艶やかな壺装束姿で、市女笠にかけた薄い絹で顔を隠しています。

 割り込むように現れた雪長を、絹越しに見上げて迂回するように離れていきました。すると女の一人が「あっ」と咽喉の奥で短く叫んで、すれ違いざまにこちらを見ました。


 通り過ぎたあと何とは無しに雪長が振り返ってみると、女たちは立ち止まってこちらを見ながらコソコソ話しています。 


「殿下、」


 呼びかけながら雪長が正面に向き直ると、皇子はもう五歩先を歩いていました。慌てて歩を速め皇子に追いつき、


「なぜそのように急いでおられるのですか?」


 そう声を掛けるとようやく皇子は顔を向けて、「そなたがよそ見をして遅いだけだ。好みの女でもいたのか」と冗談めかして笑いました。ほのかに梔子くちなしのような甘い香が漂って、雪長は「はい?」と口ごもって内心ドキッとしていました。


 皇子は質素な浅縹色あさはなだいろの狩衣を着て折烏帽子を浅くかぶり、下級官人の若人のような出で立ちでした。

 ゆるくまとった衣の軽やかさが、線の細さを際立てています。

 夕の光が袖口を透かし、そこから覗く手首の異様な白さが妖しく光って見えました。

 何かを言いかけた雪長の咽喉の奥に、言葉が引っかかって落ちていきました。

 非の打ちどころのない端正な顔立ちや、すらりと伸びやかな肢体はもちろんのこと、仕草や眼差しがいちいち人の目を惹きつけるので、宮廷の、特に若い者たちは、皇子の信奉者だらけだったことを思い出していました。


 こんなにも美しい人が、数ヶ月前には実の兄に捕らえられ、痛めつけられ、ほとんど死にかけていたとはとても信じられませんでした。助けに行った雪長ともう一人の蔵人だけが知っていることでしたが、全身の隅々に至るまで奇妙な傷があり、それは実の兄がつけたものなのだと皇子の口ぶりから推し量られてゾッと血の気がひく思いがしました。

 

 ふいに皇子が言いました。


「すこし境内を散歩して帰りたい。そなたは先に行ってくれないか」


 雪長は間髪入れずに「なりません!」と答えました。


「殿下をお一人にさせるなど。桂宮はまだ殿下を狙っておいでなのですよ。殿下のお話を聞けば尚更。あの御方の殿下への執着には、ただならぬものがある」


「さすがにこの姿なら誰も私のことなど気にも留めないだろう。一刻にじかん⋯⋯いや、半刻いちじかんでいい」


「なりません。この姿も何も、目立ちますよ、殿下は! 我は⋯⋯いまは亡き帝に、直々に殿下を託され、命に代えてもお守りすると誓ったのです。ですから、たとえ半時であっても殿下をお一人になど、とても⋯⋯とても⋯⋯」


 雪長が煮えきらずにいるので、皇子は足を止めました。一途に見つめながら、

「四半刻でもいい」

 と願いましたが、雪長は首を横に振りました。しかしその仕草には、ためらいの気配がありました。


 ふいに夕凪を破るやわらかい風が吹き抜け、御神木に掛けられた紙垂しでを、カサカサと鳴らしました。


 皇子は頬に触れる西風を避けるように、狩衣の左袖をふわりと揚げて、手のひらを額に翳しました。

 その拍子に、あの梔子の仄かな甘い香りが広がって、雪長は浅く息を漏らしました。

 皇子の額に添えられているなめらかな白い指先を、夕陽の薄膜がつつんで淡く透きとおらせます。

 まだあどけなさの残る頬の曲線に、伏せた長い睫毛が影を落とし、もどかしく揺れていました。

 自身に向けられている雪長の眼差しに気づいたように皇子はすっと視線をあげて、あたまの横に掲げた狩衣の袖に、頬を寄せるように小首をかしげて、


「どうか⋯⋯雪」


 雪長だけに届くように、消え入りそうに小さな声で囁きました。

 雪長は難渋な表情を一瞬にして崩壊させ、「うー⋯ッ」と太く呻いて額を押さえました。それから赤らんだ顔面をぬぐい、


「半時⋯⋯半時ですよ。半時あとに、松の参道の下の鳥居で落ち合いましょう」


 皇子は光に透けた狩衣の袖をそっと開いて胸のまえで両手を重ね、「御意」とほほ笑んで踵を返しました。


 数歩も行かないうちに、雪長が身動ぎする気配がして、皇子は気づかないふりをして歩みを速めました。

 もう数十歩行けば、追いかけてくる気がして、足早に参道の人波に溶け込み、その場所から離れました。

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