第一幕 第二場 旅籠屋にて


一面銀白色の、浮遊感のある空間。その空間に浮かぶように存在するワイン色の肘掛け椅子が二つ。それらは適度な距離を置いて向かい合っており、ランツァウとレイヨールがそれぞれに腰掛けていた。

ランツァウは白いシルクのような光沢をもつ、襟の詰まった神官服を羽織っており、一方レイヨールは黒いベルベット素材の、胸元の開いた衣装に身を包んでいる。

ここは、彼ら二人が共有する精神世界であった。つまり二人は、水晶を通じて精神世界で互いに向き合っていた。精神世界でも、お互いの姿は王宮で会っていたそのままの状態を維持しており、ここでは誰に聞かれる心配もなく、安心して腹を割った話ができるのだった。



「・・・へえ、なるほどな。 俺はお前が、地底でも元気そうなんで、ホッとしたよ」


「ああ、ひとまず元気だ。 考えることが多すぎて、頭がパンクしそうなんだが」


「てかお前、国を治められてんのか?」



肘かけに体を預け、少し遠い目をするレイヨール。



「正直、実感はまだない。 この国はとてつもなく広いんだ。 今のところ周囲は、俺のやり方に賛同してくれるが、首都から離れれば離れるほど、俺の顔を見たこともない人々も多くいる。

そうなれば当然、反対派だって生まれるだろう」


「内乱が、怖えな」


「うむ・・・まあ、起きたらその時はその時だ。 全ては想定内だよ。

できる限りの情報収集と、それに基づいて、最低限の布石はしたつもりだ」


「まあ、成るようにしかならねえもんな。

でもお前のことだから、そういうことに抜かりねえのは分かってるよ」


「はは、どうだろうか。 俺は完璧な人間ではないよ。

うまくやれるように努力するだけだが。 あ、そうだ・・・」


「ん?」


「国を平定したら、地上のどこかの土地を買いたいと思っているんだ」


「土地を、買うのか? 買ってどうする?」


「そこを、地上と地下の会合地点にしたいんだ。 

地下から地上へ吹き抜けるような、大きな建物を建てる・・・」


「それってさ・・・」


ランツァウはぼりぼりと顎鬚をかいて、考えを巡らせる。



「地上の神殿との関係はどうなる?」


「神殿?」



レイヨールは小首を傾げて、興味深げにランツァウをみる。



「あの・・・俺だってこの精神世界の分野は、新参者だからよ。

だから、アマーリエから聞く限りのことしか分かんねえよ?

