第6話 復活

セルドニア大陸 黒暦二百八年。


 魔王ザギオンがゆっくりと瞼を開けると、そこは古ぼけた小屋の一室だった。天井は煤け、木材は長い年月を経たのかひび割れ、かすかに湿った匂いが鼻を突いた。


ザギオンは深い思考に沈み込む。


(……何が起こった?

我は確か……勇者に転生魔法をかけて、それから……滅んだはずだ……)


すると、思考の奥底で、戦場の記憶が一気に脳裏を駆け抜けた。光の奔流、勇者ルシエルの瞳、最後に放った魔力の奔騰――すべてが霧のように曖昧に遠ざかっていく。


ザギオンは身を起こそうとした。だが、その時――。


(……な、なんだと?)


視線を落とした手は、異様に小さくなっていた。丸みを帯び、力のこもらぬ掌。どうあがいてもかつての大魔王の手ではない。


(か、からだが小さくなっている……?そういえば……声もうまく出せない……ぞ)


喉から漏れるのは赤子のようにか細い声だった。威厳も恐怖も伴わぬ、無力な鳴き声に過ぎなかった。


(……赤子になったのかっ!!それだけは間違いなさそうだ!何故だ!なぜだ!)


ザギオンは混乱し、己の存在を疑った。


(この愚か者……!我を誰と心得る!歴代の魔王も道を譲る、魔王の中の魔王――ザギオンだぞ!)


しかし返事はない。あるのは小屋の静寂と、木のきしむ音だけ。


(……誰もおらぬのか。いや、しかし……なぜこんな状況になってしまったのか)


必死に思考を巡らせる。


(!!……まさか、転生したというのか……?可能性があるとするなら、勇者ルシエル……あの時、我は確かに力尽きたはずだ。胸の奥で燃え上がる魔力が消失し、魔が我を飲み込もうとしていた――その後に、あの者が……転生魔法を、我にかけたというのか……?そんなことが……あり得るのか……?いや、ないとは言い切れない)


確信にも似た仮説が、胸の奥をざわめかせる。だが、それ以上にザギオンの心を支配していたのは、抑えきれぬ怒りそのものであった。


原初の闇――全ての混沌と悲劇の根源、己が運命を狂わせた存在。憎悪と復讐心が胸を締めつけ、血潮が騒ぐ。何としても討ち果たさねばならぬ、その思いが幼き身体に秘められた魔力を呼び覚まし、全身を震わせるほどの決意となって燃え上がった。


(次こそ屠る!絶対にだ!そのためなら何でもしてやる!待っておれ、原初の闇よ!)


赤子の喉から搾り出される言葉は声にならない。しかし、意思だけは燃えるように確かであった。


ザギオンは小さな手足を動かし、ハイハイを始める。床板の上をずり進み、やがて小屋の外へと出た。


目の前に広がるのは深い森。湿った土の匂い、鬱蒼と茂る木々。陽は高いはずなのに、枝葉に遮られて光は届かず、薄暗い。


(……ここは、森か?)


もちろん赤子の声では問いかけにすらならない。だが、心の中ではそう呟いていた。


やがて小屋へ戻ると、寝かされていた古びた布に腰を下ろした。その端に、かすれた文字が刻まれているのを見つける。


《ゼノ・ダークヴェイン》


(ゼノ……か……悪くないな。ザギオンの名はかつて世界を震わせた魔王の象徴。しかし今の我は赤子、力も声もかつての面影はない。過去の名に縛られても何もできぬ。ならば、この小さな体にふさわしい名――ゼノ・ダークヴェインを受け入れ、再び力を取り戻すまで、この名で歩み続けよう)


ゼノ・ダークヴェインが誕生した瞬間であった。


ゼノは決意する。まずは周辺の情報を集め、己の肉体を鍛え直し、魔力を制御できる体を作り上げる。


魔人は赤子であっても生命力が強く、生き延びるに足るだけの力を持つ。ましてや元魔王ともなれば、秘める魔力の総量は膨大だ。耐えうる器を作らねば、力に押し潰される。


(ならば、まずは基礎からだ……ハイハイでも構わぬ。筋肉を動かし、全身を鍛え、森を踏破する)


こうしてゼノは一ヶ月、休むことなくハイハイを繰り返した。


湿った土に手足を擦りつけ、苔むした岩や倒木に何度も叩きつけられ、痛みに声を上げそうになりながらも前へ進む。


小さな体は悲鳴を上げ、筋肉は炎のように焼ける。木の根を越え、急斜面をよじ登り、深い泥沼に手を取られながらも全身を鍛え抜く。


日々、腕や脚の骨が軋み、皮膚は擦り切れるほどだが、ゼノは止まらない。苦痛の中で魔力の感覚を掴み、体が少しずつ耐えられる力を身につけていく。全ては原初の闇を討つために。


結果、森の全貌が見えてきた。横二十キロ、縦十キロ。中央からやや東に小屋があり、北へ進めば森を抜けることができる。


だが、ゼノは首を振った。


(今の姿では不審に思われるだろう。赤子一人など、目立って仕方がない。……ならば決まりだ。十三歳まではこの森を拠点とする。それから三年旅をし、十六歳で冒険者となり、原初の闇を討つ!)


