蠕虫つがい ー千年後のきみへー

路地623

第一章 美しい皇子と蛭の物語

第一話 邂逅


 今から遥か千年昔───東のなかのある国に、ゆづきの宮と呼ばれる美しい皇子みこがいました。

 天上人の末裔まつえいとされる尊い血筋。人々にあがたてまつられ、いづれは、帝王の位に昇るのが相応しい御方でした。


 しかし、帝の崩御によって異母兄に天子の座を奪われ、謀叛を企てた罪人として都を追放されました。


 皇子は、命からがら西へと逃れ、やがて、最果ての地へとたどり着きました。

 大陸からの使者を歓迎する豊かな国際都市。

 皇子の罪は、遥かこの地にまで届いていましたが、その尊い血筋は繁栄の寄すとしてじゅうぶんであった為、里長むらおさの娘をめとることを約束に、の地に住まうことを許されました。


 しかし、それは、あらゆる悲しみのはじまりでした。


 皇子が露命ろめいをつないで三月が流れた頃。異国より船が寄港して、里長の屋敷で盛大な宴が催されました。

 異母兄にあざむかれてからというもの人を疎んで避けていた皇子でしたが、耳慣れぬ歌や囃子に誘われて、いつしか宴の席に紛れていました。

 貴人や異人が入り乱れ、酒を酌み交わし、遊びに興じています……。


「おおぃ! もっと酒持ってこ〜ぃ」

「こっちにも遣らんか〜ぃ! 飲め飲め〜」


 宴もたけなわを過ぎ、屋敷の奥庭に五人の巫女が呼ばれました。枝垂しだれ梅が咲き乱れる古木の庭で、紅梅の神楽舞が披露されるのです。


 大和笛の幻想的な調べが、奥庭を格子状に囲んで目をくらませている紅梅の枝花をくぐり抜け、篝火に照らされた夜空へと掻き消えていきます。

 五人の巫女たちは、紅梅を挿した額の飾り───前天冠まえてんかんに透けるような薄布を垂らして皆、顔を隠しています。


 シャン!


 巫女が涼やかに神楽鈴を打ち鳴らし、白い羽織り千早の袖をゆらりと返しました。


 シャン!


 胸腔きょうくうがとけそうなほど甘ったるい梅の香が、渦巻きながら四散し、そこに居る者たちを夢へと誘います。


 シャンシャンシャンシャン!


 澄んだ鈴の音が、早鐘を打つような速さへと変わりました。中央の巫女が、紅梅の舞とは異なる小刻みな拍子で踊りながら、手首足首に括り付けた鈴を鳴らしています。


 シャンシャンシャンシャン⋯⋯。


 一心不乱に何か唱えている者。両手を擦り合わせて涙する者。座り込んで涎を垂らしている者。そこら中のものが恍惚に溺れていましたが、なぜか皇子だけが夢をみることができません。


 「いちの巫女様は、目が見えなさらん。耳も聞こえなさらん。あのように美しく舞えるのは、神さまのお導きがあってのこと」

「おぉ⋯⋯っ、巫女様ーっ! 御神が顕現けんげんなさっておられる。巫女様に、御神のたずねて来られておるぞ!」


 酒に狂っていた者たちでさえ、平伏して白砂に額をすり合わせています。


 しかし皇子は一人だけ夢幻の世界に入れないままでした。

 紅梅の檻のなかで鈴音を操っている巫女の流麗な舞を、ただぼんやりと眼に映しているしかありません。


 そのとき疾風がいたずらに吹き抜け、紅梅の花がこぼれる───前天冠に垂らした薄布が押し上げられて、巫女の素顔があらわになりました。

 皇子は思わず息を呑みました。暁光ぎょうこうのように金色に耀く瞳がまっすぐに皇子を見つめています。巫女は小さく結ばれた紅い唇をゆうるりと綻ばせて笑っていました。唇の狭間から白い歯が垣間見え、なにか紡いでいます。最初の言葉は “そ” です。それから “な” ⋯⋯熱を帯びた吐息混じりの声が、耳のうちに生々しく忍びこんできました。 

 “そなたのいのちをうばう” 

