7章「見える世界と見えない世界」

「……ずいぶん背負い込んでんな」


 そうつぶやきつつ、彼は屋上へと続く階段に向かっていく生徒を見ていた。


 彼にとってはよく見る光景だ。


 何かがとり憑いている人間には、黒い霧のような、モヤのような、とにかくそんなものがまとわりついていることがよくある。


 そういう人間は、不慮の事故に巻き込まれたり、自ら命を断ったり。


 とにかく、まともな死に方はしないのが常だ。


 しかし、このまま放っておくのはいかがなものか。


 屋上へ向かっているのなら、そこからのノーロープバンジーチャレンジなどという悲劇も、最悪考えられなくもない。


 さて。


 どうするべきか、腕を組み思案していると、廊下の向こうからもう一人の男子生徒が走ってきた。


「平田ー‼」


 どうやら屋上に向かっている人物は平田という名字らしい。


 その平田は、追いついた彼の声かけに答えるでもなく、やはりフラフラと、屋上へと歩を進めている。


「どうしたもんかなー」


 彼が迷っているうちに、思いのほか早く屋上の扉の開閉音が響いた。


 屋上は入学して間もない彼の憩いの場でもある。

 

 晴れた日は屋上の隅で、のんびりと弁当を食べるのが今は楽しいのだ。


 そこでことを起こされると、屋上が立ち入り禁止になりかねない。


 そうなるのは非常に避けたい事態だ。


 清司はため息をつくと、二人のあとを追い、階段を駆け登った。



 屋上では、すでに平田がフェンスによじ登り、もう少しで乗り越えようかというところだった。


「くっそ!早いな‼」


 そう毒づくと、清司はダッシュで近づき、フェンスに飛びつくと、平田の制服を掴んで後ろに引っ張った。


 しかし、かなりしっかりフェンスを掴んでいるようで、なかなか片手では引きはがせない。


「平田ぁ‼」


 足元では、平田の友人が必死に呼びかけているが、彼の耳には届いていないだろう。


 清司の力では足りないのか、平田はありえない力でじわじわとフェンスを登っていく。


 とうとう一番上に手が届くかというとき、清司は意を決して平田の背中に張り付くと、両脇から肩にかけて腕を回し、仰け反る形で引き剥がしにかかった。


「——っ!どっせぇい‼」


 そんなかけ声と同時に力を込める。


 と、その瞬間、平田は力を失ったかのようにフェンスから手を離した。


 非常に悪いタイミングだ。


「う?おあぁあ‼」


 清司が込めた力の分だけ反動がつき、そのままの勢いで屋上の床へ落下する。


 もちろん、清司を下敷きにして。


「ぐぇっ!」


 着地の衝撃とのしかかる平田の重量に、肺の空気が押し出され、そんな声が漏れた。


 と、そんな清司に構うことなく、平田の友人は彼に声をかけ続けている。


「平田!おい!大丈夫か⁉」


 平田より、今は下敷きになった自分の方を心配してもらいたい。


 若干むっとしながら、清司は自分の体の上で気を失った様子の平田を乱暴にどけた。


 自分が下敷き——もとい、クッションになったのだから、怪我はないはずだ。


「ったく……なんだってんだよ、こいつは」


 そうぼやきながら平田の頬をぺしぺしと叩く。


「おい、起きろ。おーい」


 すこしして、


「う……うーん」


 と、平田がうめきながら目を開けた。


「平田ぁ!よかった‼」


 そう言って友人が安堵の声をあげる。


「あー。俺の心配はねぇのかよ?」


 あまりの無視のされ具合に、いい加減そうつぶやくように言ってアピールしてみる。


「あ!助けてくれてありがとう!……えーっと?」

「B組の柳谷だ。お宅らは?」

「あ、C組の近藤と平田です。平田を助けてくれてありがとう‼本当に、ありがとう‼」


 言うと、近藤は清司の手をしっかりと、両手で握りしめた。


 よほど平田を心配したのだろう。


 近藤の目には涙が滲んでいる。


 しかし、感謝されるのはいいが、握手でもないのに、男にしっかりと、両手で手を握られるのは、あまりいい気分ではない。


 と、清司の微妙な表情に気づいたのか、近藤はぱっと手を離した。


 ふと、黙っている平田に目をやる。


 彼は何かを探すように、周りをキョロキョロと見ている。


 それに気づいたのか、近藤がぱっと立ち上がり、近くに落ちていたメガネを拾い、平田に手渡した。


「あ、ありがとう……ぼく、なんで屋上に……?」

「覚えてないの⁉」


 驚いた様子の近藤の声に、平田が頷く。


 そりゃ、あんだけどす黒いものを背負って、死んだ魚の眼で歩いていたなら、覚えていなくても仕方がないか。


 清司はため息をつく。


「平田、お前さん、最近変なことないか?」

「変なこと、ですか?」

「例えば、どっかで誰かに押されて危ない目にあった、とか……」


 そこまで言うと、


「……う、うわあぁああああん!」

「え、え、え?」


 突然泣き出した平田に、近藤がたじろぐ。


 こりゃよっぽど溜め込んでたなと、清司は内心あたりをつけた。


「元凶がわかってんなら神社か寺に相談することを勧めるぜ」