決意を固めたゼノは、やがて二足で立つことを覚え、戦闘訓練を始めた。魔界にも人間界と同じくモンスターが存在する。彼らを倒し、実践を積むことで己を鍛える。


武器は森で拾った細い鉄の棒。だが魔力を込めれば刃にも劣らぬ切れ味を発揮する。ゼノは毎日毎日、倒れるまで戦い続け、この森の魔王となった。


――――


――十三年後。


ゼノは旅立ちの時を迎えた。


装備は、これまで討伐したモンスターから奪った鎧。決して上等ではないが、身体に馴染んでいた。そして森の祭壇に突き刺さっていた一本の剣を手にする。


「……装備にこだわる気はない。問題は己の腕と力だ」


ゼノは北へ五キロ進み、やがて森を抜けた。広大な平原が広がり、その先――空は闇に覆われ、黒き竜巻が幾本も立ち上り荒れ狂っていた。


「なんだ、あの怪しい場所は……まるで『来い』と言っているようなものではないか!」


ゼノは高笑いし、闇の方へと歩み出した。踏みしめる大地がかすかに震える。


やがて姿を現したのは、闇に覆われた黒い人影。ゆらり、ゆらりと歩いていたが、ゼノに気づくや否や一気に襲いかかってくる。


「くだらん!」


ゼノは剣を抜き、一閃。人影は真っ二つに裂かれ、闇に還った。


更に進めば進むほど、闇は濃くなる。そして次に現れたのは――巨大なダークオークロード。全身が闇に侵食され、常軌を逸した禍々しい姿をしていた。


その瞬間、大剣が唸りを上げて振り下ろされる。振動が地面を伝い、周囲の木々が軋む。ゼノは右手一本で剣を抜き、真正面から受け止めた。

ダークオークロードの一撃を受け止めた瞬間、周囲に衝撃波が走る。剣先から魔力の閃光が迸り、空気が裂けるような音が響く。


衝撃は十三歳の肉体に耐えられるはずのないもの。しかしゼノの顔は涼しい。


「終わりだ!」


 全身の力を剣に込め、一歩踏み込み、力任せに剣を押し込む。剣は大剣ごと、ダークオークロードを両断。血と闇が渦巻き、砕け散った。衝撃で地面は裂け、魔力の余波が空気を震わせる。


「……まだまだだな」


己の非力を痛感しながらも、ゼノはさらに奥へ進む。


「我は限界を超えねばならぬ……いや、限界の限界をも超えねば……原初の闇を討つことはできぬ!」


その強い意志を胸に、ゼノは奥に進み、闇を狩り続けた。


――――


――三年後。


三年間、ゼノは眠ることも食べることもほとんどなく、ひたすら闇のモンスターと戦い続けていた。体は傷だらけで筋肉は悲鳴を上げ、魔力を使えば痛みが全身を貫く。それでも立ち止まるわけにはいかず、前へ進む。


だがある日、想像をはるかに超えるレアモンスター、ヒュドラが襲いかかり、万全でないゼノは容赦なく打ちのめされた。


深手を負い、全身に激痛が走る中、彼はやむなく安全な街へと退くほかはなかった。冷たい風が傷を刺し、胸には戦いの焦燥と悔しさが渦巻く。


ゼノはフラフラ街中を歩き、一軒の宿を見つけた。木造の建物から漏れる暖かな光に誘われ、疲れ切った体を抱えながら扉を押し開ける。


内部の静寂と温かさに包まれ、傷ついた体と心を癒す。森を抜け、終わりなき闇と戦い続けた三年――その間に味わった痛みや孤独、数えきれぬ戦いの記憶が、今、胸を締め付ける。