 躰を包む皮膚という皮膚に受けた古い咬傷が、声にならない悲鳴をあげて脈打ちました。

 それが何なのか考える隙もないままに、薄布が巫女の妖しい瞳を覆い隠してしまいます。

 それは一瞬でしたが途方もなく長く感じられ、ゆっくりとしかし瞬く間に過ぎていく───風に舞った紅梅の花が、白砂の上に落ちました。


 いつしか群衆は去り、紅梅の庭には静寂だけが残されました。皇子は長い間そこに立ち尽くしたまま動き出せませんでした。

 かつて同じ言葉を突きつけられたことがありました。 


『そなたの命を奪う』


 死罪を宣告したのは、異母兄でした。激しい憎悪を宿した眼で皇子を睨めつけていました。


『兄上はそれほどまでに私を憎んでいたのですね。何故ですか? なぜ⋯⋯?』


 すがるように問いながら、心のひだ一枚一枚が凍りついてぱらぱらと崩れていくのを感じました。たおやかな異母兄の奥にどす黒い炎が燃え盛っていたことも知らず、 薄い皮一枚の友悌ゆうていを信じ切っていました。瞼のふちから熱い涙があふれてきて頬へと流れ、消えることのない痕跡を残しました。

 呪縛にかかってしまったように、頭から離れることはありませんでした。


 “そなたの命を奪う”


 慈悲深き女の声が反響しつづけています。この世のものとは思えないほど妖しく艶めかしい紅梅の化身───宴のあとも巫女が忘れられず、悶々として夜を明かし、久方ぶりに朝からそっと母屋の小座敷を出ました。


 図らずとも、紅梅の巫女との邂逅が、皇子に黎明の空を呼んだのでした。



 朝餉あさげのあと、東対屋の母屋に付属する従者用の下屋で、都から共に落ち延びてきた忠臣らが会合していることを知っていました。


 小座敷の外で待機している従者に悟られぬよう抜けだして、身分不相応な下屋にはじめて姿を現すと、「皇子殿下!」と、驚きと歓喜の入り混じった声を最初にあげたのは、三つ年上の乳兄弟の寿丸でした。


 年長の側近が「これ!」と乳兄弟を諌め、皆大慌てで整列し、起立拝礼しました。

 

「お加減はよろしいのですか?」


 皇子より一回り年上の元蔵人が気遣うように言って、皇子を上座へと促します。


「よろしくはないが、そろそろ出てこなければ、我の顔を忘れる者が出るかもしれないだろう?」


 適当なことを言って座り、手ぶりだけで忠臣たちを着座させました。その場の顔ぶれを横目で確かめます。部屋にいるのは六人、あと二人は里長にでも追従しているのだろうと大体予想がつきました。


