第3話 目覚め

セルドニア大陸 黒暦二百八年。


目は、ゆっくりと覚めた。 まぶたの奥に、光がにじみこんでくる。まだ視界はぼやけているが、すぐに二つの人影が目に映った。ひとりは男性、もうひとりは女性。二人とも、こちらをじっと見つめている。


(ここは……どこだ?)


だが、それ以上に胸の奥を掻きむしるような感覚があった。何か……そう、何か大切なことを忘れているような気がする。喉の奥に引っかかっているのに、思い出せない。


やがて、次第に視界がはっきりしてくる。木造の天井、簡素だが清潔な部屋。どうやら私はベッドに寝かされているようだ。


そして目の前に立つ男性と女性。二人は涙を浮かべるような笑顔を浮かべ、言葉にならない声で何度も話しかけてくる。


「……おお、目を覚ましたぞ!」


「アーサー……アーサー! 私たちの可愛い子!」


(アーサー?……俺の名前は……)


まだ状況が掴めず、無意識に右手で目をこすった。――そのとき、気づいた。


(……小さい?)


私の右手は、信じられないほど小さかった。子供の手。それも赤子に近いほどのサイズだ。


「!!!!」


衝撃とともに、失われていた記憶が一気に蘇る。

――魔王との死闘。

――戦いの最中、突如として現れた正体不明の闇。

――抗う間もなく叩き伏せられ、瀕死に追い込まれたあの日。

――そして、魔王ザギオンが最後に告げた言葉。


百年後に転生させる。原初の闇を討て!そのために全てを越えろ!――。


(……そうか……俺は……転生したのか……!)


全身に雷が走るような衝撃と共に、闘志が燃え上がる。幼子の肉体であろうと関係ない。胸の奥から、確かな怒りと誓いが湧き上がってくる。


「……ゆ、許せない……原初の闇だけは……絶対に許さない!」


声は掠れ、幼子の口からは意味を成さない呻きのような音しか出ない。だが、それでも叫んだ。魂ごと震わせて。


しかし、両親らしき二人には、ただの赤子の泣き声にしか聞こえなかったのだろう。微笑みながら、優しい言葉をかけてくる。


「ふふっ……元気な子ね」


「大丈夫だ、アーサー。お前はきっと強く育つ」


――その瞬間、私は思い出す。


(……強く? そうだ。魔王が言っていたな……“生まれた瞬間から鍛えろ”と……)


赤子の体であっても、できることはある。 闇に屈するつもりなど毛頭ない。

私は決意と共に体をうつぶせにし、小さな両腕でベッドを押し始めた。


「ふんっ……!」


――赤子の力でできるはずもない腕立て伏せ。それでも、やらずにはいられなかった。


両親は目を丸くし、口をあんぐりと開ける。


「な、なにをしているんだ……!? 赤ん坊が……腕立てを……?」


「ま、まさか天才……!? いいえ……これは……」


呆然と見守る二人をよそに、私は必死に腕を動かし続けた。


――――


――そして時は流れ、六年が経つ。


私は今、アーサー・ソードハートとして生きている。 村のはずれに暮らす木こりの息子だ。だが、その正体は百年前に魔王と共に原初の闇と戦い、敗れた勇者ルシエル。

現在六歳。だが、幼子らしいあどけなさはとうに消え失せていた。 日々体を鍛えることに、誰よりも執念を燃やしているからだ。


「はぁっ……はぁっ……!」


朝日が昇る前に村を飛び出し、森を駆け抜ける。

走る距離は…一日二百キロ。

六歳の体では到底不可能だ。

だが、私は己を誤魔化さなかった。


その後は腕立て伏せ千回、腹筋千回、背筋千回、スクワット千回。 そして木刀を握り、素振り千回。

休む間もなく、瞼を閉じては心の中で原初の闇を思い浮かべ、想像の中で剣を交わす。


「この程度か、闇……!」


イメージであっても一太刀一太刀を本気で振り抜く。


さらに知識も鍛える。 書物を読み、大陸の情勢を学ぶ。百年の時を経て、世界は大きく変わっていた。

かつて存在しなかった魔法技術、新たに生まれたスキル。時代が進化した分だけ、私も強くならねばならない。


(原初の闇に打ち勝つには、すべてを超えなければならない……!)