「闇と戦い出して、三年……元の力には及ばぬか」


ゼノは都市ベーゼルの宿でベッドに腰を下ろし、硬い枕に額を押し当てながら目を閉じた。

手や足、全身に残る戦いの傷、擦り切れた鎧の跡、魔力を使いすぎて硬直した筋肉。思い出すだけで体が痛む。


しかし、その痛みと共に、自分が歩んできた三年間の軌跡が鮮明に脳裏に蘇る。夜の森で、圧倒的な闇に押し潰されそうになった瞬間、奇跡的に生き延びたあの日。

あの時の苦痛と絶望――それを乗り越え、ようやくここまで来たのだ。だが、力はまだ不十分。まだ、まだ先は長い。


「!!……ということは、冒険者の資格が取れる時期がついに来たということ。だが問題が一つ。冒険者ギルドは人族の地にしかない。ならば最短距離で向かわねばなるまい」


ゼノは宿の窓から外を見やる。街の外れに続く道路は、南北に長く伸び、向こうにそびえるゼド山脈が見える。

険しい山を越えれば人族の大陸、そこに冒険者ギルドがあるはずだ。だが、そこまでの道のりは容易ではない。


ゼノは目を閉じ、地図を思い描く。


「今、我がいるのはセルドニア大陸南西部。東に進めばゼド山脈。その向こう側は人族の大陸。最も近い冒険者ギルドがあるのは――都市ゴドラ、か」


「決まりだな」


ゼノは一晩で傷を癒し、翌朝、都市ゴドラへ向けて旅立った。


――――


その道のりは途方もなく長かった。ゼド山脈を越えて人族の地へたどり着くには、当然、徒歩で進むしかない。

険しい山脈の尾根には絶えず冷たい風が吹き、踏み外せば命に関わる岩場や崖が連なり、モンスターたちがひそかに潜んでいた。


疲労と緊張が常に身体を支配する過酷な道程だ。しかし、冒険者として名を上げ、原初の闇を討つためには、ひと刻も無駄にできない。


「よし……走って突破するか……これも鍛錬の一環だな」


ゼノは全身の力を込め、呼吸を整える。山道の石や木の根に足を取られそうになりながらも、彼の足は力強く蹴り出され、重力と摩擦をものともせず疾走する。


周囲の景色があっという間に流れ去り、冷たい風が顔を打つ。痛みを感じても、ゼノは止まらない。


魔都市べーゼルを出発して一週間。

ゼド山脈を下り、谷間を駆け抜けるゼノの上空を、突如、巨大な影が通り過ぎる。


「……!?」


視線を上げると、そこには百年前と変わらぬ姿の邪龍ヴォイドが悠々と翼を広げ飛翔していた。光を反射する鱗、空気を切り裂く羽音、そして眼光に宿る古の威厳。ゼノは思わず息を呑む。


「あれは……邪龍ヴォイド……まだ生きておったか。あやつとも一度は真剣勝負を交えてみたいものだな」


谷間を駆け抜ける足元の岩や根に気を配りつつも、ゼノの視線は空を裂く邪龍に釘付けだった。その背中に、かつて自らと戦った者たちの記憶が蘇る。


――そしてさらに二日後


ゼノはついに都市ゴドラへと到着した。

大陸南部に位置するこの街は、他の地域に比べて気候が穏やかで、疲弊した身体を少しずつ癒すには理想的な環境だった。


街の喧騒を横目に、ゼノはまず宿屋を探し、長旅で乱れた荷物や装備を整理する。休息の合間に街の様子を観察し、人々の暮らしや冒険者の動向を観察する。そして疲れを癒しながらも、彼の目は早くも街の外れにある冒険者ギルドへと向けられていた。

目的はただ一つ、原初の闇を討つために、まずは冒険者としての第一歩を踏み出すことだった。


――――


扉の前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。肩を正し、躊躇なく扉を強く押し開く。


「我は魔王ザギ……」


口に出しかけた言葉に自ら驚き、慌てて咳払いをする。


「我が名はゼノ・ダークヴェイン、冒険者登録を願いたい!」


受付嬢は目を見開き、一歩後退した。


「え、冒険者登録ですね。では、こちらの用紙にお名前、住所、緊急連絡先、希望の職業をご記入くださいませ」


「うむ」


ゼノは受け取った用紙に丁寧に記入し、漏れなく書き終えると、静かに受付嬢に差し出した。


「ありがとうございます。確認させていただきますね」


用紙を手に取り、細かく確認をしながら受付嬢は説明用の紙を数枚取り出す。


「こちらが冒険者ランク制度と注意事項になります。中には生死に直結する危険な内容も含まれています。絶対に無理をせず、理解できる範囲で慎重に行動してください。無茶をすれば取り返しのつかない事態になります」


「よかろう」


ゼノは淡々と頷き、説明書に目を通す。すると、受付嬢はFランクのネックレスを取り出し、手渡した。


「これが冒険者の証です。最初はFクラスからのスタートとなりますが、Eランクの依頼まででしたらお受けできます」


ゼノはそれを首にかけ、静かに頷く。


「仲間とは、通常どのように出会うのだ?」


「このギルド内で探すこともできますし、街や酒場など、冒険者が集まりやすい場所で声をかけるのも良い方法かと思います」


ゼノは目を閉じ、心の中で考えを巡らせる。


(仲間を作る……陰キャの我にそんなことができるのか……いや、待て!!)


ここで、ゼノは重要なことを思い出した。


今は黒暦二百二十四年。

勇者ルシエルもまた、転生し、冒険者として活動している可能性が高いことを。


もし名を上げ続ければ、ルシエルと再会できるかもしれない。再び共に戦い……、原初の闇を討つことが可能になる――ゼノの胸に熱い決意が芽生える。


「よし、まずは情報収集だ。街の噂、依頼、集まる冒険者たちの動向……全てを目に焼き付ける」


ゼノは決意を胸に、街の雑踏へと足を踏み出した。その瞳には、再会する勇者との邂逅、そして原初の闇に立ち向かう未来への覚悟が光っていた。

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