第三話 呪縛


 社職詰所を囲む高い瓦付きの竪板塀の前に立ち、皇子はひとまず狩衣の袖と指貫袴の裾をくくり上げました。


 境内を出て、参道へと下って行かずに鬱蒼とした松や檜の雑木類を抜けると急に開けて竪板塀が現れました。その場所は、無用の用にこそ門戸を開き、森閑とした冷気の帷に沈んでいました。


 皇子は板塀沿いに歩きました。

 以前なら高い塀でも軽々と飛び越えていましたが、今は歩くことしか出来ません。異母兄に捕らえられたとき、『逃げないように』と脚の健を切られたので、飛んだり走ったり出来なくなっていたのです。


 いかにすべきか思案しながら角を曲がると、板塀の続く先に、小狭い板戸の裏門が見えました。

 一匹の白い猫が裏門の前に背を伸ばして座っています。猫は皇子の気配に気づくと、尻尾をぴんと伸ばして裏門を入っていきました。


 皇子は導かれるように近づきました。

 通常、貴族の屋敷なら、裏門には見張り番が常駐しているはずなのですが、誰もいません。

 社職詰所だからなのか、皇子は半開きになった板戸を静かに押して、中に入りました。


 巡回している護衛の気配を避けながら壁伝いに進み、欄干の設けられた縁側から中に入りました。外ではちらほら見かけた護衛も、建物の内部では全く遭遇することがありません。皇子は直感で奥の間を目指しました。


 蒸栗色の簡素な襖のまえに立ち、引手の丸金具に指をかけるか否かのとき、中から声がしました。


「開けてはなりません」


 凛とした響きの、うら若い女の声でした。


 皇子は引手金具にかけた指を一旦止めて、耳殻で響きつづけるあの巫女の声と重ね合わせながら、すーっと開けました。


 窓のない薄暗い部屋。

 蘇芳の絹地に白い牡丹唐草模様が入った美しい几帳が立ててあります。几帳の風穴から蝋燭ろうそくの小さな灯りが漏れ、奥に人影があることを知らせていました。


「ここに来てはなりません」


 几帳の奥から聞こえてきます。


 巫女は目も耳も不自由だと聞いていましたが、どういう訳か、滞りなく流暢に話しています。そのうえ、訪ねてきたのが誰なのか、知っているような口ぶりでした。


 皇子は中に入って後ろ手に襖を閉め、迷いなく部屋を横切って、几帳の前に座りました。

 しばらく几帳の奥を透見していましたが、探るように問いかけました。


「目と耳が不自由であると聞きましたが、私がこのように話しても、巫女様に届きますか?」


「頭のなかに浮かぶ言の葉を拾い集めることができますので、話をすることは出来るのです、弓月ゆづきの宮様」


 “弓月の宮” とは懐かしい響きでした。やはりこちらの正体も分かっているのだなと少し驚きながら、皇子は単刀直入に言いました。


「巫女様のようなか弱い御方が、私の命を奪うとは、大それた事を言いますね」


 皇子には、あの紅梅の神楽での出来事がどうしても忘れられませんでした。 

 巫女からの返事はありません。

 しばらくして、微かに衣擦れの音がして、几帳の端がめくり上げられました。


 爪のかたちまで貝殻のように綺麗に整った白い指が、几帳の端を押し上げています。


「お入りください」


 巫女が言いました。

 思いがけない招きに、皇子は几帳の指をじっと見つめていましたが、警戒しながらも蘇芳の几帳を回り込みました。


 蝋燭をひとつ燈して、小さな女が一人、几帳の裏にしていました。藤色の朧な単衣を着て、腰までの長い黒髪をゆるやかに一つに束ねています。


 一畳半ほどの狭い空間で、皇子は自然と巫女と間近に対面する形になりました。


 畳の上に正座している巫女の姿は、舞姿とは別人のように可憐です。

 ゆらゆら移ろう蝋燭のほむらが、巫女の繊細な陰影をより濃く深く映し出しました。その静謐さはとても生々しい人間のものとは思えず、なにか、神々のために書かれた一冊の古い書物のようで、決して人が手に取ることは許されない聖物のようでした。しかし常々恐れより好奇心を選んでしまう皇子は、それを手に取って開いてみたいと思いました。


