1-2

 その日の午後、凌雪りょうせつは政務棟へ向かう途中で足を止めた。


 曲がり角の先から、男たちの声が漏れ聞こえてきたのだ。


「……玉座は……王太子一人のものではない……我らが立てるものこそ……」


 話をしている場所から離れているからか、声は途切れ途切れにしか聞こえてこない。


 ――もっと近くに……。


 凌雪は足音を立てないようにそっと近づいて息をひそめた。


 だがしかし、その声に聞き覚えがあった。あの、抑揚のない冷たい声――。


 凌雪は声の主の一人は宰相・魏嵐ぎらんであると直感した。胸の奥が氷のようにひんやりと冷たくなる。


「……宰相閣下の……血筋こそが……」

「……毒は……宴で……」


 凌雪の背筋を、冷たいものが走った。


 ――まさか、殿下を……!


 魏嵐と参謀官らしき人物が、政務棟の奥へと消えていく。凌雪は柱の陰から息をひそめてその姿を見送った。握りしめた手のひらには汗がにじんでいる。


 このことを誰に伝えればよいのだろう。しかし、自分が宦官である以上、果たして自分の言葉を信じてくれる人がいるだろうか。


 ――私は、一体、どうしたら……。


 庭園へと目を移す。開きかけた牡丹の花がふわりと風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。


 そのとき、凌雪は自分が太子中庶子になったのは、魏嵐の推薦によるものだったことを思い出した。


 ――もしや、私を中庶子ちゅうじょしにしたのは、殿下を監視するためなのか?


 しかしその考えを吹き飛ばすようにかぶりを振った。


 いや、違うはずだ。魏嵐からはそのような指示は一度も受けていない。


「魏嵐様の思惑がどのようなことであれ、私は殿下を命を賭してお守りする」


 宰相から推挙されたということで、東宮で危険視されていることを考えると胸の奥が痛んだ。だが、それでも――。


 凌雪は決意を固くして、東宮へと戻っていった。



 それから数日が経った。


 春の光が、東宮の高い天井から吊るされた水晶灯を照らしていた。凌雪は切れ長の目を細めて空を見上げる。白い肌にその光が落ち、さらに艶やかに見えた。


「今日もいい天気だ……」


 そう呟くと、床に目を落とした。春の光を浴びて輝いているが、足の裏からはひんやりとした冷たさが伝わってくる。


 ここ最近になって、周囲の視線が痛いほど刺さることに気がついた。挨拶をしても目を背けられ、ひどいときには睨みつけられることさえあった。


 それはまるで、凌雪が敵から送り込まれた刺客であるかのような扱いだった。


 ――そんなことはないのに……。


 ただひたすら、王太子の命を守ることを心に誓っているだけなのに、まわりにはそうは見えないのだ。これも、宰相の思惑の一つなのかもしれない。


 重い足を動かして、ようやく書房の控えの間に到着した。


「おはよう」


 靴音を響かせながら控えの間に入ると、机で筆を走らせていた韓文かんぶんが顔を上げ、形式的に拱手した。


「おはようございます」


 にこりともせずに、凌雪に挨拶を返したかと思うと、すぐに顔を伏せて再び筆を走らせた。


 韓文のそばを通り過ぎようとしたとき、舌打ちが聞こえた。


「チッ。中庶子様は呑気でいいよなぁ。大した仕事もないし」


 わざと聞こえるようにいうと、まわりの小宦官たちがくすくすと笑いだした。凌雪は顔面がさっと青ざめるのを自覚した。


 確かに重要な仕事はまったく任されていない。むしろ、小宦官よりも担当する仕事が少ない。凌雪の仕事は、書類整理や文書を蒼穹宮の政務棟に届ける程度にすぎなかった。


 凌雪はゆっくりと席に座り、机の上に積み上げられた書類の山を黙々と処理し始めた。本来であれば、王太子の側近として動くはずなのに。


 政務棟に持っていく書類を抱え椅子から立ち上がり、書房につながる扉の前を過ぎたとき、中から景耀けいようの声が聞こえた。少し低いがよく通る声。それは知性だけではなく威厳が伴っているようにも聞こえる。


 しかしその声は凌雪に向けられてはいない。書房の奥で李徳謙りとくけんが答えている。


「政務棟に行ってくる」


 小宦官たちは立ち上がることなく、ぞんざいに拱手をした。

 景耀の声を聞きながら、控えの間を後にして政務棟へ向かった。


 ひんやりとした感触が足の裏から伝わってくる。いつになったら殿下のお側に行くことができるのだろうと、そんなことばかり考えてしまう。


 李徳謙は景耀の重臣であるが、常に書房にいるわけではない。太子詹事たいしせんじは東宮の長官として、あらゆることを統括しなければならない。そのため、王太子の世話を担う中庶子という役職が設けられている。しかし、なぜその役目を自分に任せず、李徳謙自らがこなしているのだろう。


 考えれば考えるほど不思議だ。忙しいのであれば、任せればいいものを。


 ――それは、私が信用されていないからだろう。


 政務棟から急足で東宮の控えの間へ向かう。景耀から回される書類にはすべて目を通しておきたい。何かあったときに自分が知らなかったということはあってはならないのだから。


