小説論

1 もうひとつの世界①




 小説とはなにか(ⅰ)。


 第一。小説とは文章である。とりもなおさず小説が「書かれた」ものであることに異論はないだろう。たとえば歌は、小説ではないだろう。それを文字としておこし、どこかに書きなぐれば小説になるだろうか。

 文章であるなら、それは小説であるのか。

 また、文章であることが小説の条件なら、文章になりうるものは小説になりうるのか?


 小説であることは、それ自体に何か意味をもたらすのだろうか。たとえば「それは小説でない」という言説には、おそらく彼らの言う通りであれば、なんらかの不利益を被ることが想定されているように思われる。


 小学生のころ、ひらがなの「あ」と「お」はよく似ていると私は思っていた。横の線と書き順など、共通点をみつけることができたからだ。しかし「あしたまたあおうね」と書くべき文章で「おしたまたおあうね」などと書くことは許されない。なぜなら「あ」と「お」は異なる機能・役割を持つからだ。


 多くの共同体は、家族といった所属団体の表示と、自己の表示と二種以上の名前を用いる。我々は「氏」と「名」をもつ。ひとつは自己とある一定の他の者たちとの共通点を示し、氏族とそれ以外を区別する機能をもつ。もうひとつは自己と他者とを識別するためのものである。


 これから小説そのものを語ろうと思うなら、私は小説のもつ機能、小説のもつ利益を語り、その区別が有意義であることを示さなければならないだろう。


 ✽✽✽


 小説を書く人々は、特に小説はああだこうだと志の高い人々は、「利益」という言葉をあまり好ましく思わないのではないだろうか(もちろんこれは筆者自身を投影した偏見で、そう多くはないだろう)。また利益追求と同様に、「政治的」であることも嫌われるように思う。また物書きで稼ごうという人の方が、より政治的であることを避けるかもしれない。

 これはサンプリングの誤りであり、政治や利益追求への嫌悪とは、現代の一般的志向でしかなく、それを物書きの傾向として取り上げるのは恣意しい的だという反論もあるだろう。


 評論というのが、恣意的な考え・意見を客観的に説明するものであるというなら、ここで恣意的であることはそれほど問題にならないかもしれない。ただ反論を踏まえ、かえって一般的にみてみよう。

 

 政治や、利益追求といった問題が我々の周り(つまり「現実」)に存在しないと言い張る人は少ないだろう。かえってこれらの問題がしつこく付きまとうからこそ、厭世的になり興味関心が無くすのであり、またはそういう主義主張を明け透けにするのはいただけない、慎むべきだというモラルが生まれてくる。現実に存在する問題を、つねに自分の傍に置いておく必要は無いと思うのではないか。誰にもプライバシーが必要だ。そして休息も。

 ある種の人々は、小説においそれと現実を持ち込むことに好意的でない。それは、単に彼らの私的空間であるからだけでなく、小説が現実と地続きであるというのはけっして自明ではないからだ。


 第二。小説とは虚構フィクションである。【続】

 



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