ただ、お前が王位に就く少し前あたりに、北のオヴァール地域の神殿を守る神官が殺されたことが分かってな」


「神官が、殺された? なぜ?」


「なんか、賊のせいらしい。 まだ調査中だが、後任の神官も立てられねえんだ。

周辺の治安も変わっちまって、うかつに手を付けられねえんだと」


「それは、深刻だな」


「うん・・・でよ、その神官が死んだせいで、地下との精神世界のバランスが崩れて、地上で見えないものが見えるようになったと」


「ふうん・・・それは、どんな?」


「ほら、お前やフレドグンディヒが乗っていた、つるつるした竜だよ」



鱗に覆われた、艶やかな竜。

たしかに、あのフレドグンディヒと共にリーゼンホーフ宮へやってきた竜たちは、地上のすべての人々を仰天させた。

ランツァウの言うことが正しいなら、すでにあの時から地上とのバランスが崩れていたことになる。

フレドグンディヒが来た日・・・つまり、レイヨールとキリが結ばれた日でもあった。

レイヨールの顔色に陰りがさしはじめた。



「ああ、あの子たちか・・・」


「あれは本来、地上では竜の姿ではなくて、馬、トナカイ、水牛、らくだ・・・とにかくそんな、地上でなじみのある獣の姿に見えるらしいんだ。

でも、バランスが崩れたせいで、竜そのものの姿が露出されるようになった」


「そうなのか・・・」



「ああ。 だからもし、お前が考えるような、吹き抜けのすげえ建物でも出来たら。

そのバランスがますます狂って、摩訶不思議な世の中になるんだろうな・・・」



そこまで話した時点で、ランツァウは言葉を失った。

なんと彼の目の前で、レイヨールの容貌が変化し始めたのだ。

その顔つきは次第に、成人男子らしい精悍さが失われてゆく。



「え、お前・・・なにを急に」



今やレイヨールは、少しだけ大人びた少年の顔つきになっていた。

黒いまつげに覆われた、大きな目がうっすらと潤んでいる。

ぱちぱちと瞬きをして、愛らしい少年はランツァウを見つめた。



「おい、レイヨール。 どうしたんだよ」


「・・・キリ様、どこにいるの」



その声は辛うじてテノールだが、まるで声変わりしたてのような、ぎこちない音程であった。ランツァウはびっくりして声をうわずらせた。



「えっ、ええ?! キリ様? いきなり何なんだよ?」


「・・・キリ様に、会いたい」


「どこにいるか分かんねえよ。 分かったら教えるからよ」


「うん・・・お願い」



金色の両の瞳から、涙がつつ、と零れ落ちる。

眉間にしわを寄せて困惑するランツァウ。



「それは分かったけど、見つけたらどうするんだよ。

多分キリ様のそばには、あのゼフィルがくっついているんだぜ?」


「ゼフィルはいらない、キリ様に抱きしめてもらいたいの・・・」


「なんだよ、それ! お前、頭がおかしくなったか?」



少年レイヨールの頬はすでに、涙でびっしょりになっていた。

ランツァウは懸命に、少年レイヨールをなだめにかかった。



「おいい・・・ひとりぼっちで寂しいのは分かるけどよ、いきなりそんなこと言うなんて、お前らしくないぞ。

ほらちょっと、別の話をしようぜ?」


「べつの、はなし?」


「ああ。 最近のイルフェリアの情勢なんだけどよ、お前だって興味あるだろ?」


「ああ・・・うう・・・今はいらない」


「なんで?!」


「キリ様のことだけ、考えていたいの」



もとに戻る気のない少年レイヨールの姿勢に、ランツァウは小さくため息をついた。



「・・・ん、それじゃあ分かった。

今日のミーティングは、一旦これで終わりにしよう。

お前がまともになったときに、また話の続きをしようぜ、な?」


「ん・・・わかった。 すまない、ランツァウ」


「ああ、いいよ別に。 またな?」


「キリ様、愛してる・・・」



そう言いながら少年レイヨールの姿は、二人の間に生じたまばゆい光に飲み込まれ、消えていった。



*******************



ランツァウの書斎。 ガウン姿、卓上の大きな水晶玉に片手を預けたまま、椅子から背がずり落ちかかった状態でランツァウは天井を仰いだ。



「だああ! 何なんだよ、あれはよぉ!」



するとその声を聞きつけたのか、書斎の入口の扉がうっすらと開き、アマーリエの金色の髪がゆらゆらと覗いている。



「アマーリエ?」



扉からひょっこりと顔を出したアマーリエは、少し困った顔で笑いかけた。



「あなた・・・レイヨール様でしょ?」


「おお、まさにその通りだ。 どうして分かった?」


「だって」



書斎にさらさらと入ってきた、丈の長い寝間着姿のアマーリエ。

可愛らしい乙女の姿にランツァウの顔が思わず緩む。



「私も水晶越しに、毎回、あのお姿にお目にかかるものですから」


「やっぱりそうなんだ。 あいつさ、何かの拍子にキリ様のことを思い出したらしいんだけど、急に全部が幼くなったんだよ」


「ええ」


「普通、そんなことってあるのか?! 話題によって精神が幼児返りするようなことって」



アマーリエは、ランツァウの向かいにある椅子をそっとひいて腰かけ、腕を組んだ。



「ええ・・・まれに、そういう人、いますのよ。 まれに、ですけど」


「なら、あいつはこの精神世界ではめちゃくちゃレアな存在ってことだ」


「ええ。 しかも、困ってしまうくらい可愛らしいですわね。 レイヨール様って」

 

