「放課後の残火」〈後編〉
長谷川が戻ったのは、それから三十分ほど経ってからだった。
「おまたせしました」
そう言って、数冊の分厚いファイルをドンと机に置く。
「この学校、戦前からあるかなり古い学校なんですが、こういった事件や事故に関しては、文部科学省——あー、当時の文部省ですね。そこが法整備して、関係資料を学校で保管する義務ができたんです。今から六十七年前ですね……その頃から私が来る前までの、死亡案件だけ出してもらいました」
並べられたファイルはどれも古く、タイトルには昭和の文字を出だしに「事故・事件報告(死亡)」「設備事故報告」という内容が並んでいる。
康樹がその中から一冊取り出し、パラパラとめくり始めた。
「うわぁ……なんか古すぎて頭痛くなりそ」
そう言って顔をしかめる。
手にしているのは長谷川が持ってきたファイルの中でも一番新しい年代のもので、厚紙で綴じられているものだ。
他のファイルも、紐で綴じられた紙の束や、色あせた水色や緑色の厚紙で綴じられていて、それ自体に歴史を感じる。
「学校の知られざる黒歴史ってやつ?」
充晶も、言いながら目についたのであろう一冊を手に取り、少し慎重にめくり始めた。
太壱も気になるのか、手近な一冊を取り出す。
しかし、一ページ目の文字数の多さと細かさに顔をしかめて一言。
「……あのさ。これ、手当たりしだいに全部見ていくのか?明日の朝になるぞ」
長谷川、康樹、充晶の手がピタリと止まる。
「確かに……そうですね」
眼鏡の位置を直しながら長谷川が同意する。
普通、今の太壱のセリフは彼から発せられても良さそうなものだが。
そのやり取りに、清司が面倒くささを全面に押し出すようなため息をつく。
彼は立ち上がり、ファイルのタイトルを一瞥すると、二冊のファイルを指し示した。
「この二冊だけ、年号が同じだ。これから調べればいいかもな」
そのファイルの色あせた水色のボール紙には、それぞれ、「昭和五十六年度 事件・事故報告書(死亡)」「昭和五十六年度設備事故」と手書きで記され、「市立九華高等学校」のゴム印が押されていた。
長谷川は他の資料を机からどけると、その二冊を並べて置く。
「これは……確かにそうですね」
清司はそのうちの片方、事件・事故報告書の方を手元に引き寄せ、表紙をめくった。
一ページ目にはファイルの概要が記載されている。
・発生日時:昭和五十六年十一月二十五日(水曜日)十六時三十分
・発生場所:校舎体育館裏焼却炉
・関係者:被害者
蒲田泰二(五十七歳)用務員・施設管理担当・男
加害者
田中敏彦(十七歳)二年A組・男
菊池正志(十七歳)二年A組・男
斎藤健太(十七歳)二年F組・男
・事故区分:傷害致死事件(校内)
・報告者:教頭 吉田久
文字はワープロ文章と手書きがまじり、全体的に字体が揺れている。
更にページをめくっていくと、当時の地方紙の新聞記事の切り抜きが糊付けされているページが出てきた。
新聞記事の見出しは「男性職員が全身に火傷
シンナー吸引の高校生3人関与
内容に目を通すと
“藤喜多市内の市立高校で二十五日午後、シンナーを吸引していた同校二年の男子生徒三人が、注意した男性用務員にシンナー入りの容器を投げつけ、衣服に付着したシンナーが近くにあった使用中焼却炉の火に引火し、重い火傷を負う事故があった。男性は市内の病院に運ばれたが意識不明の重体となっている。”
“同校などによると午後四時半頃、生徒らは校舎裏の焼却炉付近でシンナーを吸っていたところ、巡回中の用務員男性(五十七)が危険性を指摘。これに腹を立てた生徒の一人が、持っていたシンナー入りの容器を男性に投げつけた。更に別の生徒が男性を焼却炉側に突き飛ばし、その際に付着したシンナーに火が移ったという。”
“騒ぎを聞いた職員が消火器で火を消し、救急車を呼んだ。三人の生徒はその場から逃げたが、同日中に同教員に確保され、駆けつけた署員に引き渡された。”