「ひぐっ、ひぐっ……怖かったです!誰に相談しても、相手にしてもらえなくって……」

「まあ、そんなもんだろ」

「な、なんの話?」


 清司には大体見当がついていたが、近藤にはさっぱりわからない状況だろう。


 ふと、胸ポケットの中の紙片を思い出した。


 “何でも屋”の名刺だ。


 こんな形で、見ず知らずのやつ。しかも男に渡すことになるとは思いもしなかった。


 できることなら渡したくはない。


 しかし、今の平田には気休めでも頼れる人間が必要だろう。


 思わず苦虫を噛み潰したような表情になりながらも、そう思い名刺を取り出す。


 平田に渡すと、彼は疑問符を浮かべながら聞いてきた。


「“何でも屋”、ですか?」

「心霊関係のな。寺も神社もどうにもならなかったら連絡しろ」


 そう言って立ち上がり、その場をあとにした。



 コーヒーを購入してから再び教室へ戻ると、三人は完全に暇を持て余し、だらけていた。


 一人は椅子にのけぞり、一人は机に突っ伏し、一人はスマートフォンのゲームに勤しんでいる。


 それぞれ、充晶、康樹、太壱の順だ。


 清司は特に何を言うでもなく自分の席に戻ると、買ってきたコーヒーに口をつけた。


「遅かったじゃーん」

「なんかあったー?腹でも下したー?」

「腹は下してねぇよ」

「人助けでもしてた?」

「……………」


 太壱の発言に思わず黙り込む。


 なんでわかったと言わんばかりに視線を向けると、


「ただの勘だけど……図星?」


 そう言ってゲームの手を止めた。


 頭をガシガシと掻きながら、仕方なしに答える。


「ちょっと色々あってな……名刺渡したから、もしかしたら、近々依頼の電話、来るかもな」


 清司のその言葉に、ガタガタっと派手な音がした。


 一人は立ち上がり、一人はひっくり返って床に転がっている。


 立ち上がったのは康樹。床に転がったのは充晶だ。


 太壱は珍しいものを見るかのような表情でこちらを見ている。


「な、なんだよ……」

「せ、清司が……」

「名刺を使うなんて……」

「いやぁ、びっくりしたぁ……」


 めいめいにそう言って、やはり驚きの表情を見せる。


 まあ、その反応も仕方ないといえば仕方ない。


 名刺を渡された当日、清司は最後まで名刺を受け取るのを拒否していたのだから。


 彼はため息をつくと、黙ってコーヒーを流し込んだ。



 心当たりがあるなら神社か寺へ。


 彼はそう言った。


 学校からの帰り道。


 黙々と歩きながら考える。


 心当たりは確かにあった。


 あの本を開いたことだ。


 あの本を、開いた次の日から、おかしなことは始まった。


 最初は些細なことだった。


 階段の上段で躓いて転げ落ちそうになったり。


 自転車とぶつかって道路に飛び出しそうになったり。


 そのうち明らかにおかしなことが増えた。


 誰もいない踏切で電車待ちをしていたら、電車が通過する直前に、誰かに背中をぐいぐいと押されて、遮断器を超えそうになった。


 もちろん、振り向いても誰もいない。


 それは横断歩道の信号待ちでも起こった。


 ギリギリで止まってくれた車の運転手には歩行者側が赤信号だったこともあり、怒鳴られてしまった。


 その時も、自分以外には誰もいなかった。


 通っているスイミングスクールでは、泳いでいる最中に、足を引っ張られ、水の中に引きずり込まれて溺れそうになった。


 もちろん、コースには自分と、離れたところにコーチがいただけで、コーチが助けてくれなければ完全に溺れていただろう。


 だんだんと、外に出るのが怖くなった頃。自宅の近所を歩いていたらマンションの上の方から植木鉢が落ちてきた。


 落下地点は自分のつま先すれすれの位置。


 あと少し歩くのが早ければ、自分の頭を直撃していに違いない。


 すぐに上を見上げたが、もちろん誰もいない。


 しんと静まり返り、気配すらしなかった。


 最近おかしなことが起こるとを、両親には相談した。


 しかし両親は注意力が足りないだけ。ただの偶然ととりあってはくれなかった。


 両親に相談してもそんな状態だ。


 友達に相談しても、やはり偶然の重なりだと、相手にはされなかった。


 眠れば決まって、自分がひどい死に方をする悪夢で目が覚める。


 おかげでまともに眠れない日が続いているし、ここ数日は、自分の耳のそばで誰かがずっと囁く声が聞こえている。


 そのせいか、今日は朝からぼーっとしてしまい、最後の授業が終わったあとから彼に助けられるまでの記憶がおぼろげだった。


 中学からの友人の近藤の話しによると、屋上のフェンスをよじ登り、飛び降りようとしたと言うのだ。


 その話を聞いてゾッとしたのは言うまでもない。


 彼に助けられてからはあの声はおさまっている。


 これはチャンスかもしれない。


 彼の言うとおり、あの本をすぐにでも近所のお寺に持っていってみよう。



「で、どうすりゃお前をただの刀として使えるようになるんだ?」