「いやいや、俺の目には、お前の方が断然可愛いよ!」



さも当然、という風ににっこりと笑うアマーリエ。



「ありがとう、あなた。 でもね、あのレイヨール様は ”天然” ですわよ」


「なに? 天然って」


「天然の、人たらしってことです」


「人たらしなのか? あいつ」


「ええ」



椅子の背もたれに体をあずけ、大きくのけぞって見せるランツァウ。

困惑の表情を隠せずにいる。



「そんな・・・あいつは結構奥手なやつだぞ。 一体誰をたらしこんでるんだ?」


「キリ様に決まっていますわ」


「ああ・・・そういうことか!」


「私の見てきた限りですと、キリ様はあのお方が可愛くて仕方がなかったのですわ」


「ああ、うん・・・そうかもな」


「しかもレイヨール様は、ああいう切なそうな顔を、キリ様だけに見せるものですから、愛くるしさもひとしお、ですわね」



うんうん、とランツァウも納得したようにうなずいている。



「前から思ってたけど、レイヨールって、やる事成す事、ほんとにうまいんだよな。

時々こっちがイラッとくる位うまいんだよ。

でもよ、普通の目からみると、あのゼフィルの方が人たらし、じゃねえの?」


「ええ・・・ほほほほほ!」



突然、アマーリエは甲高く笑った。



「あのお方は、 ”人たらし” なんて可愛い言葉では言い表せませんわね。

だってあのお方は、伝説の ”闇の太子” ですもの」


「う・・・マジか。 それは事実なのか?」


「ええ、ほぼ、間違いありませんわ」



ぎょっとするランツァウ。その顔がみるみる青ざめる。



「いや・・・初見の段階から、なにか気味が悪い奴だと思っていたんだが。

まさか本当に・・・ ”闇の太子” は実在したんだな。 ゼフィルとして」


「その、ゼフィルという名前すら、きっと仮の名前でしょう。

色んな名前をお持ちなのだと思います。

おおかた何百年もそういう手段で、時の権力者たちに囲われて・・・

その存在を隠して生きてこられたのですから。

まるで ”淫売の大王” というか」


「なんだそれ・・・ ”淫売の大王” って」


「言葉の通りですのよ。

それにあまりに長命で、人間かどうかも怪しいのですから、

むしろ存在としては ”淫魔”(インキュバス)みたいなものですわね」


「うああ・・・やっぱり化け物だったんだな」


「ええ、だから、禍々しい空気を醸し出していたのですわ」


「うう、恐ろしすぎて、もう二度と会いたくねえ。

 あいつがインキュバスだったなら、キリ様は今頃・・・」


「ええ・・・でもね、ひとつ確信していることがありまして、

そこが、レイヨール様の ”人たらしぶり” のすごいところなんですのよ」


「 ”人たらしぶり” のすごいところ?」


「ええ。 レイヨール様は、ことキリ様においてのみですけど、

 ”闇の太子” と互角以上に渡り合っていたという点ですの」


「ああ、そりゃすげえや」


「ですから、人同士の相性ってとっても不思議で、

時に魔物の誘惑すら、たやすく超越するのですわ」



その時、扉から女神官のひとりが、盆にカップをひとつ乗せてやってきた。

アマーリエは大事そうにカップを両手で受け取ると、湯気の立つ中身をすすり始めた。

その姿を眺めて腕組みをするランツァウ。



「それ、ゼフィルの調合薬だよな」



アマーリエはカップを片手で指さしながら、少し恭し気に、夫の目の前で掲げて見せる。



「ええ、これは紛れもなく本物。 とても効果がありますの。

これを飲み始めてから、私は本当に、体の調子がいいんですのよ」


「なんか、複雑だな。 そんな魔法のような薬の調合を知っていたりして。

ツァンダーフィレの話によると、死んだ地底の王子フレドグンディヒとも、まるで友達みたいに親しく会話をしていたっていうじゃないか。

これって、ただのインキュバスじゃないだろう?」


「ええ・・・それこそが ”闇の太子” たる所以ですのよ。

長い年月の中で、あのお方が築き上げたものがすべて露見すると、それこそ天地がひっくり返るような、途方もないものが見つかるに違いありませんわ」


「・・・」


「あのお方は、ご自分の知識と技能が、諸刃の剣であることを熟知しています。

今頃、どこでなにをなさっているのでしょうね・・・」



そう言ってアマーリエは、カップの中の薬湯をじっと見つめた。



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うってかわり、ミューリンの旅籠屋。

イロナことキリはテーブルに大きな本を広げて、熱心に読み耽っている。

一方シルヴァンことゼフィルは、夕の舞台に備えて昼過ぎにはでかけるのが日課となっていた。



「ねえ、イロナ。 ぼくはきみのなんなわけ?」


「どうしてそんなことを聞く?」


「え? だってさ」



ゼフィルはふてくされてみせる。



「だってきみって、いつもぼくに命令ばかりじゃないか。

アルテンベルク城にいたときは、そりゃ、ギディオンの配下の者たちが良くしてくれてたけど、二人きりになった途端、ぼくはきみの下僕じゃないのに。

あれ買ってこい、これ持ってこいって、ぼくを顎で使いまくってさ」


「体が思うように動けないので、色々頼んだだけだ」


「だけどさ、それを当然に思ってるの?

ぼくはぜーんぶ、きみの言うことを聞いてるのに、きみは全然!