“藤喜多署では、三人がシンナーを吸引していた経緯や、男性を突き飛ばした状況を調べており、傷害の疑いもあるとみて慎重に事情を聞いている。”
というものだった。
次のページにも同じ地方紙の新聞の切り抜きが貼られているが、こちらの日付けは3日後のもので、見出しは「藤喜多市市立高校シンナー事故 重症の用務員死亡 生徒三人を傷害致死容疑で書類送検」となっている。
内容も先の記事の続報となっており、事件の加害者の容疑が傷害から傷害致死に変わった旨が書かれていた。
「……これじゃねぇのか?」
そう言って清司は机の向かい側にいる三人にファイルを見せた。
「あー。確かに、焼却炉の事故が原因で用務員の方が一人、亡くなられていますね」
「せんせー、シンナー吸引って、どゆこと?」
「当時の感覚がわからないよね……」
確かに。記事を読んだ清司もそこは疑問に感じたところだ。
まず「シンナー」というものに馴染みがない。
記事の内容からして、加害者生徒三人が咎められることをしていたことと、「シンナー」というものが燃えるものであるということは理解できるが。
「あー。そうですね。君たちの年代には全く馴染みが無いですね」
そう言いながら長谷川は、新聞記事に改めて目を通した。
「シンナーというのは、いわゆる「有機溶剤」というものの一つでして——あー、有機溶剤というのは、接着剤やペンキを塗るときに使った道具の洗浄に使われるものなのですが、当時はその中でも、シンナーが普通に手に入りやすかったんですよ。それで、このシンナーの困ったところが、非常に気化しやすいんです。消毒で使うアルコールをイメージしてもらうとわかりやすいですかね。そして気化したものはガソリン並に燃えやすいんですよ。この用務員の男性はそれをかぶった状態で、火がついた焼却炉に突き飛ばされて火がついてしまったんでしょう。一瞬で火だるまになってしまったでしょうね」
そこまでの長い説明を終え、彼は眼鏡の位置を直した。
「その、シンナー吸引ってのは?」
同じく記事を覗き込みながら太壱が尋ねる。
長谷川は記事から視線を外すと、過去の記憶を掘り起こしているのか、顎に手を指をあて、少し考えてから話し始めた。
「シンナー吸引というのは、まぁ有機溶剤を吸引したときに起こる症状に起因した、当時の不良たちの危険な遊びでしてね。細かい部分は省きますが、今で言う危険薬物の類いと捉え方は一緒でいいでしょう。シンナーなどの有機溶剤を気化させたものを直接長時間吸引すると、強烈な酩酊感——酔っ払ったときの感覚ですね。それと、強い幸せな感覚ですとか、ふわふわ浮くような感じが出るんです。当時の不良学生たちは、その感覚を遊び感覚で楽しんでいたんですよ。長期乱用になると、脳にダメージが出ますから、当時の深刻な社会問題になっていたんです」
「不良……怖い」
「お近づきにはなりたくないね」
「完全同意」
長谷川の説明に、三人はそれぞれある種の戦慄を覚えたようだ。
清司は机に頬杖をつくと、
「で?目的の記事がこれだとして、このあとどうするんだよ。俺はもう帰るぞ」
そう言って、スマートフォンの待受画面を点灯させて机に置いて見せる。
時刻は十五時を指していた。
そこで焦りを見せたのは康樹だ。
「待って!清司!いや、清司様!まじ待って‼」
がたがたと音を立て近づいてくると、腕を掴んでしがみついてくる。
「これ、この流れなら旧校舎裏の焼却炉行く流れじゃん⁉お願い!帰らないで頼む‼」
「そうだよ清司。ここまで来たら運命共同体じゃないの。一緒に来てよ」
何が運命共同体だ。
内心そう突っ込みながら立ち上がる。
が、康樹はしがみついた腕から離れず、ぶら下がる形になった。
「……重い」
言うと康樹はしがみつく手に更に力を入れてきた。
「一緒に来てくれよ!頼む!」
そのやり取りに、充晶が近づいてきて康樹とは反対側に立つ。
「僕は抱きついたほうがいいかな?」
笑顔でそんなことを言う。
「やめろ。それだけはやめろキモい」
