第2話 ありふれた日常が奇跡よりも
全知領域(オムニソフィア)の光は、ゆっくりと色を失い、真白な“余白”だけが残った。
神代諒とヘレーネは、その中心に立っていた。世界は、二人の“選択”を待っている。
「諒」
ヘレーネの声が、低く震えた。
ヴェールを外した顔は、やはり泣いていた。けれど、その涙の奥に、確かな笑みが浮かんでいる。
「あなたは、まだ人として残れる最後の瞬間にいるの。今なら戻れるわ」
「でも……君は消えるんだろう?」
「ええ。でもそれは、私が“役割”を果たすだけのこと。君の世界に、私はいらない」
「そんなことない」
諒は、ヘレーネの手を握った。
彼の手の中で、彼女の手は、光の粒子のように震えている。
「人間としての君が好きなんだ。全知少女でも、皇帝の娘でもなくて。ひとりの女の子として」
「……馬鹿ね。そんなこと言われたら、消えたくなくなるじゃない」
ヘレーネが微笑む。
その笑顔は、かつて彼女が見たことのない、自分自身の表情だった。
「諒。あなたは、選べるわ」
「選ぶ?」
「“神”として世界を再構築するか、全てを破壊して無に帰すか。それとも――“人”として、私と一緒に堕ちるか」
諒は目を閉じ、深く息を吸った。
遠くで、無数の声が囁いている。救いを求める声、怒り、悲嘆、愛。
その全てが、彼の胸に流れ込んでくる。
「僕は――」
目を開ける。
そこには、彼を見つめるヘレーネの瞳がある。
宇宙の深淵を宿しながら、ひとりの少女のように震える瞳。
「僕は、人として神になる。君を、連れて行く」
その瞬間、光の“余白”が砕けた。
無数の世界が、諒の心臓の鼓動に合わせて再構成されていく。
都市、森、砂漠、海、星々、記憶、夢、祈り――すべてが溶け、ひとつの“宇宙”となって膨張する。
「……これが、あなたの世界?」
「いや、違う」
「違う?」
「君と僕が、これから作る世界だ」
ヘレーネの身体が淡い光に包まれる。
粒子となって崩れていく。
諒は、必死にその手を握りしめる。
「待ってくれ! 消えないで!」
「大丈夫。私、消えない。形を変えるだけ」
「形を……?」
ヘレーネは、光の粒となり、諒の胸の中へと流れ込んでいった。
その瞬間、彼の身体は、白い炎のように燃え上がった。
「ヘレーネ……君はどこにいる?」
胸の奥で、彼女の声が響いた。
「ここにいるわ。あなたの中に。あなたと共に世界を見たいから」
諒の背に、光の翼が生えた。
その翼は、神話の天使のようであり、同時に、原始の竜のようでもあった。
世界が、その姿にひれ伏す。
「諒――これがあなたの選択の力」
「世界を……変えよう」
彼は両手を広げ、指先から光を解き放った。
その光は、地球の海を浄化し、都市の戦火を鎮め、憎しみを溶かし、失われた命を芽吹かせていく。
「人類は愚かだ。でも、もう一度だけチャンスを与える」
その声は、彼自身の声であり、同時に、世界そのものの声だった。
胸の奥で、ヘレーネが囁く。
「あなたはもう、人ではないわ」
「わかってる。でも、人の心を持ち続ける」
光が爆ぜ、全てが白に溶けた。
■
――目を開けると、諒は病室にいた。
白い天井。白いカーテン。
そして、ベッドの隣に座るひとりの少女。
ヴェールをかけていない。
その顔は、普通の少女の顔だった。
でも、その瞳は、あの日の宇宙を宿している。
「……ヘレーネ?」
「ううん。私は“ヘレナ”」
「ヘレナ……?」
「ただの女の子よ。君と同じ世界に生きる、ただの人間」
諒は、ベッドの中で微笑んだ。
胸の奥に、あの日の光がまだ燃えているのを感じながら。
「世界は……?」
「もう一度、やり直せるわ。あなたが選んだから」
ヘレナは諒の手を握った。
その手は、温かかった。
「じゃあ……また、あの胸は……?」
「……ばか」
彼女は頬を赤くして笑った。
「胸なんかより、もっと大事なことを、あなたは知ったはずでしょ?」
諒は、目を閉じた。
世界はまだ不完全で、まだ続いている。
でも、その隣に、彼女がいる。
――全知少女と、覚醒した少年。
ふたりが選んだのは、破壊でも、支配でもなく、
“人として、神になる”ということだった。
(そして物語は、ここから本当の“始まり”へと進んでいく――)
■