ぼくへの見返りとして、全然、愛を持って接してくれないじゃないか!」


「愛・・・どんなことをしてほしいんだ、お前は?」


「ちっとも、ぼくのことをほめてくれないし!」


「あれか? お前が自分を美しいだの、可愛いだのいうことに、賛同しろということか?」


「そうだよ、それもある」


「お前の自意識過剰な発言に賛同すると、お前はつけあがってうるさくなりそうだからだ」


「つけあがるって何だよ! 

ぼくは美しいから、いまこうやって、舞台で踊るだけでお金が生まれているんじゃないか。

ありのままのことを言っているだけだよ!」


「ああ、ありのまま、な。

お前は、私にほめられないと自尊心が保てないのか?」


「そんなこと、ないけど。

でも少なくともきみは、ぼくを尊重してほめるべきだよ。

だってそれなりのことをしているし」


「お前こそ、私に退屈しているからこそ、そんな文句を言うんだろ?」


「そうかもね! きみに退屈してるのかも」


「だったら、私を一人置いて、いなくなればいいじゃないか?」


「今、それを言うの?! そんなこと、きみは望んでるわけ?!」



おたがい、ほぼ同時にため息をついた。



「もう、やだ! ぼくはきみのことなんて嫌いだ!」


「嫌いでも、構わん。

お前がふてくされる理由が、私にはさっぱり分からん」


「なんだい、なんだい! きみって人は!」



ゼフィルはプンプンと腹を立てている。

手早く身支度を整えると、さっさと戸口に向かった。



「今日は、遅くなるんだから。 先に夕食をとっていて構わないよ」


「ああ」


「じゃあね、イロナ。 バイバイ」


「ああ」



本から目を離さないイロナを目の端で眺め、寂しそうに部屋を後にするシルヴァンだった。



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劇場の裏手にある、稽古場。

そこは大きな窓から西日が差し込む明るい部屋で、奥の扉の向こう、細い廊下を通じて楽屋へとつながっている。

美麗な舞踊家が主演を務めるこの演目も、あと数日で終わりを迎える。連日の舞台公演に、主役であるシルヴァンも少し疲れてはいたが、一番の疲れは踊りによるものではなく、出がけにイロナとの間で交わされた口論によるところが大きかった。

板張りの床にぺたんと立ち、そのまま体を曲げてストレッチを行う。彼の体は筋肉質でありながらも大変しなやかで美しい。彼がくるくると踊る姿を、いつも彼の補佐やペイントを担当する三人の女性が息をのんで見守っている。



「綺麗だわ・・・シルヴァン」


「あと数日でこの美しい姿が拝めなくなるなんて」


「悲しみで胸が張り裂けそうだわ!」



ふっと力を抜き、動きを止めるシルヴァン。彼の体をじっと見つめる視線をたどって振り向くと、穏やかに微笑みかけた。笑みを投げかけられた三人の女性は一様に同じ、ときめくような表情で瞳を輝かせた。



「皆さん、最終の舞台まで、あと幾日でしたっけ」


「あと五日よ、シルヴァン」


「ああ、もうそんなに月日が経ったのですね」


「ええ」


「名残惜しいわ」


「なにがです?」


「え、だって・・・ねえ」



三人揃っていじらしい表情で、もじもじとして言葉を探している。



「ぼくも、同じですよ。 あなたたちに会えなくなるのが」


「ほんと? シルヴァン」


「ええ、ほんとです。 だってあなたたちはとても綺麗だから。

ぼくは毎日、あなたたちに癒されているんです。 今もね」


「うそ・・・だって、あなたって素敵な奥さんがいるんでしょ」


「ブロンドの美女だってきいてるわ」


「ああ・・・」



シルヴァンは悲しそうな顔をしてうつむいて見せる。見る者によってはわざとらしい演技に見えるかもしれない。しかしその場にいる、彼を慕う女たちの目には、その心をとらえて離さない何かが見えていた。その演技だけで、魂を射止めるには十分だった。



「彼女は、ぼくのことなんて見ていないんです」


「え?! どういうこと?」


「なにがあったの?」



仕上げにシルヴァンは、裸の胸にごく薄いブラウスを羽織った。薄い生地が汗を吸ってたちまちしっとりと肌に張り付く。胸元をはだけさせたまま、筋肉のうねりや乳輪まで透けて見える。自身のあられもない煽情的な姿をじっくり見せるかのように、シルヴァンは女たちの前をゆっくり横切った。