 自宅に帰ると、宿題などやるべきことを終わらせた清司は、白秋を呼びだし、彼を質問攻めにしていた。


 力の範囲は斬る対象のみ。


 効果は斬った対象がこの世に誕生した瞬間から消滅の瞬間までの、存在情報の根本的な消滅。


 そして『存在の譲渡』という名の悪夢を見るという副作用付き。


 そこまではわかった。


 問題はその「使い分け」だ。


 白秋は子供の姿で現れたが、獣のような瞳は表情が読み取りにくかった。


 ただ、今は質問がどうにも答えづらいのか、眉根を寄せている。


『……力を「術」と捉え、言霊を発したときのみ力を行使するようにすれば……あるいは』

「そんなことができるのか?」

『これが正解というわけではない。前のあるじはそのようなことはしなかったのだ。だから我も試してみないと……』


 そう言うと、口をへの字に曲げる。


「『消滅』の力を使うときは、お前自身が使ってるのか?それとも俺が使ってるのか?」

『我を振るうのは主であり、我は力そのものである』

「……っつーことは、やっぱりお前が力を制御してるってことか」

『?』


 どうやら自覚はないようだ。


「じゃあ、俺が言うまで力を使わないで、ただの武器でいることはできるのか?」

『それは……可能であるが……』

「なんだ、できんのかよ」

『しかしそれでは……!』

「それでは?」

『主を、守ることができぬ……』


 そう言うと、膝の上の小さな手をぎゅっと握りしめた。


 前の持ち主は一体どんな死に方をしたというのか。


『………………』


 白秋は過去を思い出してしまったのか、そのまま黙り込んでしまった。


「残念だな。俺はお前に守ってもらおうとは思ってねえんだよ」


 これは本心。


 これまで色々と危険な目にはあってきたが、どれも自分で解決してきた。


 確かにそれで周りの人間に心配をかけることは多かったかもしれないが、たとえそれが一番付き合いの長い太壱相手でも、本心から「助けてほしい」と泣きついたことはない。


 努めて明るく言う清司の言葉に、白秋はようやく顔を上げた。


『主……』

「よし。それじゃあなんか合図みたいなの決めとくか」


 そう言うと、清司は本棚から国語辞典を引っ張り出し、パラパラとめくり始めた。



 翌日。


 清司は大きなあくびをしながら登校していた。


 あのあと更に玉の力やその他諸々について、白秋から情報を聞き出したため、寝るのが遅くなったせいだ。


 玉は四つとも、それぞれの主にあわせた武器に変化できること。


 四つの姿は、中国の四聖獣の姿を模して作られたこと。


 それぞれに使用できる属性があり、白秋は風を操る力があること。


 玉の持ち主は、玉の力を使っている間に負った傷に限り、回復力が増し、傷の治りが早くなること。


 同じく、玉の力を使用している間に限り、身体能力が向上すること。


 玉はもともと、一国を守護する目的の他に、国の民を襲う化け物を退治することを主な目的として作られたこと。


 玄武の玉だけは、『隔離』の能力を使い、国の防衛に当たっていたこと。


 化け物は『境界』という、あの世とこの世の狭間のような空間を自ら作り、そこに潜み、人間を襲うときにこちらの世界に現れること。


 この今の時代は、その『境界』がそこら中にあふれかえっていること。


 昨日の話だと、そんなところだった。


 そして、無駄に時間を要したのが『消滅』の力を使う合図の言葉の決定だ。


 どうにも自分にはネーミングセンスというものがないらしい。


 国語辞典、漢字辞典を駆使しても、それらしい言葉が浮かばなかった。


 これは、ぶっつけ本番になるかもしれない。


「……はぁ。まあ、いいけどよ」


 歩きながら独りごちる。


 とりあえず、そんな化け物と戦うことなど、ありえはしないのだろうから。



 目を覚ますと、机の上に本が一冊置かれているのが、ぼんやりとした視界に入ってきた。


 寝る前に本なんか出しっぱなしにしたかな?


 そう思いながら眼鏡をかける。


 改めて本を確認すると、それは昨日寺に預けてきたはずの古本だった。


「ひぃっ……!」


 短い悲鳴を上げ後ずさる。


 同時に、あの声が再び耳元でささやく。


『お前はうとまれているよぉ〜』

『死んだほうが楽だよぉ〜』

『楽になりたいだろぉ〜』

『周りの人間もみぃ〜んなお前の陰口を言っているよぉ〜』


 その声に、心が乱される。


「や、やめろ‼」


 耳をふさいでそう叫んでも、声は止まらない。


『お前の父親はお前のことが嫌いさぁ〜』

『お前の母親はお前なんて産まなけりゃよかったと思っているよぉ〜』


 そんなことはない。


 家族関係はうまく行っているはず。


 父と母は再婚だが、自分のことはかわいがってくれているはずだ。


 しかしそんなことを言われると、どうしても不安がつのる。


『お前がいなくなればみぃ〜んな楽に、楽しく生きられるのにねぇ〜』

『お前が楽になりたいのなら手伝ってやるよぉ〜』

『なぁに、痛いのも苦しいのもほんの一瞬さぁ〜』


 自分は何にとり憑かれてしまったのだろう?


