1-3
日が落ち始めると回廊の水晶灯に宦官が火を入れ始める。光が反射して天井と回廊を明るく照らし始めた。回廊を吹き抜ける風はひんやりとしていた。
書房前の石畳に、巨大な灯柱が据えられた。
高く掲げられた灯が夜気を照らし、遠くからでも一際明るく見える。
宦官たちは油を満たし、番の兵がその脇に立った。――明晩は、何かが起こる。
「
「さあな。何かお考えがあるんだろうよ」
「兵まで立たせるなんて……。大げさすぎないか?」
宦官たちの乾いた笑いが響き渡る。
いくらでも笑うがいい。何かあってからでは遅いのだ。その前にあらゆる手を尽くしておかねば、
「夜宴の準備もあるのに、仕事増やさないで欲しいよな」
「ははっ。中庶子殿も手伝ってくれたらいいのに」
宦官たちの声は控えの間にまで響く。靴音が遠ざかると、
控えの間に戻り、再び執務机に向かう。大扉の奥には景耀がいる。明日の宴を前に、どのような気持ちで執務をしているのか考えるだけでも、心が痛んだ。
景耀の側には
凌雪は書房の奥が気になり、筆を止めた。じっと扉を見つめていたそのとき、その扉が静かに開いた。
「中庶子、殿下がお呼びだ」
李徳謙が目を細めて低い声で呼んだ。一瞬、控えの間にざわめきが起こる。
「はっ」
凌雪は立ち上がり、拱手をして書房へと向かった。
「中庶子様、何かしでかしたのか?」
小宦官の笑い声を背中に浴びて書房へと足を踏み入れた。
「中庶子凌雪、参りました」
拱手をして深く首を垂れる。顔を上げると、景耀は椅子の背もたれに体を預けて、刺すような視線をこちらに向けていた。まるで凌雪を値踏みしているようだった。
「……お前、何者だ」
景耀は低く通る声で凌雪に問うた。
「わ、わたくしは……」
卑しい身分の宦官である。幼い頃、両親が食いぶちを減らすために王宮へ売り飛ばした。それ以来、この蒼穹宮で必死に働いてきただけだ。
それゆえ、何者だと聞かれても、ただの宦官としかいいようがない。凌雪はごくりと唾を飲み込んだ。
「わたくしは、殿下のお命をお守りするために存在しています」
今の自分の役割を伝える以外、何もない。拱手をしている手が小刻みに震えた。
景耀は目を細めて腕を組んだ。
「宰相の推挙できた宦官が、なぜ私の命を案ずる? 今日の昼のあの文も、お前が仕込んだことではないのか?」
景耀は不敵な笑いを浮かべ、凌雪を睨みつけた。その視線の鋭さに、思わず身震いをする。
「滅相もございません! わたくしは一切そのようなこと……」
「ではなぜ、あの文に隠されていたことがわかった? 宦官にはそのような高等な教育は施されていないはずだが」
「……っ! そ、それは……」
凌雪は言葉に詰まり、冷や汗が止まらない。
「やはり、いえぬことがあるのか」
景耀が豪快に笑った。その瞳の鋭いまなざしが、凌雪をとらえている。
「い、いえ。わたくしは……かつて書庫係をしていたため、数多くの文献に触れる機会がございました。上官もよくしてくださり、多くを学ぶことができたのです」
その直後、側にいた李徳謙が鼻を鳴らす。
「ふん、白々しい。宦官風情が何をいっても信じられるものか」
その言葉に凌雪は俯くしかなかった。
「まあよい。宰相の間者だろうが」
「わ、わたくしは宰相閣下からは何も……」
すると景耀はふっと笑みを漏らした。
「まぁ、正直にいうわけないことぐらいわかっておる」
景耀は静かに凌雪を見つめる。その瞳は氷のようにとても冷たい。その冷たさが部屋をも凍えさせるような感覚だった。
凌雪は手先が震えて冷たくなった。これほど信頼されていないとは思ってもみなかった。
「わ、わたくしは……殿下をお守りするために、ここにやってきました」
喉がカラカラに乾き、言葉がうまく出てこない。そんな凌雪を景耀は冷徹な目で見つめる。
「宰相の差金でやってきたお前の言葉など信じぬ。だが……、その身で示せるというのなら、機会はいずれ来るだろう」
凌雪は震える手で拱手し、深々と頭を下げた。
「命を賭して殿下をお守りします。たとえこの命が尽きようとも」
すると李徳謙が目を釣り上げて、急に怒鳴り声を出した。
「宦官風情が――」
殴られる――。そう思ったとき、景耀が静かに言葉を発した。
「黙れ。李徳謙」
李徳謙を制した景耀は目を細めて凌雪を見据える。
「お前の忠誠が真か偽か。私がこの目で確かめる。そのときを楽しみにしておるぞ」
凌雪は拱手をし、跪く。静かに、しかし一語一語を噛み締めるように述べた。
「殿下――この命は、すべて殿下のためにあります。塵にまみれた卑しき身なれど、この身が朽ち果てるその日まで、殿下の盾となりましょう。どんな闇も、どんな刃も、決して殿下に触れさせはしません」
この言葉を聞くと景耀は刃のような視線を凌雪に向けた。
「その言葉、忘れるな。もし違えるならば……即刻、その命を断つ」
その言葉を聞くと、李徳謙が眉をひそめた。
「殿下、このような宦官の言葉など信ずるにあたいしませぬ」
「黙れ」
「失礼いたしました」
李徳謙は拱手をして一歩あとずさった。だがその目には、ほんの一瞬、何かが揺らいだようにも見えた。まるで、景耀への忠誠と、別の何かとの間で揺れているかのように。
――李徳謙様は本当に、殿下をお守りする気があるのか……?
だが今はそれを確かめる術はない。凌雪にできることは、ただ――。
この誓いは主従の誓いなどではない。己の全存在を賭したものだった。
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