「ああ、ぼくとしたことが、とんだ失言をしてしまった。

今のは、忘れてくださいね?」



自身の唇にそっと指をあてて見せる。その妖艶な表情と石榴色の瞳に、彼女たちの心は完全に掌握されてしまった。



「そんなこと聞いて、忘れられるわけないでしょ」


「そうよ! いくら妻でも、あなたを悲しませる女なんて、許せないわ!」


「ねえ、舞台がはねたあと、一緒にお酒を飲みましょうよ。 あなたを元気づけたいわ」


「私も! お話をききたいわ。 話せばきっと楽になるわよ」


「そうよ、そうよ! もうあと数日でお別れなんですもの!」



シルヴァンは少しだけ困った顔をして見せる。



「う~ん・・・どうしましょう」



彼はゆっくりと女たちの前を通り過ぎ、楽屋へ向かう扉を開けて歩いてゆく。女たちは濡れた彼の肩と背のラインをじっと見つめながら、彼に続いて稽古場をあとにするのだった。



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あくる朝の旅籠屋。キリは階段の足音が聞こえてきたとき、すでに起きていた。否、昨夜は寝ずにゼフィルの帰りを待っていたのである。昨日出がけに交わした会話は、キリにとっても罪悪感を感じるものであったため、ゼフィルが帰って来てから、キリは改めて彼に謝るつもりでいた。それが明け方まで起きていた理由であった。



ギイ・・・と扉が開くと、ふらりとゼフィルが入ってきた。そしてベッドにどっと倒れ込むようにうつぶせに横たわった。

彼の体から漂う、ある種の不快な臭い。キリは思わず鼻をならしたが、その音で、ゼフィルがちらりと横目でキリを流し見た。



「ああ、イロナ。 もう起きてたんだ・・・へえ」


「臭い・・・安物の香水の臭いと、汗かなんかのすえた臭いが混ざってる」


「ええ? 仕方ないだろ? ぼくは働いたの。 これ、労働者の臭いだから」


「はやく風呂に入れ」


「うるさいな、ぼくに命令するなよ」



そう言いながら、ごろりと仰向けに寝そべるゼフィル。

だらしなく胸元がはだけ、その皮膚に、怪我のような小さな赤い跡が見え隠れしている。

キリは介抱するつもりでゼフィルの衣服を剥ぐと、その赤い跡は体中、いたるところについていた。



「怪我なのか、これ?」



その問いかけに、ゼフィルはげらげらと大笑いした。



「あはははは! 見て分かんないの? 全部キスマークだよ」


「・・・」



ゼフィルは指を四本、宙に伸ばした。



「4P。 久しぶりにめちゃくちゃ羽目を外したよ。 ああ、楽しかった!

これだってさ、好きなだけつけて良いよって言ったら、あの子たち、本当に体中につけてくれたんだから。 笑っちゃうよ! あははは・・・」


「・・・女三人と遊んでいたのか」


「悪い? べつに、きみにどうこう言われる筋合いじゃないよね。

ぼくはきみの夫じゃないし、お腹の子の父親じゃないんだから」


「・・・」


「・・・だろ?」



キリはゼフィルから離れ、いつもの定位置である椅子に腰掛けて腕組みをした。

ゼフィルは仰向けに寝そべりながら、両腕の臭いをかいでいる。



「この香水の残り香だって、たしかに臭いけどさ、よくそんなことが言えたもんだ。

きみは、彼女たちダンサーの普段の給金が、どれほど少ないか知っているのか?

ぼくらの想像がつかないほど貧しいんだよ。

そんな中、腐らずに懸命に働いてさ! 享楽もみいだしてさ!

貯めたなけなしの金で、家族や恋人に贈りものだってするんだ。

きみが故郷で知った香りは、純度の高い最高級品ばかりだろ。

そんな高級な香水、どう逆立ちしたって、彼女たちが買えるわけないじゃんか!

こんな安物が、せいぜい関の山なんだよ!」


「・・・」


「彼女たちはあと数日だからって、ぼくに贈り物をしたいとまで言ってきたよ。

貧しいのに、なんてけなげなんだろう! ぼくは泣けて来ちゃったよ!

だから、『そんな物品はいらないし、きみたちの愛の気持ちがぼくには一番尊い』って言ってあげた。

そうしたら彼女たちは、惜し気もなく愛を与えてくれたってわけ!

そしてぼくは、自分の体を与えて、彼女たちをねぎらったってわけ!

それのどこが悪いっていうのさ!」


「・・・」


「きみとは大違いだよ! 結局きみは、どんなに死線をくぐっても、こういう生活に関しては、ただのお姫様なんだ!