 巫女が微笑とも尊厳とも取れるほころびを唇に称えて言いました。


「紅梅の精霊は、若く美しい殿方を求めているのです。命を奪い、あちらの世界へ連れていく⋯⋯⋯長らく精霊に見合う相手がおりませんでしたが、この度は弓月の宮様がいらっしゃった。紅梅の精霊は、宮様を欲していました」


 巫女は小さく息をついて続けました。


「ですが、宮様を精霊に捧げるわけにはいきませんので、また人々に夢を見せ、精霊を慰めてやらなねばならなかったのです。ひとたび宮様を知った精霊の欲望を押さえ込むのには、難儀いたしましたが」


 巫女はあえて感情を籠めずに泰然と話しているようでしたが、その頬は、暗がりでもわかるほど紅潮しているように見えました。巫女が藤色の衿の合わせをキュッと握るのを逃さず見ながら、皇子は言いました。


「私のせいでそのような苦しい思いをさせたとは、聞くに忍びないですね。もっと早く呼んでいただけたら、その欲望を押さえ込むお手伝いをいたしましたのに」


 巫女は短い間のあと、ふっ⋯と笑いました。そこにはどこか、自虐めいた色が漂っていました。


「わたくしのように醜い者の乱れる姿を宮様に見せるなど、とても出来ません。お会いして平常でいられる自信がなかったので、宮様の占いもお断りしたのです。この部屋の中にも、入ってきていただきたくなかった⋯⋯」


 皇子は巫女の拒絶をどこか遠くに聞きながら、本当の答えを探すように目の前にあるその姿をなぞっていました。拒んでいるはずの赤い唇が、密やかに浅い呼吸を繰り返しているのを。伏せた長い睫毛がかすかに震え、ほそい頸から鎖骨の窪みへとつづく肌膚きふが心なしか濡れて光っています。


「それならなぜ、此処に呼んだのですか? 私には、まだ私が、巫女様の助けになれるよう見受けられますが、違いますか?」


 皇子は探るように問いかけました。巫女が瞼をぴくっと動かして、はじめて瞳を見開くと、あの金色に耀く美しい瞳が現れました。水面を舐める光の粒のようにキラキラとなまめかしく揺れています。


 言葉よりも確かめたくて、皇子は腰を浮かせ、たった一挙で巫女との距離を詰めました。「あっ」と驚いて、小さく震える巫女が逃げてしまわないように、藤色の単衣の腰に腕をまわし、わずかに顔を傾けて唇と唇が触れる───ところで巫女が、「わたくしは⋯⋯」と囁きました。苦しげに浅く息を吸って、一度口を噤み、


「⋯⋯巫女ですので、宮様がお考えるようなことは、致しかねます」


「わかっています」と、皇子は言いました。


「その遣り方でなくとも、巫女様を満足させられる方法は、いくらでもある」


 言い終えるのと同時に、巫女の柔らかな頬を掌でそっと包み込み、唇を重ねました。憂いを帯びた赤い唇は渇いていて、上唇を吸って離すと、チュッと小さく音がしました。背中を支えていた手をゆっくりと下ろして床に寝かせた途端、身震いしそうなほどの甘い梅の香が立ちのぼり、長い黒髪が褥のように広がりました。


 巫女は驚いたような瞳で皇子を見上げていましたが、仰向いた咽喉のどがごくっと動いて「はぁ⋯っ」と熱い息が漏れてきました。


「時間が⋯⋯ありません」


 巫女がうわずった声で言いました。

 皇子は横たわる巫女の頭の両側に手をついて上から顔を近づけ、そっと耳打ちしました。


「何がですか?」

「⋯⋯半時と、約束していたのではありませんか?」

「⋯⋯⋯あぁ。半時⋯⋯半時でしたか?」


 そのときようやく忠勇無双の側近・雪長の精悍なる顔を思い出して、しかしすぐに打ち消しました。


「それは、破ってもいい約束です」


 巫女は豊かな黒髪をふわりと薫ずるように頭を振って、「宮様のことを心配して探しておいでです」と言います。

 皇子は小首をかしげて、ずっと待たせておけばいい、と内心思っていましたが、「はぁー⋯」とため息をついて、巫女の躰を抱き起こしてもとの場所に座らせ、乱れた髪を整えてやりました。


