飛び去った天候の記憶

 3154年3月14日。実験棟の最深部にある部屋は、厚さ二十センチの耐圧ガラスに囲まれていた。私は天候の研究いや、予測を行っていた。あと一回。一回成功すれば実証される。気象学を大きく変える。


 ――災害が予知できるようになるかもしれない。シミュレーションが正確になるかもしれない。防災についての理解が深まるかもしれない。


 「これだけたくさんの希望がこの研究にはあるんだ。だからこそ実証しなければ。こんな戦時中でも終わった後。などにも使えるこの技術を…私で終わらせるんだ。もう二度と災害は起こさせない…」


 そうつぶやいた声も、実験級の天気が生み出す轟音の中に呑まれていった。目に映る先。その先では、嵐が巻き起こっていた。中では今台風が発生している。台風に関する実験を行っているのだ。これまでの手法より、より正確に行うことができる。台風の粒子の変化などを検知できるだろう。これにより正確なデータができるのだった。


 「この技術が近年増えている唐突な干ばつや洪水を検知できればいいのだが…」


 人工的に生成された大気が回転し、蒼い粒子が渦の中を踊る。まるで光そのものが風に乗って流れているかのようだった。


 粒子は風によって浮遊しており、風速が上がるたびに微細な輝きを放つ。青白い光がガラス面を反射し、壁にいくつもの影を刻んだ。


 実験室の床は微かに震えている。低い唸りが足裏を通して体に伝わり、心臓の鼓動と混じっていく。


 頭上では警告灯がゆっくりと回転し、淡い橙色の光が周期的に部屋を照らした。そのたびに、鋼鉄の支柱やモニターの縁がぼんやりと光を帯びる。実験者がやってきて言った、


  「実験室の結果が出ました。ここ1時間で最大瞬間風速50mの風が検知されました。気象庁のデータベースと照合を始めます…」


 空調の音、機器の作動音、雨滴がガラスを叩く音が重なり合い、まるで外の世界がこの小さな部屋を飲み込もうとしているかのようだ。しかし、ここには「外」など存在しない。


 この嵐は、過去の記憶。過去に起こっていた台風そのものだ。


 ――閉ざされた世界の中に作られた、模倣された天気。


 モニターには、リアルタイムで変化するデータが数列となって流れている。

 気圧、湿度、風速、粒子密度、磁場偏差。そのどれもが、緻密に計算され、微細なズレさえ研究者の手で制御されていた。数字の合間を縫って、緑色の適合率が点滅する。


 ――適合率・99.959%。


 白衣の袖に反射したその数値を見つめながら、博士は静かに息を吐いた。


 ――あの災害のときも、風はこんな音をしていた。


 思考の隙間に、そんな記憶が忍び込む。外ではない。記録でもない。だがこの「風」は、確かにあの日の音を再現している。天気の記憶。地球の記憶。博士の胸の奥で、長い時間が呼吸を始める。


 記録を書き込み、計測再開の旨を伝える。そうするとまた実験室は轟音に包まれた。風が吹き荒れ雨が降り注ぐ。ガラスを挟んだ向こう。そこにあるのは台風だった。天井付近で渦を巻き暴風と大雨を降らせている。


 「風が吹くたび、雨が降るたびに、あの蒼い粒子が揺らいでいる。あれは、天気の、いや地球の記憶そのものだ。」


 そう呟いていた。これまでのデータを元に続きを、天気の未来を再現するところは未だに研究段階だが、いつか使う日が来るのではないか。そう感じた…


 ガラス越しの嵐が一瞬、脈打つように光った。蒼い粒子のひとつが軌道を外れ、壁面センサーの前でゆらめく。その光は、蒼い宝石のように見えた。


 


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