早口で静止するが、充晶は両手をわきわきさせ、今にも言ったことを実行に移さんばかりだ。
「なー!頼むよぉー!お前がいないと楽しくないんだよぉー!」
康樹は言いながら腕どころか体をゆさゆさと揺すってくる。
「お前は……猿か?類人猿か?やめろ」
かなり力ずくで揺すられているため、頭まで揺らしながら言うが、康樹が止まる気配はない。
太壱の方を見るが、困った表情を浮かべているだけで、助け舟を出す気はなさそうだ。
「太壱は来てくれるよね?」
充晶が太壱に顔を向けて言うと、太壱は軽くため息をつきながら答える。
「清司が行くならね」
「おい」
たまらずそう言って太壱を見やる。
太壱は肩をすくめながら、
「ここまで来たら、さくっと行ってさくっと何もないこと確認したほうが早い」
そんなことを言う。
なおも揺すられながら考える。
写真に写っている火だるまの人間の幽霊を考えると、どうにも校内で度々見かける作業着姿の幽霊の姿が浮かぶ。
先の新聞記事と関連付けるなら、この二人は同一人物と考えても良さそうだ。
だが、なぜ場所によって姿が激しく変わるのか。
こればかりは現場に行ってみないとわからない。
どうしたものかと考える。
考えて、
「……関わりたくない」
出てきた答えはやはりそれだった。
何をどう考えてもやはりそこに行き着く。
写真以外に実害がないなら放っておけばいい。
しかし、二人がそれで引き下がるはずもなく。
「やーだー!いーこーうーぜー!」
「この期に及んでまだ言う。たーのーむーよぉー」
「やめろ!」
体を揺さぶり続ける康樹に加えて、スタンバイしていた充晶が抱きついてきたことに、ついに声を荒げた。
「だぁー!もう!お前らほんっと!やめろ!」
腕の康樹を振りほどき、充晶を引き剥がす。
さして広くもない室内だが、二人はおっとっととよろめきながら離れる。
「わかった!……くそっ。行くだけ行ってやる。お前らが何も見なけりゃそれで終わりだからな」
苛つきを隠すこともせず、舌打ちをしながら言うと、康樹と充晶は二人同時にガッツポーズをしてみせた。
太壱はやはり「やれやれ」と軽くため息をついている。
そのやり取りを、長谷川は広げた資料を片付けながら、微笑ましく眺めていた。
◆
長谷川が借りたファイルを戻し、旧校舎敷地内への立ち入り許可を取って、五人は旧校舎の体育館裏に来ていた。
夏至を過ぎたばかりのこの時期は、雲間から覗く太陽は傾いているが、夕方と言うにはまだ明るい。
使われなくなって久しい体育館は、当然ひとけがなく、しんと静まり返っている。
その裏手の敷地の隅に、コンクリートでできた四角い箱のようなものがあった。
その箱には鉄製の錆びた煙突と、やはり錆びた両開きの蓋がついている。
劣化が激しいのか。全体的に白っぽくなったコンクリートは角が取れ、所々にヒビが入っているのが遠目でもわかった。
その周りの地面は砂利が敷き詰められ、所々に雑草が生えている。
早々に終わらせて帰りたい清司は、何も言わず焼却炉に近づくと、錆が浮いた取っ手を掴み、蓋の片方を開けた。
中は、長年使用された跡の煤がこびりつき、外面とは対象的に真っ黒だ。
底には少しの灰と、煙草の吸い殻があるのみ。
校内にあってはならない筈のそれを見つけ、清司は複雑な表情を浮かべて一歩離れた。
続いて康樹が中を覗き込む。
康樹は、清司が見たものと同じものを見つけると、「あー!」と声をあげた。
近づいてきた三人に見せるように焼却炉から身を引き、中を指差す。
「あらら。こういう場所って、やっぱりこういう事するのにぴったりってこと?」
「それにしたって、今時わざわざ学校で吸うか?」
「おやおや。これは少し面倒なものを見つけてしまいましたね。私の方で報告しておきます」
それぞれ中をのぞき込み、そんなことを言った。
それだけで、特に何の変化もなく、無駄な時間が流れる。
ポケットに手を入れ、黙って事の成り行きを見ている清司は、退屈なのを隠すことなく大あくびをした。