「まさか! 皇子殿下のその麗しいお姿を忘れられる者が、この世にいるでしょうか」


 元近衛中将が、嬉しそうに声を弾ませています。これも随分年上で情の厚い者だったので、三月近くも一切誰にも会わずにいたことに少々の罪悪感を覚えました。


「⋯⋯殿下は、責め苦をうけて伏せっておられたのでは⋯」

「⋯⋯御身おからだは⋯お変わりないよう見えるが⋯⋯」

「しっ⋯⋯! 然様さようにおおきな声で言うなかれ」


 密々と話す声を遮るように、元蔵人が切り出しました。

「殿下、お出まし早々ながら、申し上げたきことがございます。都に遣わした密偵から文が届き、今上帝の周辺で⋯⋯大納言との結びつきを強め、勢力を⋯⋯」

 何やらくどくどと話していて、これを聞きたくなくて籠もっていたのだとも言えず、皇子は肘掛けにもたれてとりあえず相槌を打っていました。

 側近の話が一段落したところで、「そうか。それでは、その件はそなたに任せる」と互いにとって最良の返答で終わらせて、皇子は何気なく呼びかけました。


末侍従すえのじじゅう


 忠臣らが我先にけいさんと構えるなか、一番下座で恭しく頭を垂れて控えていた若人がバッと顔を上げました。


「そなたには弓を教えていたであろう? 我が姿を見せないからといって、鍛錬を怠ってはいなかったか。今からみてやろう、共に参れ」


 皇子より二つ年下で一番若い侍従じじゅうであった末侍従は、「ははっ」と間髪入れずに答えました。

 皆の視線を浴びながら皇子のあとに続きましたが、部屋の入口近くまでやって来たところで、バターン!と派手に転びました。


 皇子でさえ、俊敏な末侍従が転ぶところなど見たことがありませんでした。

 驚いて振り向きざまに見下ろすと、ザワザワ⋯クスクス⋯⋯と失笑が充満する中、顔から突っ伏している末侍従の横で、明らかに右足を突き出して引っかけた姿をとっていたのは、皇子の乳兄弟の寿丸でした。


 寿丸は仏頂面で不満そうに鼻息を荒らげていましたが、皇子が呆れて見下ろしているのに気づいて、


「この末侍従が浮ついていて、私の足に引っかかってきたのです」


 と、大真面目な顔をして言います。

 皇子はやれやれと息をついて膝を屈め、畏れ多いと身を固くする末侍従の腕を取って、引き起こしてやりました。


「殿下! 下の者にそのように御手をかける必要はございません」

「末侍従、殿下にかかる手間を、軽々しくおかけするな!」


 年長の側近たちが次々と叱責するので面倒くさくなって、皇子はわざと声を張って、「寿丸」と私的なときだけに使っている幼名で、足をかけた乳兄弟を呼びました。


「そなたも来い」


 寿丸は満面の笑みで「御意!」と返事をしたあと、周囲からの苦々しい視線に気づいて取り繕うように真顔になりました。それから皇子たちに続いて、そそくさと部屋を退出しました。


未莫みばく! まったく⋯⋯殿下のお気に入りだからって浮かれてるから、あんなことになったのだぞ」

「⋯⋯⋯⋯」

「そのうえ助け起こしてもらうなどと不届きな!」

「殿下の御前で、そのように喚めくな」


 侍従の二人は、屋根付きの廊下〈渡殿〉を歩きながら相変わらず揉めています。年の差はありましたが、同じく少納言の位の親を持つ、幼馴染同士でした。

 皇子の二歩後ろにぴったりと従い、こそこそといがみ合っています。


「未莫! おのれこそ殿下の御前だからといって、そのように取り繕うな!」


 フンッと鼻を鳴らして、寿丸がさらにまくし立てる勢いだったので、皇子は「寿丸」と呼びかけました。


「はっ! 何用でございましょう?」


 背後で寿丸が恭しく答えました。


「昨夜、宴の終に紅梅の神楽があったろう? 見たか?」

「あっ、巫女様の神楽でございますか。いえ、私は酒を飲み過ぎてしまいまして⋯⋯。未莫は見たようです。もう終わるという頃に行ったところ、未莫がおりました。何やら、面妖な神楽だったそうですね、神楽のあいだ見る者の望みし夢を見られるとか⋯⋯。よもや、殿下もおられたのでございますか?」


 「あぁ」と相槌を打ってつつがなく歩いていましたが、背に突き刺さるような視線を感じて皇子は肩越しにふり返りました。二人とも瞳を綺羅綺羅と輝かせ、好奇に満ちた顔をして見つめています。

 皇子は足を止めました。


「私の見し夢を知りたいか?」


 わずかに首をかしげ、唇に綺麗な下弦の弧を描いて笑うと、二人は身をすくめて返答に困っています。その隙に皇子はさらりと言いました。


「淫らな姫君にもてあそばれる夢」


 声に出してみると、あながち偽りではないような気もします。「エッ」と、寿丸は息を詰まらせてゴホゴホッと咳き込みました。未莫は切れ長の清涼な瞼を見開いて、薄っすらと頬を赤らめました。


「夢から覚めるのが惜しいほどだった」


 頭の半分であの巫女のことを考えながら呟くと、寿丸がまるい団栗のような目をパチパチ瞬かせて言いました。

「殿下を弄ぶ姫君など⋯⋯一体どんな姫君なのですか? 東都一の美貌と謳われたかの中納言殿の姫君も、殿下の后にと定められたかの摂関家の姫君も、殿下が一、二度通えば遠のいてしまうと嘆いて朱鳳大路で車争いまでして殿下にふさわしいのはどちらなのか、競ったのですよ! それから世に類なき眉目秀麗な参議殿の姫君、花の如く端正な国守の姫君、色香漂う年長としなが寡婦やもめ⋯⋯それから、それから、」