朝。
諒は目を開けた。
「知らない天井だ……。そういえば宝くじ当てて、都内の高級マンションの最上階に引っ越したんだった」
窓の外はやわらかい光。鳥の声。どこか遠くのパン屋から漂う甘い匂い。登校中の学生たち、通勤中の人達。色んな音や色が聞こえた。
隣のベッドで、ヘレナが眠っている。
その寝顔は、かつて世界の頂点にいた全知少女ではなく、ひとりの若い女性のものだった。
ふと、彼は気づく。
ヘレナの胸が上下している。
規則正しい呼吸。
人間の温もり。
諒はそっと声をかけた。
「……起きてる?」
ヘレナは目を開け、ゆっくりと笑った。
「うん。起きてる」
「どう? 体の調子は」
「……不思議」
ヘレナは胸に手を当てた。
「この前まで、私は“食べない”ことも“眠らない”ことも、呼吸もしないことも、当たり前だった。でも、今は全部できる。お腹も空くし、眠いし、寒いし、温かい」
その瞳が、子どものように輝いている。
「ねえ諒。朝ごはん、食べてみたい」
「食べたことないの?」
「うん。ずっと“情報”として知っていただけ。匂いや味、口に入れる感覚は知らないの」
「じゃあ行こう」
諒は立ち上がり、手を差し出した。
「この世界で最初の朝ごはんだ。最後の晩餐の逆だな!」
商店街の端にある、小さなパン屋。
焼き立てのクロワッサンの匂いが漂っている。
ヘレナは、目を閉じてその匂いを吸い込んだ。
「……これが“匂い”」
「そうだよ」
パン屋の奥さんが笑顔で声をかける。
「おはようございます。おふたりとも、新婚さん?」
「えっ、ち、違います!」
「……似合ってるって言われるの、初めて」
ヘレナが笑った。
諒はクロワッサンとコーヒーを2つ注文した。
店の外のベンチに腰掛け、ふたりで紙袋を開く。
「どうやって食べるの?」
「こうやって、ちぎって……口に入れる」
諒が見せると、ヘレナも恐る恐る真似をした。
一口、噛む。
バターの香り、サクサクとした食感、ほんのりとした塩気。
ヘレナの目が見開かれ、やがて涙が浮かんだ。
「……美味しい……! これが、味……これが、世界……!」
その声は、神の讃歌のように震えていた。
諒は笑った。
「当たり前のことが、こんなに嬉しいなんてな」
「当たり前のことが、一番奇跡なのね」
ヘレナはクロワッサンを両手で抱えるようにして食べた。
口元にバターをつけて、無邪気に笑う。
その笑顔は、かつての“全知少女”にはなかったものだった。
昼過ぎ。
ふたりは川沿いを歩いていた。
風に吹かれる髪。光る水面。
「次は何をする?」
ヘレナが尋ねる。
「そうだな……“昼寝”とか?」
「“昼寝”って?」
「お腹いっぱいになったあと、日向で寝ること」
諒は芝生の上にごろりと寝転がった。
ヘレナも真似をして横になる。
雲の流れ。鳥の影。
人のざわめきが遠くに消えていく。
「……ねえ諒」
「ん?」
「空って、こんなに広かったんだ」
「そうだよ。君は見たことなかったのか」
「情報としては知ってた。でも、目で見るのは違う」
ヘレナの指が空をなぞる。
その指先に、風が触れていく。
「今度は、夕陽を見たいな」
「いいね」
「星空も。夜の街も。雨も雪も雷も」
「ぜんぶ、いっしょに」
諒は、隣で眠りかけているヘレナの髪をそっと撫でた。
ヘレナは、微笑みながら目を閉じた。
それは、かつて“神”だった少女が初めて味わう、ただの“昼寝”だった。
■
夕暮れ。
ふたりは川辺に腰かけ、焼きとうもろこしを食べている。その日は丁度祭りの日だった。
ヘレナの頬にはバターがついていて、諒が笑いながら指で拭った。
「……こんな時間が、いつまでも続けばいいのに」
「続けよう。世界の果てまで」
「次はどこ行こうか」
「温泉とかどう?」
「温泉……知らない」
「じゃあ決まりだな」
ヘレナは笑顔で頷いた。
その笑顔は、もう“神”ではなく、ただの女の子のものだった。
空には星がひとつ、またひとつ、灯っていく。
ふたりの新しい旅は、まだ始まったばかりだった。
『オムニソフィア―神を愛した少女―』 空花凪紗~永劫涅槃=虚空の先へ~ @Arkasha
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