ふと、何かを考えている様子だった、充晶が思いついたように顔をあげる。
「あの幽霊ってさ、煙草吸ってるときに現れてるとかって考えられない?」
「どゆこと?」
「僕、考えたんだよ。焼却炉の他に出現条件があるんじゃないかって」
「出現条件、ですか?」
「そ。先生さっきここをモチーフに選ぶときって、テーマが「ノスタルジック」だとかって話してなかったですか?」
「そうですね?」
「テーマがそんな大枠だと、他の場所をテーマにしても良かったはずでしょ?これだけ旧校舎が残ってる学校だもの。他にも撮影スポットはあるはずだよね?」
「確かに」
「でも、毎回数人は必ずここに来て写真を撮ってる。それはなぜか!部活しながら、誰にもバレないここで、煙草を吸えるから!」
そんなセリフとともに、びしっと焼却炉を指差した充晶はどこか得意げだ。
清司は、そんな充晶の姿に、なぜかいたたまれない気持ちになった。
「……それで、何で煙草吸うだけで用務員が化けて出てくんだよ」
「そー……それは……えーっと」
清司のツッコミに答えが浮かばないらしく、突然しどろもどろになる充晶に、思わずため息が出る。
「お前、最近推理物の映画でも見たのか?」
「な!」
それはどうやら図星だったらしく、彼はそれ以上は何も言えないようだった。
「……言わないほうが良かったか?」
黙ってしまった充晶にそう声をかけたが、それも余計だったようだ。
充晶は顔を覆ってしまい、康樹によしよしと慰められている。
「そういうとこだぞ清司」
見かねた太壱が清司の肩をどついてきた。
どうやらここは、充晶の推理パートということで、そっとしておくのが正解だったようだ。
しかし、その推理が正しかったとして、それ以上の進展があるわけでもない。
どうしたもんかと清司が頭をかいていると、こちらも何かを考えている様子だった長谷川が声を発した。
「では、こういうのはどうでしょう?」
そう言って、白衣のポケットから取り出したのはマッチ箱。
「何でこんなものを持っているのかは聞かないでください。先日の授業の実験で使ったものをしまい忘れていました」
決して可愛くはないが、お茶目を装う長谷川は、そのままの勢いで箱からマッチを一本取り出すと、
「煙草に火をつけるわけにはいきません。当然私も持っていませんので。ですが、これで火を起こすことはできます。当時の再現とまではいきませんが、やってみますか」
言って、こちらのリアクションも待たず、マッチ棒を箱側面に擦り、火を付けた。
しゅっという音と共に先端に火がついたマッチは、一瞬炎を大きくするが、すぐに勢いを落ち着かせ、小さな火となる。
程なくして木の部分が燃え、長谷川が「あちち」と言いながらマッチ棒を地面に落とした。
火は地面に落ちると同時に消えたが、念の為と言わんばかりに長谷川がそれを踏みつけ、完全に消火する。
変化は、特にない。
「……おかしいな。僕の推理が正しければ、ここで幽霊が現れるはずなのに」
やはり推理物の何かに影響を受けている充晶が、気を取り直したのかそんなことを言う。
太壱がやれやれといったリアクションをし、康樹はまだ諦めきれないのか、もう一度焼却炉の中をのぞき込んでいる。
その時だった。
清司の視界が六人目の人物を捉える。
何の前触れもなく現れたそれは、この場にいる五人の顔を、一人ずつ確認するようにのぞき込んでいく。
長谷川、充晶とのぞき込んで、今度は清司の番。
彼は、なるべく視線が合わないように、表情を変えないように、目の前には何もいないかのように。
息を殺し、それの気が済むのを待つ。
全身が焼けただれ、どろどろになったそれは、写真に写っていたそれと同じ、黒い眼窩で清司の顔をじっとのぞき込むと、くぐもった声を残して
次の人物へ顔を向けた。
その時だった。
「ん?あれ、なんだ?」
焼却炉をのぞき込んでいた康樹が言う。
同時に、それが濁った悲鳴のような声を上げ、康樹に向かい走り出した。