そうして、そばにいる人間は、一生下僕なんだ。

ぼくみたいな人間は、きみの靴の泥を落とす粗い絨毯のような存在でさ・・・」


「違う!」



キリは大きな声でゼフィルの言葉を遮った。



「なに? いきなり大声出して・・・」


「おまえは、そんな存在じゃない」



むくりと起き上がり、ゼフィルはじっとキリの姿をみる。



「ならきみは、ぼくに理解させられるのか?

ぼくがきみの下僕でない、御大切な人間だって、ぼくに理解させてくれるのか?」



ゼフィルはベッドから離れて、戸棚からタオルを取り出した。



「納得できる答えをくれるまで、ぼくはきみを許さない」


「・・・分かった」



窓から差し込む朝日に照らされたゼフィルの裸の背には、赤い跡が無数についていた。



「・・・その体で、今日も舞台へでるのか?」


「は?」



タオルを肩にひっかけて、軽蔑したようにキリを見るゼフィル。



「ぼくの再生能力、知らないかい?

こんなキスマーク、せいぜいもって、あと一時間だよ。

ひとつくらい残しておきたいけど、無理だね」


「・・・昔、私の部屋を訪ねてきたとき、お前はバルコニーで生爪を剥いだだろう」


「ああ、覚えていたんだね。 あれも、寝る前には元通りだった。

ザクザクに体を刻まれたって、翌朝には綺麗に治っている。

それがぼくだ」


「そんな風に、傷つけられたことがあるのか?」


「・・・あるよ。 何度もね」



そう言ってゼフィルは、湯あみをするために奥の部屋へと消えていった。



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朝食をとるためにでていったきり、ゼフィルは部屋に戻ってきていない。おそらく夜まで戻らないだろう。

身支度をして朝食に出てゆく彼の姿を眺めていたが、体についたキスマークは、彼の言った通り綺麗に消え失せていた。おそらく昨夜それを付けた女性たちも、今日の彼の姿をみてさぞかし驚くことだろう。彼と過ごした時間は夢の中の出来事だったのだと勘違いするかもしれない。


キリの心はうち沈んでいた。

ゼフィルの気持ちを傷つけた。どんなやり方であっても、彼はキリを助けてくれていたのに。そんな彼に対して、自分の置かれた立場もわきまえず、無遠慮にも失礼な発言をしてしまった。


気を紛らせるためにせめて何かをしたいと思い、キリは旅籠屋の一階に下りて行った。

そこでは、旅籠屋の主人・・・頭の少し薄い、実直そうな中年男が忙しく立ち働いていた。そしてその妻と思われる女性が、テーブルに座ったゲストに茶を運んでいるのが見える。この旅籠屋で軽食も取れるのだということを、キリは初めて知った。


もともとキリとゼフィルの二人に、向かいのレストランで食事を提供することを掛け合ってくれたのは、この旅籠屋の主人だった。

おそらくだが、二人を町のゲストとして尊重し、自分たちが用意できる軽食ではなく、ちゃんとしたシェフによる料理をとってもらおうと思ったのだろう。初めて、町の彼らに愛されていたのだと気付き、奥ゆかしい配慮に感謝の気持ちが湧き起こった。

キリは、主人を呼び止めた。



「ご主人、なにか私が手伝えることはないか? 少し、暇なのだ」


「ああ! あなた、シルヴァン様の奥様ですね? お加減はどうですか?

歩くのもきついでしょうに、お手伝いなんてわざわざ・・・」



すると、主人の妻がキリに近寄って椅子をすすめた。



「どうぞ、イロナさん。 お座りください」


「あの、なにか手伝いがしたくて、ここへ降りてきたのだ」


「そうはいっても、もう臨月に近いのですから、立ち仕事はお体に障ります」


「でも・・・」



結局すすめられた椅子に一旦座るキリ。

旅籠屋の妻がハーブティを持ってきてテーブルに置く。



「どうぞこれ・・・赤ちゃんの調子はどうですか?」


「ああ・・・よく動く」


「そうですか、元気でいいですね」


「そなた達に、子供は?」


「あの、欲しかったのですが、残念ながらできなくてね。

十年がんばったのですが、今はもう諦めました」


「そうか・・・それはすまぬ事を聞いてしまった」


「いいえ、いいえ。 では、ゆっくりしてくださいね」



そういって妻は笑顔をみせて奥へ下がって言った。

キリはカップのハーブティを少し飲み、そのあと1階のフロアを見学しようと、壁に沿って歩き、奥の壁に掛けられた絵画や置物などを興味深く眺めていた。

その置物の数々を眺めていると、気が付いたことがあった。

どうやらこの旅籠屋は、ゼフィルが踊っている劇場と密接な所縁があり、これまで公演のためにこの町ミューリンに呼び寄せた、特別な歌手や舞踊家などの芸術家を宿泊させてきた歴史があることが分かった。

