第一章 邂逅と契約
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荘厳な宮殿の白壁は蒼空の下に輝いており、権威の象徴である一方、多くの人にとっては逃れることのできない牢獄のように感じられた。
その冷たさを
宦官の衣をまとい、
「殿下は長く持たぬやもしれぬ」
「次代は、宰相が選ぶだろう」
噂話に足を止めることなく、凌雪は静かに回廊を進んだ。
自分は身分が低い。しかし、与えられた役割はただ一つ、王太子の命を守ることだ。
巨大な石段を登ると、左右にそびえる柱廊が果てしなく続き、光を浴びた石肌は淡い蒼銀色にきらめいている。正殿の扉は高さが十丈にもおよび、黄金の龍が彫刻されている。その壮大さの前に立つと、誰でも自分の小ささを思い知らされるだろう。
回廊は滑らかな石で磨き抜かれ、歩を進めるごとに足音が冷ややかに反響する。天井からは水晶の灯火が垂れ下がり、昼なお闇を払う光が壁面の浮彫を浮かび上がらせていた。
梅の花が散り、庭園には早咲きの牡丹がほころび始めている。だが宮廷を覆う空気は、春の陽気とは裏腹に張り詰めていた。国王は病に伏し、王太子の周囲には疑念と野望が渦巻いている。
この国はかつて青龍によって治められていた。そのため水が豊かで、「水の都」と呼ばれるほど美しい。大陸の中央に位置し、肥沃な平野を擁し、豊かな河川や湖のおかげで農業が盛んである。国境には険しい山脈と砂漠が連なり、敵を近づけさせない自然の要塞となっている。
そして、この国の王族は龍の正統な血筋であると言い伝えられている。その血統は代々守られ、後継者の体には特別な文様が浮かび上がるといわれている。王太子・
そのため、景耀は病床にある国王・
国民の暮らしは次第に豊かになり、次期国王への期待が膨らんだ。
「景耀様がこの国を納められる日が楽しみだ」
そんな声は蒼穹宮にも聞こえてきた。だがそれは、現国王の死を期待しているようにも聞こえる。
一方で、貴族からは多くの陳情書が届く。その中でも多いのは河川の氾濫についてだった。
水の豊かな蒼嶺国は大雨が降ると河川の氾濫が相次ぎ、洪水で水浸しになる地区が出てしまう。景耀が国王の代理として取り組んだのは治水事業であった。
宰相派は景耀の治水政策に対し「民に媚びすぎている」と批判を強めていた。洪水の被害が昨年、半分になったにもかかわらずである。宮廷内の権力争いは日に日に激しさを増していった。
「どの地域が洪水で困っているのか、詳しく調べてくれ。被害の大きさもまとめてほしい」
この声は、王太子殿下の声であろうか。凛とした力強い声が響く。
その言葉に答えているのは宰相・
「承知いたしました、殿下」
しかしその声には、どこか含みのある不穏な響きがあった。
――魏嵐様はこちらにいらっしゃるのか。
凌雪はそのまま、政務棟の宰相執務室へと向かった。
*
「王太子殿下はどちらに?」
太子中庶子・凌雪は回廊にいた宦官に尋ねた。
「太子殿下は今、東宮の書房にいらっしゃるはずです」
「ありがとう」
凌雪は丁寧に礼をいうと、先を急いだ。
東宮書房の控えの間で足を止め、凌雪は低く声を発した。
「太子中庶子・凌雪、殿下に拝謁いたします」
内に控えていた宦官がすぐさま声を張り上げる。
「殿下、中庶子・凌雪がお控えにございます」
「入れ」
扉の向こうから響いた王太子の声に、凌雪は静かに大扉を押し開けた。足を踏み入れると同時に、床に片膝をつき、深く頭を垂れる。
「殿下に謹んでご挨拶申し上げます」
するとゆっくりと景耀が顔を上げる。しかし、景耀は何もいわず、そばに控えている
「殿下、宰相閣下より新たに一人、中庶子として差し出されました」
李徳謙の声は抑揚なく、刺すように冷たかった。
「
景耀は眉をひそめ、その名を聞いた。
「名は?」
「凌雪でございます」
「……凌雪?」
凌雪は、深々と拱手して頭を垂れた。痩せた肩に刻まれた影、静かな眼差し。景耀は、その姿をどこか忌々しげに見下ろした。
「宰相の差し金か。……よかろう。だが忘れるな、中庶子。お前が私の目を欺くなら、その首はすぐに刎ね落とされるぞ」
「必要なときに呼ぶ。控えの間で務めよ」
李徳謙が長い髪を撫でながら控えの間を指差していった。
「承知いたしました」
凌雪は拱手をして控えの間へと下がった。
――所詮は宦官。それが現実か。
靴音が控えの間に反響する中、それに気付いた小宦官が、面倒くさそうに立ち上がった。凌雪より年配で神経質な面持ちをしている。
形式的に拱手で礼をしたが、その姿勢は浅く、儀礼的なものに過ぎなかった。
「……太子中庶子殿か。いやはや、立派なご身分で。私、
韓文は口元を歪め、不遜な口調でいった。
「まぁ、中庶子だろうが、ここではただの下働きと変わらぬさ。どうせ、李徳謙様にいいつけられた仕事しかできない。殿下のお側に立てるなどと思うなよ」
刺すような視線を感じたが、凌雪は黙ってうなだれ、何もいい返さなかった。その沈黙にこそ、中庶子としての誇りと決意が宿っていた。
どれほど決意を持っていても、景耀と直接顔を合わせることは許されていない。扉一枚隔てた先から、景耀の声がかすかに聞こえてくる。
凌雪は控えの間に用意されていた机に向かった。殿下の姿は、もう、見えない。
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