すぐに康樹のもとに着くと、一生懸命康樹の体に触れようとするが、当然できるはずもなく、同じ行動を繰り返す。
近くには太壱がいるが、清司ほどはっきり見えていないのか、彼は無視を決め込んでいるようでリアクションはない。
と、康樹が発見したものが気になった太壱が、横から焼却炉内をのぞき、一瞬で表情を変えた。
すぐさま康樹の首根っこを掴み、自分の方へ引き寄せ、その場から距離をとる。
直後、焼却炉からはオレンジ色の炎が噴き出し、それの体も炎に覆われた。
何も見えていない康樹が、太壱の突然の行動に抗議の声を上げる間もなく、太壱が叫ぶ。
「充晶!結界張れ‼」
「え?」
「いいから!今すぐ!!」
清司も、見えていないため何が起こったのか理解できずに、キョトンとしている長谷川の前に立ち、いつでも動けるよう身構えた。
炎が燃え広がる様子はないが、火だるまになっているそれは、焼却炉のそばに立ったまま、緩慢な動きで太壱と清司を交互に見ている。
「え、でも先生の前だよ?」
「構うな。やれ!」
清司が有無を言わさずそう言うと、「どうなっても知らないよ!」と言って、その手に弓を出現させて空に向け、
「守甲隔壁陣!」
その言葉と同時に弦を弾いた。
弾かれた弦からは矢が放たれ、上空で止まると即座に五つに別れ、一本を残し四方に散る。
今回は範囲をこの体育館裏の敷地に絞ったようだ。
すぐに結界の効果が発揮され、康樹と充晶、長谷川がそれぞれに悲鳴をあげる。
「太壱⁉え、ちょっと、太壱⁉」
「え!聞いてない聞いてない!近すぎ!!」
「えぇ⁉」
化け物じみたそれの姿を見て、康樹は太壱の後ろに隠れ、充晶は清司の後ろに駆け込み、長谷川は腰を抜かしたか、その場に尻もちをついた。
「ったく。見たいもん見れて満足じゃねぇのかよ」
その行動に呆れた清司が悪態をつく。
太壱は康樹を庇いながら、出現させた薙刀を構え、臨戦態勢だ。
と、太壱と康樹の方に向かい、その炎をまとったそれはゆっくりと歩き出す。
これは助けに入るべきか。
そう思った時だった。
それの足元から焼却炉に向かい、紐のような何かがつながり、炎をあげている。
その紐のような何かは、燃え尽きる事なくしっかりとその二つを繋げているように見えた。
急ぎ白秋を呼び出し尋ねる。
「白秋!」
『ここに』
呼び出された白秋は、清司の左隣に控えるように、白い虎の姿で現れた。
「あの紐みてぇなもんは何だ」
『あれは……互いをつなぐ『縁』が形を得たもの。強い念を結んだものに希にある』
「斬れんのか?」
『斬れる』
「斬った後は?」
『互いの縁が無くなる。絡めとられているものなら解放される』
そこまで早口でやり取りをし、決断する。
炎をまとったそれは、動きが緩慢すぎるせいで、まだ太壱と康樹のもとに着いていない。
逃げればいいのに。
そう思いながら見ていると、太壱と康樹は何やらもたもたと焦りながら言い合っていた。
「こ、康樹、今のうちに逃げろって!」
「むりむりむりむりむり‼」
「何でだ!」
「あし!足がもう、無理‼」
「お前ー⁉」
どうやら、康樹が太壱にしがみついている上に、動けないらしい。
太壱なら、康樹を担いで逃げ出せそうなものだが、どうやらそちらにも頭が回っていない様子。
二人揃ってパニックだ。
清司の後ろでは、尻餅をついたまま目を丸くして固まっている長谷川と、そのそばで、見えたものに耐えられないのか、目を覆って丸まっている充晶。
そんな状況を見て、盛大なため息がでる。
そもそも、この話を持ってきてここまでの状況になったのは、揃いもそろって腰を抜かして動けなくなっている三人のせいだ。
どうして自分が、こんな後始末のようなことをしなければならないのか。
そう考えると、今更だがこのままこの場を放置して、家に帰ってしまおうかという気にもなる。
が、やはり目の前で炎につつまれているそれを放ってもおけない。
清司は白秋を刀の形にし、それと焼却炉をつなぐ『縁』に近づき、刀身をあらわにして、「斬るぞ」と一言。