そしてここへ長期滞在した芸術家たちは、誰もが皆、サイン入りのなにか品物を置いて帰ることが習わしになっているようで、それらがこの旅籠屋の歴代記念品として、キリが丁度今眺めている、壁のショーケースに飾られているのだった。



「これは・・・我々がここを去るときに、なにを彼らに残したらいいのだろう」



ゼフィルに負担を強いている今、せめてそれくらいは自分が考えなくては、とキリは心に決めた。


するとその時、戸口で騒々しい物音が聞こえた。カウンターで、男二人と旅籠屋の主人が言い争いをしていた。



「お客様の安全のために、お答えしかねます」


「なにが安全だ。 侯爵夫人のご用事の方が勝るんだよ。

ここにあいつがいることは、大方予想はついてるんだ」


「今は、どのゲストもいません。 どうかお引き取りください」



旅籠屋の主人が、柔和な顔を固まらせ、毅然と対応している。

見ると、対する男二人・・・その姿に、キリは見覚えがあった。

数日前の夜、楽屋にゼフィルを捕らえにやってきたごろつき二人組だった。

男ひとりは、主人の胸ぐらをつかんで、ごろつきらしく叫んでいる。



「部屋へ案内しろって言うんだよ。 痛い目みてえのか?」


「暴力はおやめください!」



主人の胸ぐらをつかみ、主人を脅迫する男。すると背後にすっと影が差し、突然男の背中に強い衝撃が入った。思わず息が詰まり、主人から手を離す。すると首筋に手刀でドスンと衝撃が走り、男は床に倒れ込んだ。

一人を床に転がしたのは、もちろんキリであった。立ち上がりながら残りの一人に振り向き、手招きする。



「来いよ・・・」


「あ・・・この女!」



もうひとりの男が懐から短剣を取り出し、キリに向かって突進する。しかし戦いそのものはてんで素人であることが悲しいほど分かってしまう。キリは余裕で男の腕をよけ、よけついでに男のみぞおちに強烈な拳を打ち込んだ。