 本のことを思い出す。


 あの本の中身は、その昔、とある僧侶が化け物を封じたという、手書きの怪奇譚だった。


 本自体、古い時代のもののようで、日付を見た限りでは明治初期まで遡っていた。


 ただ、最後の数ページの字が、別人が書いたような字に変わっており、それがまた怖かったのを覚えている。


 そして、読み終わったあとに裏表紙と最後のページが、おかしなくっつき方をしていることに気がついた。


 そっと開いてみると、それは赤黒い、墨のような、べっとりとしたインクのようなもので書かれた、読めない文字がびっしりと書かれており、開いた拍子にところどころ紙がくっついたまま剥げたり破れたりしてしまった。


 本自体に、希少価値があるのか定かではないが、その時は本を傷つけてしまったことに、もったいないことをしてしまったという気持ちしかなかった。


 おかしなことが起こっているのはそれからだ。


 預けた寺から戻ってきた仕組みはわからないが、どちらにしろ、とても恐ろしいことが起こっていることには違いない。


 今日は母親に言って学校を休んで、放課後を見計らって、昨日の彼に連絡を取ろう。


 何か良い方法を知っているかもしれない。


 そんな淡い期待をいだきつつ、彼は布団の中で囁く声に耐えるしかなかった。



 いつもどおりの放課後。


 窓側の清司の席に、いつもどおり四人が集まっている。


 ただ、今日は太壱が、教室に誰もいないことをいいことに、何やら力を使う練習をしていた。


「なんだか水が扱えるみたいでさ」


 そう言って、指先にビー玉ほどの大きさの水球を出現させてみせた。


 それを、窓の外の誰もいない芝生めがけて放り投げる。


 そんなことを繰り返しているのだ。


 もちろん、康樹と充晶の目は釘付けになっている。


「いいな!オレも練習したい〜。でも朱夏の話だとオレの力「炎」だから、火事になったら困るもんなぁ」


 そう話す康樹は心底残念そうだ。


「そういえば、清司はなんの属性の力なの?あ、僕のは土って、玄冬が言ってたから、どっちにしろここじゃ何もできないんだけどね」


 と、充晶が質問がてら自分の力を話す。


「俺は風だとよ。見えねぇし、多分攻撃系だからやんねぇよ」


 そう返しつつ手元のスマートフォンに視線を落とした。


 と、そのタイミングでスマートフォンが着信を知らせる画面表示になる。


 見覚えのない番号に顔をしかめていると、


「もしかしたら、昨日の名刺渡した人かもしれないよ?」


 と充晶が言う。


 確かにそうかもしれない。


 そう思い、通話ボタンを押そうとした瞬間。


『主。「境界」が出来ておる』


 ポケットの中に入れてある玉が、念話を使って話しかけてきた。


「……どこにだ?」

『主が手にしている薄い板である』

「どうすりゃいい」


 そんな会話をしていると、三人からの視線が集まっていることに気づいた。


「何やってんだ?」

「早く出ないと、電話切れるんじゃないのか?」

「そんなに不安なら、僕が変わりに出ようか?」


 と、三者三様に言う。


「白秋が警告してきた」

「「「?」」」

「スマホの中に「境界」てのができてるらしい。正直どう対応するのが正解か、わからん」


 そう言って肩をすくめる。 


 と、


「ん?ああ、今誰もいないからいいよ」


 充晶が言いつつ、カバンの中から玉を取り出した。


 光を放つ透明な黒い玉は、机の上に置かれると、蛇の尾を持つ黒い亀の姿になる。


 大きさはペットショップにいる小さなリクガメくらいだ。


 その亀が


『お初にお目にかかります。玄冬と名を賜ったものにございます』


 しわがれた老人男性の声でそう言うと、三人に深々と頭を下げた。


 そして亀はこちらにその首を向け、続ける。


『白秋の主殿、今は火急。白秋なら「境界」の中の化け物と、相対することができましょう。ご命令をなさいませ』


 言われて、ディスプレイに再び視線を落とす。


 みると、画面の文字がすべて文字化けし、読めなくなっていた。


 これは確かに急いだほうがいい気がする。


 話についてこられていない二人はひとまず放っておいて、スマートフォンを机に置きつつ白秋の玉を取り出した。


「白秋、聞いてたな?できるか?」

『主の命とあらば』

「命令だ。俺達と電話相手の人間に影響が出ないように、化け物を抑えろ」

『御意』


 白秋は、言うと同時に虎の姿をとり、スマートフォンのディスプレイに溶けるように消えてしまった。


「——‼」

「だ、大丈夫なのか?」


 言葉にならない表情をして驚いている康樹はおいておいて。


 太壱の心配をよそに再びスマートフォンを手に取り、ディスプレイを確認する。


 文字化けは解消され、先程の番号が表示されていた。


 急いで通話ボタンをタップする。


「もしもし、柳谷です」

〈あ、やっと出てくれた!あの、昨日お世話になった平田です!〉

「ああ。その後どうだ?」

〈それが、昨日あれから家に帰ってすぐ近所のお寺に本を預けたんですけど、今朝、ぼくの部屋の机の上にあるのを見つけちゃって……〉

「どうにもならねぇか?」

〈助けてほしいです〉

「わかった。どこに行けばいい」

〈あ、えっと、近所に公園があるので、そこでいいですか?〉

「いいけど、お前んちどこだよ?」