白秋が反応したのを確認して、片手で刃をおろす。
『縁』はサクッと、なんの抵抗もなく斬れ、ぼろぼろと崩れ、霧散し始める。
それが焼却炉と、それの足元までいくと、それぞれの炎は、まるで何事もなかったかのように消え失せた。
するとそれが、まるで映像の逆再生のように状態が回復していく。
熱でどろどろになって、皮膚に付着していた衣類は、もとのくたびれた作業着に。
もともと被っていたのであろう帽子も、きれいに戻り頭に乗っている。
顔は、ここからでは見えないが、もとの表情のある人間のものに戻っているだろう。
その状況を見て、ぽかんとしている太壱と康樹。
清司は、自身の状態を確かめるように、身体のあちこちを確認している男に向かって声をかけた。
「あんた、用務員の蒲田さん、か?」
男はその声にぱっとこちらを振り返る。
歳相応のシワが刻まれたその顔は、何が起きたのか理解できないといった表情を浮かべた。
「あんた、自分が死んだこと、気づいてるか?」
清司の言葉に、それまでのことを思い出したのか、顔から色が消える。
と、男の体が足元から少しずつ薄くなり、消え始めた。
男は何かを悟ったような表情の後、やんわりとした笑顔を浮かべると、清司に向かって帽子を取り、深々と頭を下げた。
そしてそのまま透明になり、消えてしまう。
あっけない幕引きとなり、その場の四人が呆然とする中で、清司は白秋を戻すと、黙って焼却炉の蓋を閉めた。
◆
一旦落ち着きましょうという、一番落ち着いていない長谷川の提案で、五人は再び化学準備室に戻ってきた。
先程ここから出ていって、2時間は経っただろうか。
先と同じ場所にそれぞれ座り、カップに入れられた冷たいお茶を飲む。
一息ついたところで、そういえばと、充晶が康樹と太壱に尋ねた。
「康樹、僕が結界張る前、焼却炉の中で何か見つけてたよね?何見つけたの?」
聞かれて、康樹は先のことを思い出し、首をひねりながら答える。
「焼却炉の底で、小さいのが赤く光っててさ。それこそなんか、学校行事でやったキャンプのときのあれ。焚き火の最後に残ったやつ?みたいな色してたんだよ。何だったんだ、あれ?」
「あれなぁ。多分残火ってやつじゃねぇかな。そういうもんがあるって、うちの婆さんが言ってた。おれも初めて見たけど」
と太壱。
「ざんか?」
「ああ。のこりびって書いてざんかな。昔から、
火を消したはずの所に残火が現れると、それは幽霊が通った合図だとか、亡者が来た合図だとか言われてるんだと。今回はおれ、亡者の方じゃねえかって焦ったんだよな」
そう言ってカップに口をつける。
「へぇ。太壱でも焦ることあるんだ?」
充晶がそう言うと、太壱はカップを置き、頬杖をついた。
「そりゃおれだって、なんの前触れもなく条件揃ったら焦るっての」
言った太壱はどこか不満気だ。
と、ここで再び康樹が疑問符を浮かべる。
「でもさ、最初見たときそんなもんなかったぞ?何で急に出てきたんだ?」
腕を組み、やはり首を傾げながら康樹が言うと、
「それだよなー。康樹に見えたのも謎だし」
太壱も続けてそう言った。
各々が首を傾げる中、清司がその疑問に答える。
「……長谷川先生のマッチのせいだろ」
「えぇ、私ですか?」
「焼却炉の火が原因で死んだ人間だったんだ。火そのものが呼び鈴みてぇなもんだったんだろ」
ため息まじりにそう言うと、康樹が「じゃあ」と、新たな疑問を浮かべる。
「オレがその残火?っての、見たのは何でだ?あ!もしかしてオレも見えるように——」
「なってねぇ」
「えー!なんでだよー!」
話の流れで浮上した可能性を即座に否定されて、彼は面白くないようだ。
「残火自体は昔から言い伝えられてるからな。普通の人でも見えるんじゃないか?」
「なーんだ。がっかりだ」
太壱が付け足すように言うと、康樹は見るからにしょんぼりしてみせた。
四人の笑い声とともに、会話は転がっていく。