「戻った。何かあったか?」


 凌雪は控えの間に戻り、小宦官たちに声をかけた。


「お帰りなさいませ」と、小宦官の一人が無表情で答えた。


「特に変わりはございません」


 軽く拱手をして凌雪と目すら合わせようとしない。言葉にも心がこもっていない。


 凌雪は執務机に向かい、不在の間に積み上げられた書類の山を見て、思わず小さくため息をついた。国王の代理として務める景耀の仕事量は、凌雪の想像をはるかに超えていた。


 机に向かって、書類と格闘していると、控えの間の前の回廊に足音が響いた。そのとき、控えの間の扉が勢いよく開いた。


「中庶子!」


 急に呼ばれて凌雪はすぐに立ち上がり拱手をした。


李詹事りせんじ


「伝令がある。他のものは席を外せ」


「承知しました」


 小宦官たちは拱手し、深く首を垂れた。その様子は、凌雪に向けてする拱手とはまるで違っていた。それを見て、凌雪の胸の中がちくりと痛んだ。


 皆が退室して扉が閉められると、李徳謙は凌雪に向かって冷たい目を向けた。


「殿下がお呼びだ」

「えっ?」


 凌雪は急なことに驚き、目を見開いた。中庶子になり、今まで景耀から呼ばれたことなど一度もない。


「そ、それは……」

「先ほど、東門から不審な書状が届いた。殿下は、お前にも見せると仰せだ」

「東門から……。それはどちらからの書状なのでしょう?」

「さあな。それをお前にも見せるとおっしゃっているんだ。自分の目で確かめてみたらどうだ」


 李徳謙は目を細めてニヤリと笑った。


「どうやら殿下は、宰相の差金できたお前がどれほど使い物になるのか、試されるつもりなのだろうな」

「……っ!」


 控えの間の空気が一瞬で凍りつく。李徳謙は凌雪を見下して、さらに言葉を続けた。


「今回は殿下が直々に命じられたことだ。今後、軽々しく近づくな。お前の居場所はこの控えの間だということを忘れるな」


 その声が耳に届き、凌雪は首を垂れるしかなかった。しかし、胸の内には熱い炎が燃え上がっていた。


 ――今回の書状がどのようなものかはわからないが、殿下をお守りするのが私の役目だ。


 凌雪は李徳謙について、書房の扉へと向かった。


「殿下、中庶子凌雪を連れて参りました」


 李徳謙が中にいる景耀に声をかける。


「入れ」


 澄んだ声が中から返ってきた。凌雪は書房に入るのはこれで二度目であるが、心臓が破裂しそうなほど脈打っている。李徳謙が扉を開けて書房に入る後ろにピッタリとついて足を踏み入れ、すぐに拱手を行った。


「中庶子凌雪、参りました」


 深々と頭を下げ、ゆっくり顔を上げると、一瞬、景耀と目が合った。その瞳には警戒心と冷ややかさが浮かび、疑いの色がはっきりと見てとれた。


 しかしその一瞬、瞳の奥に影を見たように感じた。


 ――殿下は、今回のことをとても不安に思われているのでは……。


 だが景耀の表情からはそのような怯えなど一切見て取れなかった。


 景耀はすっと凌雪へ向けて書状を前に差し出した。


 それは一見すれば普通の文であった。地方の貴族からの治水事業に関する陳情書。凌雪は紙を広げてその文字を目で追った。


 内容は治水事業を施した村でいまだに洪水に見舞われているので、困っているというものだ。凌雪は目を細めて顎に指を這わせた。


 ――これ、は……。


 文書の頭文字が奇妙に並んでいることに気づいた瞬間、背中を冷たいものが走った。


 凌雪は紙面を見つめた。文頭の文字だけを拾うと――。


『初春の宴にて王太子を』


 背筋が凍った。これは暗号だ。


 凌雪はわずかに目を細め、書状を折りたたんだ。無言で景耀にそれを差し出した。


 景耀は目を細め、その沈黙の意味を測るように凌雪を見つめた。


「折りたたんですぐ黙るとは。随分肝が据わってるな。一体、何を見た?」

「殿下におかれましては、軽々しく人前で聞くようなことではございません」

「ほう、そこまで申すか。ならば申してみよ。ここには李徳謙しかおらぬ」

「殿下の御身にかかわることですので、殿下のお耳にのみ……」

「申せ」


 凌雪は景耀に拱手をしてそっと近づいた。手のひらを景耀の耳のそばに当てて見たことを小声で囁いた。


「……初春の宴で――」

「……っ!」


 凌雪の言葉を聞くと景耀は目を見開いた。


 ――私の腹は決まった。殿下を命懸けでお守りする。


 凌雪は控えの間に戻り、執務机へ向かった。席を外していた小宦官たちが次々に戻ってきて、冷ややかな目で凌雪を見る。


 書房の扉が開き、李徳謙が大股で凌雪に近づいてきた。肩に手を置かれる。その手に力が入ったかと思うと、耳元で囁いた。


「何を見たのか知らんが、調子に乗るなよ」


 李徳謙の視線が突き刺さる。凌雪は返事をするでも頷くでもなくじっと机の上を見つめた。


 あれが本当なら、明日の宴では大変なことが起こる。いくら宰相の駒としか見られていないとしても自分がやることはたったひとつ。


 ――殿下の命をお守りするだけ。


 それだけだった。

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