「もうよい」

 皇子はとうとう笑って、寿丸を止めました。


「そなたは、私より私のことに詳しいのだな。私も知らぬ私の姫君を知っているとは」


 久しぶりにおかしくて笑っていると、寿丸の隣に立つ未莫が、鋭い眼光で寿丸を睨みつけていました。


「殿下をおのれのような不身持ふみもちな者と同じに考えるな」

「何だと! 殿下も笑っておいでなのに、おのれがそのように言うのはおかしかろう?」


 未莫は反論の代わりに、寿丸の胸ぐらを掴んでドンッと渡殿の壁に押し付けました。そのまま殴り合いにでもなりそうな勢いだったので、皇子は、「未莫、手を離せ」と仲裁に入りました。


「寿丸、母屋の奥座敷へ行き、私の弓矢を取ってこい。未莫と先に、射場へ行く」


 未莫が命に従い即刻手を離すと、寿丸は無言で直衣のうしの胸元をぱっぱと払い、皇子の面前で手を重ねて一礼し、渡殿を遡って行きました。

 皇子は寿丸の姿が見えなくなるのを確かめてから渡殿を出て、脇門へと歩き出しました。


「近くに」


 数歩後ろを追従していた未莫を右隣へと呼び寄せ、昨夜、神楽の舞を披露した目と耳が不自由な巫女の素性を調べるよう命じました。


 「寿丸には、そなたは蔵人より遣いを命じられ、西都へ文を届けに行ったと話しておこう。やつが戻ってきたら、そなたの分まで厳しく鍛えておく故、あまり寿丸につらくあたるな。あの者の無邪気さが、私にとっては好ましく救いでもあるのだから」


 木製の簡素な脇門を出ると、原っぱに弓の射場が開けていました。低い土塀の前に、的がいくつか並んでいて矢が数本刺さったままになっています。里長の抱えるつわものたちの朝稽古が終わったばかりのようでした。

 皇子が立ち止まると、未莫はただちに膝をついて「御意」と頭を垂れました。しかしいつまでも去ろうとしません。


「どうした?」


 淀みに沈んでいく花びらを掬い上げるように優しく問いかけると、未莫は顔を伏せたままようやく開口しました。


「恐れながら、殿下にお願い申し上げたく⋯⋯殿下の御身おからだに、差し障りがございませぬようでしたら、私にも弓の稽古をつけてくださいますでしょうか?」


 それだけ言うのに躊躇いながらやっと乞うたようなので、皇子は瞳を細めて笑いました。


「明日おなじ時刻に、この場所に参れ。寿には知られぬように」


 未莫は我慢できなかったように面を上げ、表情をほころばせました。年相応のあどけない笑顔です。「うれしく存じたてまつる。研鑽けんさんを重ねてまいります!」と朗らかな明るい声で言って、さっと立ち上がりました。


 両腕をかさねてもう一度拝礼して、蔦の絡まる深い野原へと入っていきました。鈍色の小袖で細長いすすきの葉を掻きながら、射場の反対側へと駆けて行きます。


 曇天どんてんの冷たい風が吹き抜け、すすき葉が形なき流れの指標となってザーッと波打ちました。

 まるで狩りへと向かう狐の子のように、鈍色の背中が寂しい枯野を突き進んでいきます。百千鳥の小さな無数の黒い影が、叢から啼いて飛び立ちました。

 凸凹に隆起した厚い鉛雲が、ぎゅうっと隙間なく詰め込まれた空。その真中を、鳥たちは彼方へと飛んでいきます。


 たとえば己が鳥だったとして、その鉛色の空の先に不吉な何かが待ち構えていようと、きっと羽ばたいていくだろう───そう思えて、皇子は静かに空を仰ぎつづけました。


 次に強い風が吹いて、ザザザザ⋯⋯と波が野原を走ったとき、未莫の華奢なうしろ姿は、既にそこにありませんでした。

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