それを聞きながら、清司は先程から地味に続いている頭痛と、襲ってきた強い睡魔に抗えず、その場でそっと机に突っ伏し、眠りに落ちた。
◆
短い夢を見た。
内容は、あの焼却炉での一連の事件の真相だったのか。
ある日の仕事中。
焼却炉のそばでたむろしている男子生徒に、ここは火を使っているから危険であることと、シンナーを吸うのは体に良くないことを注意する。
いつもならすんなり聞き入れられるのだが、その日はどうにも聞き入れられず、暴行を受けた末、体にシンナーをかけられ、焼却炉に突き飛ばされた。
折悪く、焼却炉からは先程くべたばかりの可燃ごみが勢いをつけて燃えていて、蓋が空いていたこともあり、すぐに身体に火がついた。
叩いて消そうとするが、努力も虚しくすぐに全身が火に包まれる。
身体が激しく燃え、意識が遠のく中で、最後に思ったのは、やらなければならない仕事がまだ沢山あったことと、焼却炉の火の始末をしていないことだった。
このことを知っているのは、今となっては当時現場にいた三人の生徒だけだろう。
◆
「殺人じゃねぇか‼」
そんなことを叫びながらがばっと顔を上げる。
「ど、どど、どうした⁉」
「いつの間にか寝てたと思ったら、起きて第一声がそれかよ」
「随分物騒だよねぇ?」
「何か悪い夢でも見ましたか?」
驚きと心配の表情でこちらを見る四人の顔を見て、清司はそれまで見ていたものが、『縁』を消滅させたことで起こった、存在の譲渡の影響で見た夢であったことを理解した。
ぼーっとしたまま、残っていたお茶を飲み干す。
なぜあそこまで、過去の資料や報道と違った内容だったのか。
死んだ本人がその場に結びつけた記憶が、嘘だとは考えられない。
考えられるとすれば、逃げている間に口裏を合わせたか。
それとも誰かの入れ知恵か。
今となっては確認のしょうがない。
そして、確認したところで、何も変わらないし、誰も得をしない。
刑事ドラマでもあるまいし。
清司からの返答を待っている四人をよそに、彼は気分を変えようと、残っていた袋菓子の未開封のものに手を付けた。
無言で堅焼きせんべいを噛み砕く。
それを横で見ていた太壱が、ぱこんと清司の頭を叩いた。
清司がせんべいを咥えたまま、目を丸くして抗議の視線を送ると、太壱は
「説明」
と一言。
頭をさすりつつ、口の中のものを飲み込んでから、本日二回目の「しないと駄目か」と返すが、どうやら太壱には消滅させたことも、存在の譲渡が発生したことも見抜かれているらしい。
一睨みされて、清司はお茶のおかわりをカップに注ぎながら、先の状況と合わせて、今の夢のことを四人に話した。
◆
かいつまんで話したため、さほど時間もかからず話を終え、清司は再びせんべいを食べ始める。
のど元すぎればなんとやら。
あれだけビビり散らかしていた三人は、自分たちが見たものと、清司が話した内容とをすり合わせ、楽しそうに話していた。
結局アレが用務員で間違いなかっただの、最後は用務員が成仏したから、今回はハッピーエンドだの。
目を覆っていた充晶もそれに参加していることに、激しく突っ込みそうになったが、それは思いとどまった。
同じくそれを眺めている太壱が、ぼそりと清司に言う。
「お前、随分端折ったじゃねぇか?」
「別に」
「夢の内容もほとんど話してないし」
「言ったところで何も変わんねぇからな」
「さっきの寝起きの発言は?」
「あ?」
「暴行殺人だなんて、随分と具体的で物騒だぞ」
「さてな。こないだ見た刑事ドラマの影響でも受けたんだろ」
「お前に限って?」
「そんなこともあるだろ」
太壱の追求をはぐらかすだけはぐらかし、清司はせんべいの最後のひとかけらを口に入れ、がりごりと噛み砕いた。
夢の内容は、このまま忘れてしまうのが一番良いだろう。
用務員の幽霊は、これでもう、この世にはいないのだから。
◆
テスト明けの休日を挟んだ、翌週の登校日。
面倒なテストと、厄介な話の両方から解放された、何もない、実に素晴らしい何もない休日を過ごした清司は、いつも通りの時間に、いつも通りの道を通って登校した。