 徐に巫女が、几帳越しに部屋の入口の方を見遣って、「そろそろ来ます⋯⋯」と言いました。


 何やら、部屋の外が騒がしくなりました。

 入口の襖がトントンと叩かれ、拳程度の幅だけ、すっと開かれました。 


「失礼いたします。何者かが屋敷に忍び込んだようです。まさか此処まではたどり着けぬはずですが、つわものを寄越しますので、姫君は、決してお出にならぬよう心してくださいませ」


「いいえ、こちらに誰かを呼ぶ必要はありません。不届きな侵入者は迷宮に閉じ込めて懲らしめた後、外に追い出しました」


「⋯⋯左様でございましたか。不徳の致すところ、面目次第もございません。ほどなく旦那様がいらっしゃいます」


 社の従人は廊下に正座して面を伏せたまま、几帳の中で巫女と皇子が並んで座っているとは知りもせずに、襖をすっと閉めて行ってしまいました。


 皇子は呆気にとられて思わず笑ってしまいました。隣を見ると、巫女もこちらを見てクスッと笑っています。


「この部屋には誰も近づけないよう、屋敷全体に術が掛けてあるのです。だから、ああなのです。誰かが部屋にいるなどとは考えもしない」


「屋敷の中に警護がいないのは、そのせいなのですね。しかし、私は、簡単にここまで来られましたよ」


「それは⋯⋯」


 巫女は少し困ったように言いさして、


「宮様だからです。わたくしの術は、宮様には殆ど効きません。おそらく血がそうさせているのではないかと。宮様には、御神の血が流れていらっしゃるから」


 そんな神話めいた逸話に意味があったのかと、不思議な心地で相槌を打って、この聡明で美しい巫女とまだ戯れていたい願望がありましたが、巫女が呟きました。


「父が⋯⋯宮司が来ます」


 巫女は帰るよう、皇子を促しました。


「宮司は、廊下を右から来るので、宮様は左に出られて、突き当たりをまた左に行けば賄所まかないどころです。そこから裏門も近いのですぐに出られます」


 巫女が一生懸命説明してくれているのをただ好ましく眺めながら、皇子は重い腰を上げました。


「宮様」


 几帳の横から出ていく寸前、巫女が呼びかけました。皇子は無言のまま肩越しにわずかに振り返りました。


「ほんとうに知りたかったのは、別のことだったのではないですか?」

「何のことですか?」皇子は問い返しました。


御身おからだの傷のことです」


 巫女が宣告しました。


 その瞬間ぞっと全身粟立つような悪寒が走って目がくらみ、そこに立っていられないような激しい衝撃があったのに、魂だけが切り離されて躰はその場に取り残されたまま、平然とまだ立っていました。


 廊下から話し声が響いてきました。従者を連れて宮司がやって来ます。


「明日、またこちらにいらしてくださいますか? 微弱ながら、わたくしが宮様の助けになれかもしれません」


 朝からは清めの儀式がございますので、午の刻、正刻の鐘が九つ鳴るとき、境内の鶏も九つ啼きますから、そのとき、宮様が誰にも見つからず入って来られるように道を作っておきます、と巫女が駆け足で説明しました。


 皇子は虚空のどこかでそれを捉えながら、何と返事をしたのか自分でもわからないまま部屋を出て、どんなふうに歩いているのかもわからないまま外に出ていました。


 気がつくと、社職詰所の外の道に立っていました。


 どれくらい経ったのか、まだ明るい空に、爪で掻いたような細い細い月が出ています。

 皇子は今しがた何をしていたのか思い出すように、社職詰所の高い塀を見上げました。


 巫女が居て、煩悶とした不確かなものの正体をつきとめたくて会ったのに、また分からなくなった⋯⋯皇子は、約束の鳥居へと続く敷石の道を、ゆっくりと歩き出しました。

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