〈あ、すいません。東町の五丁目です。そこにミサワ公園っていうところがありますから、そこで待ってます〉

「わかった。行くまで待ってろ」

〈はい〉


 通話を切る。


 周りを見ると太壱以外、意外だという表情をしていた。


「清司の電話応対、普通だった……」

「即決なの……意外……」


 その発言に内心舌打ちをしながら、三人に


「依頼だ。行くぞ」


 と声をかけ、席を立った。


 話が通じる化け物なら話し合い。


 話が通じない相手でも、太壱が封印してしまえばことは済むだろう。



 主である清司から命令を受け、世界の境を超え、境界に入る。


 獣の目を開くと、そこは無限の広がりを感じさせる真っ白な空間だった。


 彼自身、化け物が作り出した境界に入り込むのは初めてではない。


 見慣れた光景だった。 


 と、そこに影を落とすように黒い存在が目に入った。


 見た目は人間の女の姿をしており、虚空を見上げ、何やらブツブツとつぶやいている。


 内容を聞き取るに、それは人間が人間を呪うときに使う呪詛だった。


 あれを止めれば、ひとまずは主の命を達成できるだろう。


 そう考えると、白秋は猛スピードで女に近づき、女の喉に噛み付いた。


 が、女は悲鳴を上げるでもなく、目線を白秋に移すと


『お〜ま〜えぇ〜邪魔はゆるさぬよぉ〜』 


 そう言って、ぬるりと体をくねらせ、白秋の牙から逃れてしまった。


 女は距離を取ると口から青い炎を吐き、自らを覆い尽くす。


 それが消えると、そこにはそれまでの女ではなく、女の皮をかぶった、緑色の鱗を持つ大蛇へと姿を変えていた。


 裂けた口からは、ちょろちょろと蛇特有の細長い舌を覗かせ、感情のない爬虫類の瞳でこちらを見ている。 


『あぁ〜生意気だぁ〜式のくせに生意気だぁ〜!』


 そう言いながら、こちらめがけて青い炎を吐きかけてきた。


 ごうっという炎の音を聞きながら横に素早く避けると、蛇へ突進。


 蛇の腹めがけ、勢いのまま頭突きをお見舞いすると、蛇は一瞬姿勢を崩し、炎を吐くのをやめる。


 その隙をついて、虎の太い前足で、蛇の頭を押さえ込んだ。


 とその途端、真っ白い空間に歪みが生じる。


 顔を上げると真上の虚空に窓ができていた。


 そこから現世うつしよに逃げるつもりか。


 ここが、主が使っていたあの板を場とした境界であるならば、出口もあの板の先に繋がっているに違いない。


 白秋は四肢を使って蛇を押さえつけつつ、虚空へ。


 あの窓の先の空間へ向けて叫んだ。


『電話とやらの持ち主よ!今すぐ電話から離れられよ‼』



 東町まで走って五分。


 スマートフォンのマップを頼りに目的の公園を見つけた。


 後ろから三人がついてきているかを確認する間もなく、公園に駆け込むと、平田がすでに待っていた。


 が、様子がおかしい。


 スマートフォンを手に持ちおろおろとしている。


 よく見ると、スマートフォンのディスプレイから、通常ではありえないような光が発せられていた。


 先ほど白秋が「境界」に入ったときと同じ光だ。


「平田‼」

「柳谷さん!」


 清司は走る勢いを殺さず平田に駆け寄り、有無を言わさずスマートフォンを取り上げると、急ぎ離れて地面に置いた。


 平田が抗議の声を上げる間もなく、スマートフォンのディスプレイの光が強くなる。


 するとそこから声が発せられた。


『電話とやらの持ち主よ!今すぐ電話から離れられよ‼』


 白秋の声だ。


 さて、何が出てくるのか。


 清司はある程度の覚悟を決めて、白秋に命令を下す。


「白秋!そいつをそこから引きずり出せ!」

『御意』


 直後、画面から大きな虎の前足がにゅっと現れる。


 それを皮切りに、薄緑色の縞を持つ白い虎が、何か大きな緑色の長いものを咥えて出てきた。


 虎はそれを数回地面に叩きつけるように振り回すと、ぺっと放り投げる。


 投げられたものに目をやると、それは女性の上半身と、下半身は黒光りする鱗を持つ緑の蛇の化け物だった。


『痛い〜痛いよぉ〜許さぬよぉ〜』


 そう言って上体を起こす。


『男はぁ〜なぶり殺しにしてぇ〜食ろうてやるぅ〜。女はじわじわとはらわた食ろうて役にたてようなぁ〜。許してはやらぬよぉ〜』


 振り乱した長い黒髪。


 その顔面は半分崩れ落ち、蛇のものが見えているため、片目が蛇のそれになっている。


 一糸まとわぬ姿だが、所々がやはり腐り落ち、両腕はあるものの、骨が折れているのか、もとの形状を維持していない。


 右足は付け根からなく、残った左足も腕同様ぐにゃぐにゃの状態だ。


 ともすれば腐臭が漂ってもおかしくなさそうなほどだが、長い時間を経て蛇と一体化してしまっているのだろう。そのようなことはなかった。


 今まで色々なものを見てきたつもりだったが、ここまでおぞましいものを見たのは初めてだ。


 恐怖に縛られないよう握りこぶしを作り、全身に力を入れ、震えてかちかちと鳴りそうな奥歯を噛み締めてこらえる。


 若干の息苦しさを感じ、きっちりと着ていた制服の上着を脱ぎ、ベンチに放り投げた。


「あ……う……わぁ」


 後ろで平田が声にならない声を上げている。


 確かに、こんなものを見たら普通なら卒倒してもおかしくない。


 そう思ったときだった。


 ドサッという音がして思わず振り向く。


 思ったとおり、平田は目を回して倒れてしまった。

 