目に見えているものはともかくとして、彼は何事も起こらない平穏な日常を、噛みしめるように歩く。
厄介事には関わらない。
それを信条として生きてきた彼にとって、高校に入学して以降、短期間であるにもかかわらず、その信条をぶち壊す様な出来事が実に多い。
清司からすれば非常事態とも言える。
が、康樹と充晶が動いている以上、仕方がないという諦めもあるにはあった。
しかし、それはそれ。
彼の基本的な行動に変わりはない。
何がそこにいて、どういうものが見えようと、自分から首を突っ込むようなマネだけはしない。
それを徹底していれば、つつがない学校生活が送れる。
そう信じていた。
その時までは。
校門を通った直後、彼は、珍しく自分が目にしたものを疑った。
灰色のくたびれた作業着姿の男が、ほうきを片手に、こちらに手を振りながら走ってくる。
その男の足元には、影がない。
思わず足を止めてしまったことに舌打ちした頃には、男は清司の目の前にいた。
そのまま歩みを再開させても良かったが、無視をしてこのままつきまとわれても困る。
なかなかないことではあるが、清司は仕方なく「ついて来い」と周りに聞こえない小さな声で言って、この時間ひとけのない校舎裏に向かった。
◆
「あんた、何でまだいるんだ⁉」
人がいないことを確認した清司が、まず発した言葉はそれだった。
あの時、あの焼却炉そばで、確かにこの用務員は姿を消した。
言葉のとおり、まさに消えたのだ。
幽霊であれば、そのようなことは平気でありそうなものだが、あの消え方は、満場一致で「成仏」する幽霊のそれだっただろう。
それなのに、その消えた当の本人が、こうして目の前に存在している。
問われた彼は、少し考えた後口を開いた。
が、そこから出たのは「あ゛ー」という、濁った声だけだった。
本人もそれは意図していなかったのか、首を傾げ、喉元に手を当てたあと、再び口を開く。
「う゛ぁー」
結果は変わらない。
困った表情を浮かべた彼は、仕方がないと胸ポケットから鉛筆とメモ紙を取り出し、何やら書き始めた。
程なくして書き終わり、こちらに見せてくる。
“長く居すぎたようで
学校の敷地から出られない
居心地はいい
このまま雑用しながら生徒を見守ってもいいかなと”
そんな内容を見て、清司は頭を抱えた。
この男は、そもそも成仏する気がない。
「何か未練でもあんのか?」
そう尋ねると、男はまたメモ紙に鉛筆を走らせる。
“思い当たることはない
学校の業務が好きなんで”
その言葉に、やはり頭を抱えるしかなく、清司はため息をついた。
「わかった、好きにしろよ。ただ俺はもう関わりたくない。俺にまとわりつくのだけはやめてくれ」
その言葉に、彼はこくりと頷くと、またメモ紙に何かを書き始める。
書き終えた彼は、それを見せるとにっこりと笑ってみせた。
“わかったよ
でも、この学校、表に出てないだけで、他にも色々といる
何かあれば呼んで
助けてもらった礼はしたい”
清司がそれを読み終えると、彼は清司の返答を待たずに、来た方とは逆の方へ歩いていった。
表には出ていないだけの存在など、この世にはごろごろといる。
それは清司にとって、幼い頃から培われた経験からくる、常識の中の一つである。
今更だ。
胸中で毒づきながら、彼は教室に向かい歩き始めた。
◆
あれから数日。
相変わらず用務員の姿は見かける。
が、向こうが会釈してくる程度で、こちらは無反応を徹底している。
太壱が見て「なぁ、あれって」と小声で訪ねてくることがあったが、無害だから放っておけばいいと伝えたあとは、彼も無視することにしたようだった。
清司にとっては、慣れてしまえば日常の景色の一部でしかない。
後日、用務員がメモに書いた内容が現実になってしまうが、それはまた、別の話。
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