「ぐああ!!」



二人目が倒れる。キリは男の手を踏みつけ、短剣を手からもぎ取った。



「ご主人、縄を」


「は、はいっ!」



主人が慌てて麻縄を持ってくる。キリが命令した。



「縄をかけよ」


「ええっ?!」


「縄をかけよと、言っている」


「あ、あの・・・どうやって・・・」


「知らぬのか。 なら、貸せ」



差し出されたキリの手に主人が縄を握らせる。するとキリは倒れた男の腕をつかんだ。



「みて覚えるがいい。 人を縛るときは、こうするのだ」



主人の目の前で、手際よくごろつきを後ろ手に縛り上げるキリ。

その後速やかに足も縛り上げる。ここまでの動き、たったの1分ほど。

縄の扱いのあまりの巧みさに、旅籠屋の主人はあっけにとられて言葉も出ない。

キリはごろつきが持ってきた短剣で縄を切った後、二人目の気絶した男に残りの縄を掛けようとして、ふと動きを止める。



「ご主人、覚えたか? 試しにやってみるか?」


「い、いいえ!!! 私には無理です!!!」


「そうか」



そしてキリは二人目の男に対し、またもや迅速に縄をかける。すると足の拘束を終えたところで男がわめき始めた。



「この女! 俺らをどうするつもりだ! ええ!」



するとキリは短剣を男の喉にあてがった。予想通りの悲鳴を上げる男。



「警告だ。 もう一度騒いでみろ。 指を一本ずつ切り落とす」



その言葉は非常に効果があったようで、ごろつきは血の気を引いて黙りこくった。

キリは旅籠屋の妻に向き直ると、穏やかにこういった。



「なんでも良いが、布はないか? 少し長めのをほしい」


「ええと、ちょっとお待ちください」



妻は奥に下がると、薄汚れた長い雑巾を手に駆け戻ってきた。



「これしかありません。 鍋を拭く雑巾ですけど」


「一向に構わん」



キリはその雑巾を縦に切り裂き、ごろつきの鼻をつまんだ。口が開いたところで瞬時にそれを咬ませ、慣れた手つきで猿轡をかける。

仕事を終えて立ち上がると、キリは旅籠屋の主人と妻に向き直った。



「この者ら、先日シルヴァンの楽屋に乱暴に押しかけてきた者たちだ」


「そ、そうなんですか・・・一体何が目的で・・・」


「彼らの上役を知るために、尋問が必要だ。 まとめて上へ連れて行く。

少し物音がするかもしれんが、迷惑をかけないようにするゆえ、安心せよ。

失礼・・・」



キリは男のひとりを肩に担ごうとしたが、途中で取り落として腹に手をあてた。

妻が心配して駆けよる。



「だめですよ! こんなお腹でいきんじゃ! 早産してしまいますよ!」


「うん、そうだな・・・おいお前、歩けるか?」



キリは転がされた意識のある男の胸の上に足を乗せて尋ねた。



「歩けるなら足の戒めだけ解いてやるぞ、どうだ?」



男はべそをかきながら懸命に首を縦にふった。



「では、今度こそ失礼。 なにか不足あれば呼ばせてもらうがいいか?」


「も、もちろんですとも! いつでもお呼びください」



旅籠屋の主人と妻が固唾をのんで見守る中、キリは立ち上がったごろつきのひとりの背中を小突いて先を歩かせ、もう一人の意識のない方は襟首をつかんで引きずり、悠々と二階への階段を上って行った。




*******************



日はあっというまに暮れて、夜になった。階段をぱたぱたと上がる軽快な音がする。ゼフィルが帰宅してきたのだ。

彼が扉に手をかけたところで、それは内側から開いた。キリが自ら開けたのだった。



「ただいま・・・」


「待っていたぞ」



ゼフィルは部屋を見て驚いた。拘束された男が二人、部屋の隅に横たわって震えているのだから。男たちは一様に服がボロボロに割け、肌が見えるところはみみず腫れができ、その顔もところどころ腫れあがっていた。

キリを見ると、その手には革のベルトが握られている。



「イロナ・・・きみ、なにしてるの?」


「お前の真似をしてみた」



キリは指を三本立てて見せる。



「3Pだ」


「違うでしょ!!!」



ゼフィルは思わず叫んでしまった。



「なんだよ、ぼくの真似って! やめてよね?!

ぼくがしたのは、ごく一般的なセックスだよ!

きみみたいに、相手を潰して拷問になんて、かけないよ!!!」


「拷問ではない、ただの尋問だ。

お前目当てにここへ押しかけてきたんだ、このゴミ共は・・・そうだろう?」



キリが近づくと、男たちは小動物のように、小さく縮こまって震えた。

キリは真剣な面持ちで、正面からゼフィルに向き直った。



「シルヴァン、私が悪かった。 お前に謝りたい。

私は結局、こうやって人を嬲ることしかできない人間だ。

お前のように、何でもできる人間ではないのに、思いあがった発言をしていた。

どうか・・・許してほしい」


「なんだよもう、きみって人は・・・あっはははは!」



ゼフィルは大笑いしながらキリを抱きしめた。



「だからぼくは、きみのことが好きなんだ。 きみは最高だ!

こんな不器用なきみを見てると、なんでもしてあげたくなっちゃうよ!」



キリの破天荒ぶりが大いに気に入ったらしく、ゼフィルはきわめて上機嫌になった。



「いいよ。 もうぼくも、へそを曲げないよ。 

だって、ぼくが好んできみのそばにいるんだから」


「お前が機嫌をなおしてくれて、よかった・・・」


「で? このゴミ共からは、何がきけたのさ?」


「うむ・・・」



キリはふたつに束ねたベルトをバチン!と鳴らした。震えあがるゴミ共。



「エルベン侯爵が爵位を得た事由から、その組織の内部構成まで、洗いざらい話してくれた。 やつらの構成員は、どうやら持ち前の本職の騎士はほとんどいないようだ。

傭兵を雇って、形だけの部隊を作り上げているらしい。 

このゴミも、このミューリンの者ではないんだと。

まあ、こんな弱い奴らが幅を利かせているくらいだから、たかが知れている。

ろくに動けぬ身重の私としては、助かったよ」


「ふふん。 これは、ぼくに売られた喧嘩だからね。 

ぼくが彼らを、最高にもてなしてあげなきゃいけないな・・・」



ゼフィルは美しい石榴色の瞳をきらきらと輝かせた。

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闇の太子Ⅱ ~Der Kronprinz des Finsternis Ⅱ~ 暁 ミラ @sonnen-schein1

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