袖口に沈む前に

あんころもち

袖口に沈む前に

 私がよじ登るようにして座ったカウンターチェアに、男はすっと腰を下ろした。西洋人の足の長さに驚きながら、私は薄味のオレンジジュースをストローで吸う。

「お嬢ちゃん、お酒は苦手?」

「えっと、十七だから、日本では飲んじゃだめなんです」

たどたどしい英語で返すと、男は笑って「いいね、日本は好きだよ」と言った。

 頭がもう帰ろうと言っても、心がそれを無視し続ける。夜のセントジュリアンは、酒とシーシャの匂いに満ちていた。薄暗い店内の空気に溶けこむように、私は男の語りを聞いた。フランス出身であること。妻と娘がいること。休日には本を読むこと。ここのワインは不味いということ…

 話の途中で、男は私の手を握り、さらにもう片方の手で私の耳元の髪を掬った。スーツの袖口から広がる気だるく重いバラの花香が、鼻を通って体中に行きわたり、拒むための言葉を探す私の思考力を催眠術みたいに奪っていく。

 店を出てタクシーに乗りこむと、私はウィンドウを開けて何度も鼻から強く息を吐いた。鼻孔に残るすべての匂いを捨ててしまいたかった。

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袖口に沈む前に あんころもち @616soda_moji

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