 と、後ろからバタバタと足音が聞こえる。


 追いついた三人が公園に駆け込んできた。


「はぁ!はぁ!清司!早すぎ‼」

「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜえっ、む、むりぃ」

「はぁ!清司!間に合ったか⁉」


 それぞれ肩で息をしながら言う。


 多分、自分の足がいつもより早い上に、体力的にも疲れていないのは、今現在白秋を使っているからだろう。


 それよりも、今は化け物に集中しなければならない。

 

 そちらに視線を戻しつつ三人に言う。


「充晶、出番じゃねぇのか?」

「あ、そうだね!」


 彼は若干バテ気味に答えると、その手に弓を出現させ、空に向けた。


 そして。


「守甲隔壁陣‼」


 言葉と同時に、目一杯弦を弾く。


 康樹の家の庭で見たときと同じように、光の矢が放たれ、五つに分かれる。


 一本は空中で静止。


 四本は公園の四隅に向かって突き刺さった。


 瞬時に光の線が結ばれ、壁が形成されていき、あっという間に隔離空間が出来上がる。


 と、自分の両隣に康樹と太壱が並んだ。


「あれが今回相手にするやつかぁ。初戦にしてはエグい見た目だな」

「あ、あれが化け物かよ……オレ、吐きそう……」


 それぞれの感想を聞きつつ、清司は一歩前に出る。


「あれは俺が相手する」

「おい、お前、白秋使う気か?」

 

 太壱が心配した表情で言う。


 『存在の譲渡』の心配をしているのだろう。


「……消さないやり方はわかった」

「けど……」

「あんな化け物、お前一人で相手できるわけないじゃん!」


 なおも食い下がろうとする太壱のセリフに割って入ってきたのは、吐き気から立ち直ったらしい康樹だった。


「逆に、俺達にぶっつけ本番でコンビ芸ができるってのか?」

「う……」


 そちらに目線をやってそう言うと、流石に返す言葉が浮かばないのか黙ってしまった。


 しかし、今はそれでいい。


 白秋が牽制しているので今の所動きはないが、何がきっかけで化け物が動き出すか、予測などできない。

 

「お前は捕縛の準備してろ。使うの初めてだろ?」

「わ、わかった」


 重ねて言うと、康樹は一歩下がって自分の武器を呼び出す。


「朱夏!」


 初めて見る康樹の武器は大小の双剣で、赤い柄の部分には二本の剣を繫ぐ鎖がついていた。


「た、タイミングみて、オレが勝手にやってもいいか?」

「康樹、おれが言うから待って」

「お、おう!」


 初めての実戦。


 緊張しているのだろう。


 康樹にいつもの勢いがない。


 太壱はそれを見越しているのだろう。


 康樹にいつもより優しく声をかける。


 と、太壱も蛇の化け物を睨みながら、


「で、お前が一人で行って、勝算はあるのか?」


 そう訪ねてきた。


「さあな。剣道の試合でもあるまいし、初めて見た化け物相手に、勝算もクソもあるかよ」

「それもそうか」 


 納得して、太壱も自身の武器を呼び出す。


「蒼春!」


 現れたのは、太壱が一番得意とする武器であろう薙刀だった。


 柄の部分は青く、幅が広い刀身には龍の彫り物が入っている。


「入れそうなら、おれも加勢するからな」

「……わかった」


 そう答えて、前へ進む。


 少しずつ、心のどこかで、何かが込み上げて来るのを感じる。


 あの化け物は、人を食い殺すと言っている。


 生きるために食うのではなく、自分の気を晴らすために殺すと言っている。


 それはとても。


 とても放ってはおけない、許せないことに感じる。


 恐怖はおさまっている。


 代わりに、何か違う感情が、心を埋め尽くそうとしている。


 化け物と睨み合う白秋の隣に立ち、静かに言う。


「白秋、やるぞ」

『御意』


 白秋は、所々に緑の装飾が施された、白鞘の日本刀になり、清司の左手に収まった。



 三人がやり取りを終えて、どうやらそれぞれの役割分担ができた様子なのを伺いつつ、充晶は、近くにあったベンチへと腰を下ろした。


 蛇の化け物——蛇女を最初に見たときは怖気が立った。


 本当にあんなものが存在したのかという、信じられない気持ちと、純粋に蛇女のビジュアルに対する生理的な恐怖。


 だが、意外にもすぐにその恐怖心はおさまった。


 自分が前に出ることはないという事実が、どこか心の中でこの状況に線を引いているのだろう。


 今はそれでいい。


 通常ではありえないようなことを、こんな間近で見ることができるんだから。


 それに、自分の能力では役に立てそうにないし、この結界を維持することのほうが大事だろう。


 結界自体は三人に言った通り、空間を隔離する能力と、目に見えない世界の住人の可視化と、こちらからの物理干渉を可能にする力がある。


 それに加えて、これは説明していないが、結界外からの干渉不可という能力と、外からの対象の不可視化という能力も備わっていると、玄冬は言っていた。


 要するに、一度結界を張ってしまえば、外からは入れないし、入ろうという気にもならない。


 外から見てもそこには誰もいないように見える。あるいは何もないように見える。


 そういうことだろう。


 なんて便利な力なんだろうと思う。


 色々とやりたい放題になるということじゃないか、とも。


 何をするかは特別思いつかないが。


 ともかく、今は遠目に見えるあの蛇女を閉じ込めるのと、自分たちが外から見えないようにしておけばいいということだ。


 ふと、すぐそばに見覚えのない、自分と同じ年頃の少年が寝転がっているのに気づく。


 もしかしたら、彼が清司と話していた依頼人だろうか?


