禁断の忠誠

海野雫

プロローグ 孤独な玉座

プロローグ

 蒼嶺国そうれいこく蒼穹宮そうきゅうぐう東宮――。


 深夜の書房で、王太子・景耀けいようは一人、盃を傾けていた。


 白酒が喉を通る。かすかに鉄の匂いがする――これは毒の匂いだ。最近、宴で命を狙われた出来事が脳裏をよぎる。


 ――また、命を狙われた。


 景耀は苦笑した。これで何度目だろうか。


 五歳の春を、今でも鮮明に覚えている。


 その朝、母・麗妃れいひが蒼白な顔で自分を呼んだ。侍女たちを下がらせ、扉に鍵をかけると、震える指で景耀の腹部をなぞった。


 へその下に、青い龍の文様が浮かび上がっていた。


 「龍の証」――蒼嶺国の正統な後継者にのみ現れる印。


 母の顔に浮かんだのは喜びではなく、恐怖だった。


「この印のことは、誰にも知られてはなりません」


 母の予感は正しかった。


 龍の証を持つ者は、高い確率で命を狙われる。


 当時、国王には二十を超える子がいた。景耀は年長の子の一人だったが、正妃の子ではない。それでも龍の証が現れた以上、正統な後継者となる。だからこそ――排除される。


 弟は池で溺死した。事故として処理されたが、額には打撲の跡があった。


 妹は薬湯に毒を盛られた。病死と発表されたが、侍医の一人が行方不明になった。


 異母兄は寝所で窒息死した。誰かに首を絞められた跡が残っていた。


 異母姉は政略結婚先で権力争いに巻き込まれ、逃げ場を失い、ついには自ら命を絶った。


 一人、また一人と消えていく兄弟姉妹。


 景耀だけが生き残った。それは、母・麗妃の必死の庇護と、幾人もの忠臣の犠牲のおかげだった。


 そして、母も毒を盛られて死んだ。


 犯人は捕まらなかった。正確には、捕まえることができなかった。なぜなら、背後にいる黒幕の力があまりにも巨大だったからだ。


 景耀は母の最期を看取った。苦しみながらも、母は最後まで自分を見つめ、「生きなさい」と唇を動かした。その瞳には、無念と愛情が入り混じっていた。


 十八歳になったとき、景耀は気づいた。


 国王の子は、自分一人しか残っていないことに。


 血で血を洗う継承争いの果て、景耀だけが玉座への道を歩むこととなった。しかし、その道は犠牲となった兄弟姉妹たちの屍で築かれていた。


 ――私は、家族の屍を踏み越えて王になるのか。


 窓の外を見る。春の星が冷たく瞬いている。


 父王は病床にあり、もう意識も定かではない。政務はすべて景耀が代行している。実質的に、すでに王も同然だ。


 だが景耀は知っている。


 王とは、孤独な存在だということを。


 信じられる者など、誰一人いない。今日の忠臣が、明日には裏切り者と化す。それが宮廷だ。


 母を失い、兄弟を失い、やがて父も失う。


 血のつながりは、すべて絶たれてしまう。


 ――そのとき、私は何を支えに生きればいいのか。


 ふと、脳裏にある場面が浮かんだ。


 先日の宴での出来事。あの夜、自分の命が危機に瀕したとき、身を挺して守ってくれた者がいた。


 宦官だった。名は確か――凌雪りょうせつ


 なぜあの男は、そこまでしたのか。


 宰相から送り込まれたという得体の知れない宦官は、普通なら信用できない存在だった。


 だが、あの瞬間の行動に計算は感じられなかった。


 ただ純粋に、自分を守ろうとした。


 景耀は盃を置き、立ち上がった。


 あの男の瞳を思い出す。命をかけた後でさえ、満足そうに微笑んでいた。まるで、守るべきものを守れたことが、何よりも嬉しいとでもいうように。


 ――不思議な男だ。


 景耀は身体の奥で、龍の証がかすかに熱を持つのを感じた。


 この印は、力の象徴であり、同時に呪いでもある。


 龍の血を引く者は、孤独を運命づけられている。


 代々の王たちは皆、孤独の中で玉座に就き、孤独の中で死んでいった。


 ――だが、本当にそうなのだろうか。


 景耀は窓を開けた。春の夜風が頬を撫でる。


 どこか遠くで、梟が鳴いている。


 亡霊たちの声が、風に乗って聞こえてくるようだった。


「お前も、いずれ一人になる」

「王座とは、血で購うものだ」

「信じる者は、必ず裏切られる」


 景耀は静かに窓を閉じた。


 ――違う。私は、過去とは違う王になる。


 血ではなく、信頼で国を治める王に。


 孤独ではなく、誰かと共に歩む王に。


 その「誰か」が誰なのか、まだわからない。


 だが予感があった。


 もしかしたら、その答えはすでに目の前にあるのかもしれない。


 景耀は書房を後にした。


 回廊に、一人の足音が響く。


 その先に待つものが破滅か救済か、まだ誰にもわからない。


 確かなのはただひとつ――青龍の血が、新たな時代を求めて脈動し始めたということだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る