 充晶は彼に近づくと、軽く肩をゆすって声をかけた。


 少年は少しうめき声をあげた後、ゆっくりと目を開く。


 と、充晶の顔を見て驚いたのか、ガバッと起き上がった。


「大丈夫かい?」

「だ、大丈夫です。えっと……」

「あ、僕は“何でも屋”のメンバーの一人。A組の東奥だよ」


 そう言って手を引き、ベンチに座らせる。


「ぼくはC組の平田です」

「きみ、あれを見たんでしょ?もしかして、グロ耐性ない人?」

「あー、はい……昔から苦手でして」

「で、なんであんなのに取り憑かれてるの?なんかやばいところ行った?」

「いえいえ!あ、でも、最近古本屋で古本を手に入れまして……」

「ほうほう。その本は?」

「あ!」


 そう言って、ショルダーバッグの中から、黒表紙の一冊の古い本を取り出した。


「柳谷さんに見てもらおうと思って持ってきてました。これです。この本を読んだら、おかしなことが立て続けに起こって、柳谷さんに助けられて……」

「ふーん。そう。本は読んでもいい?」

「あ、はい。でも文体が古いから、読むのに苦労するかも」


 気にせず本を受け取り、ぱらりとページをめくる。


 昔の紙の、今にも崩れそうな、それでいて意外にもしっかりと芯のある独特な和紙の手触りを感じながら中身を確認していく。


 文章は、不思議と充晶にも読めた。


 内容は、パッと見には化け物退治の怪奇譚。


 そういうことがあると構えて読めば、相対した化け物の対応のしかたと、封印のしかたを事細かに書いた記録だった。


「随分とヤバイものなんじゃない?これ。太壱!」


 読みながら感想を述べ、同時に少し離れたところにいる太壱を呼ぶ。


 太壱なら、この手の古いものがわかるかもしれない。


「どうした!」


 駆けつけた太壱に本を見せ、共に読み進めていく。


 最後の数ページは書き手が変わったのか、字体が違っている。


 そして、最終ページだけ、無理やり開いた形跡があり、そこは読めない文字が赤黒い液体を使ってびっしりと何かが書かれていた。


 乾かないうちに閉じたせいでくっついていたのを、無理やり剥がしたように見える。


「……これは……」

「これ、最初からこうなってた?」

「いえ……気になって、ぼくが剥がしちゃいました」


 そう言った平田に対して


「バカ野郎!これは……これはあの化け物を封印してた呪符だ!」

「「えぇー⁉」」


 太壱の言葉に、二人は驚きの声をハモらせた。



 封印の呪符の存在を確認して、もう一度中身を読み返す。


 あの化け物が、どれだけの被害を及ぼしたか。


 どれだけの人間を食い殺したか。


 退治するにあたって、何をどうしたのか。


 封印するために、何を犠牲にしなければならなかったのかが、事細かに書かれていた。


 中身が読めたのは、おそらく書いた人間が、先のことを考えてそういう術を施しておいたのだろう。


 古い書物には、そういったことが稀にある。


 退治の方法は、この本の著者——退治した当人だろうが、その人物が直接術で縛ったと記されている。


 しかし、その後が問題だった。


 退治した後と、封印されるまでの記録。


 その文章に、太壱は焦りを覚える。


 内容に間違いがなければ、このまま清司を戦わせるのは、非常にまずいことだった。



 白秋を手に、意識を集中させ、呼吸を整えると、自然と体が抜刀の構えを取る。


 剣道経験は長いが、白秋を手にするまで、真剣など触ったことがなかった。


 剣道と、真剣を使う居合道は違うものなので、もちろんなんの経験もない。


 しかし、体は自然と動く。


 姿勢を低くし、息を吐く。


 目の前の蛇の化け物——敵を打ち倒すことにのみ集中する。


 自然と周りの雑音が遠のいていく。


 自分の足が地面をとらえる感触。


 吹く風の向き。風の強さ。


 敵の呼吸。


 間合い。


 それらをとらえて、清司は一気に踏み出し、わずかな時間で距離をつめ、敵めがけて振り上げるように下段から抜刀。


 しかしそれは読まれたか、敵はぬるりと身を引いてかわした。 


 迷うことなく鞘を手放し、両手で柄を握り、前へ踏み込み、上段から振り下ろす。


 と、それまでぶら下がっているだけだった両腕が、その斬撃を受け止めた。


 がきん、という金属音がして、瞬時に後ろに飛び退く。


 見ると、女の腕が黒光りする鱗で覆われ、指先には鋭い爪が伸びていた。


『ああああぁ〜、お前はぁ〜なぶり殺しぃ〜』


 そう言って蛇とは思えない速度で突進してくる。


 片方の爪の一閃を刀で受け、もう片方の爪の刺突を、身をひねって躱す。


 敵の胴に、剣道では禁じ手の蹴りを入れて、無理やり間合いを取った。


 気がつくと、刺突を躱したつもりでかすったのだろう。


 頬に鋭い痛みと、温かいものが流れる感触がある。


 それを乱暴に手の甲で拭い、再び刀を構えた。


『いいねぇ〜。若い血はいいねぇ〜』


 言いながら爪についたであろう血をなめとる化け物。


 こいつは、こんなふうに笑いながら人間を殺すのだろう。


 清司は、湧き上がる感情に身を任せ、目の前の敵に切りかかった。



 康樹は、化け物と清司の攻防を目で追うことしかできなかった。


 火花が散りそうな激しい金属音と、聞こえる清司の怒声。


 時折見える清司の表情が、笑っているように見えるのは気のせいではないだろう。


 普通の笑顔ではない。


 眼光の鋭い目は見開かれ、口元は犬歯が見えそうなほど口角が上がっている。


 一言でいい表すなら、狂気的な笑みだ。

 

 太壱に相談したいが、彼は充晶に呼ばれて後方だ。


「これ、どうすればいいんだよ……」


 呼び出した双剣を手に、その場に立ち尽くす。


 それにしても、化け物というのはああいうものばかりなのだろうか?


 だとすれば、自分の考えは極甘だったと言えるだろう。


 清司が止めていたのは、こんな危険な状況に自分たちを巻き込まないためだったのだ。


 今更それを実感し、両足の膝が小刻みに震えるのを感じる。


 手にした武器と役割がなければ、今頃逃げ出していたかもしれない。


 そんなことを考えていると、隣から女性の声が聞こえた。 


『主は、術を使うときのことを思い浮かべるのに集中しな。思い浮かべたものが弱ければ、術はすぐに破られるよ』


 声の主は自分の玉の朱夏だ。


 契約のときは赤い炎をまとった巨大な鳥の姿で、本当に漫画やゲームでよく見る朱雀の姿だった。


 が、今は自分より大人の、長い髪に赤いチャイナドレスが似合う女性の姿で隣にいる。


 これは他の三人には見えているのだろうか?


 朱夏は自分の身長に合わせて少しかがみ、肩に手を置いて話を続ける。


『いいかい。集中を途切れさせるんじゃないよ。途切れた途端、全て崩れるからね』


 まるで、今の自分を落ち着かせるような声色だ。


 そうだ。自分がやりたいって言い出して始めたことじゃないか。


 ここで弱腰になってどうする。


 心の中でそう自分に言い聞かせる。


 大丈夫。


 きっとうまく行く。


 足の震えは、自然と止まっていた。



 太壱は、平田が古本屋で手に入れたという本を急いで読んだ。


 内容は実におぞましいものだった。


 “相対した悪しき蛇のあやかしは、今はこの身に封じている”


 “いつの頃からか山にすまふこのあやかしは、人里に降りては男を喰らいて気を晴らし、女子おなごを喰らいてその身とする、恐ろしき化生けしょう


 “これまでいくつの村や里が被害にあったのか。状況甚はなはだし”


 “我が術にて経本への封を試みるが叶わず、我が身に取り憑いた為そのまま封じる”


 “我が身も、少しずつ蝕まれつつあることを実感せり”


 “この身が蝕まれ、命尽きるとき、このあやかしは再び世に放たれるであろう。そうならぬよう、我が命を持ってこれを封じる”


 “これより記すはいにしえの禁呪なり。再び使われることなきことを切に願う”


 “まずは一人の協力者と、大量の墨を用意されたし。その墨を濃くとき、おのが身に流れる血を混ぜる。血の量多ければ良し。その液を用いておのが身の隅々に経を記す。これはおのが身に宿りしあやかしを出られぬようにするためである”


 “記したのち、七日七晩経を唱える。休むこと、食事をとること禁ず”


 “次に行うは、おのが身に流れし血を全て桶に集め、おのが身の屍を灰とし、それと混ぜ合わせたもので経を記す。記すものは長く残りしものであれば尚良なおよし


 “これをもって、我が身と共に永久とわに、悪しきあやかしを封じることとする” 


 ここから字体が少し変わる。


 “以下。僭越せんえつながら弟子の慶雲けいうんが記す”


 “我が師の術を引き継ぐこととする”


 “師が残した生き血と、師の亡骸を荼毘に付したのち、集めた灰と遺骨をよくすり潰し、粉末としたのちに血と混ぜ、馴染ませる。それを人の髪で作られし筆にて経を記し重ね、術の完成とする”


 “神経衰弱しんけいすいじゃく甚だし。師の跡継ぎにはなれそうにあらず。この書を里長さとおさに託し、旅立つこととする”


 そこで文章は終わっていた。


 ふうと息をついて本を閉じる。


 この本の最後のくっついていたページは、まさに術者の「死体」と言っても差し支えない代物だろう。


 太壱は考える。


 このまま戦い続けると、今度は清司がこの本の術者の二の舞いになる可能性が高い。


 そうなる前に、戦闘をやめさせなければならない。


 と、その時だった。


「ぅがっ‼」


 そんな声が聞こえ、後方を振り返る。


 見ると、清司が蛇の化け物に肩をえぐられ、血を流していた。

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