村人たちは、そんな幼い私を遠巻きに見て囁く。


「あの子……本当に六歳なのか……?」


「目が……普通の子じゃない。まるで戦士の目だ……」


両親でさえ、時折不安げな顔をして見つめてくる。


「アーサー……どうしてそこまで自分を追い込むんだ……?」


だが私は、ただ笑って答える。


「……鍛えなきゃいけないんだ」


真実を明かすことはできない。だが、胸の奥で燃える誓いは揺るがない。

――冒険者になれるのは十六歳から。 あと十年。この十年、死ぬほど自分を鍛え続ける。


――――


セルドニア大陸――。 その中央には「ゼド山脈」と呼ばれる巨大な山脈が縦断している。

山脈を境に、西には魔族、東には人族が暮らし、さらに深き森の奥には獣人族が住まう。獣人族は人の地にも魔の地にも姿を現す、気まぐれな存在だ。

また、エルフやドワーフといった種族も存在しており、多くは人族と共に暮らしている。 ただし、魔族の地で生まれ育ったエルフは、やがて「ダークエルフ」となる。これはセルドニア大陸の常識であった。


だが――。 数十年前から大陸の均衡を揺るがす異変が起きていた。

魔大陸の最西端。そこから「謎の勢力」が、ゆっくりと、しかし確実に、侵食するかのように勢力を拡大していたのである。


「……原初の闇の勢力に、間違いない」


悔しげに呟いたのは、一人の少年――アーサーである。


かつて存在したはずの王国は滅び、逆に知らぬ国が新たに生まれている。東西南北には「ガーディアン」と呼ばれる未知の敵が存在し、周囲は通行不可能な領域と化している。


だが、そんなものに時間を割く余裕はない。


「これは……無視だな。今は鍛えることが先決だ」


アーサーには、己の目指すべき道があった。

――現在、百のスキルを保有している。

――だが同時発動できるのは、わずか五つまで。しかも低レベル限定。


「最終的には二百のスキルと二百の技! そして同時発動五十! 魔王ザギオン……この機会を与えてくれたこと、感謝してやるよ!」


彼の執念は、日々の鍛錬に現れていた。 雨が降ろうが、雪が降ろうが、雷鳴が轟こうが、雹が降ろうが、台風が来ようが、決して鍛錬を休むことはなかった。


手首、足首、背中には、それぞれ数十キロはある砂袋を巻き付ける。強くなること以外に興味を示さない姿は、もはや執念の塊。


さらに、スキルの合成にも挑み続けた。 昨日も「火魔法防御」「風魔法防御」「雷魔法防御」の三つを組み合わせる実験に取り組んでいた。


「これが成功すれば……さらに水魔法防御と土魔法防御を合成し、五属性完全防御のスキルを生み出せるはず」


アーサーの毎日は挑戦であり、戦いそのものだった。


――――


そして――ついに十六歳の誕生日を迎えた。

その日。アーサーは、長年かけてようやく手に入れた装備を身につけていた。

身に着けるのはライトアーマーと一本の剣。木こりの手伝いや薪割りで稼いだ銅貨を、菓子ひとつも我慢して積み重ねて買ったものだ。


「やっと……俺のものになったんだな」


その装備は、努力と決意の証。アーサーは誇らしげに鎧を締め直し、剣を腰に差して、冒険者ギルドのある街へと出発した。


道中は快適そのものだった。歩いておよそ一時間ほど。走ればもっと早いのだが、今日はゆっくり歩くことにした。


「ふぅ……今日は記念日だからな。のんびり、のんびり」


そんな独り言を呟きながら、彼は街へと到着する。


都市ガレリア――


そこはアーサーの家から最も近く、そして最も大きな都市だった。 人口はおよそ千五百――だが、実際に足を踏み入れてみると、その数字以上の熱気を感じる。


石畳の通りには、所狭しと出店が並び、焼き立てのパンや肉串の香ばしい匂い、果実酒の甘い香りが入り混じって漂っていた。


「安いよ安いよ! 本日の特売だ!」


「焼き立てだよ、今なら二つで銅貨一枚だ!」


威勢のいい声が飛び交い、子どもたちが駆け回り、商人たちの笑い声と客の値切り声が重なって、まるで祭りのような賑わいだ。


行き交う人々の肩がぶつかるたびに、「おっと、すまない!」「ああ、気にしないで!」と明るい笑い声が返ってくる。街全体が活力と喧騒に包まれていた。


「……うお、肉串! いや、いも焼きっぽいのもある! ……腹減ったな」


「お兄さん、買っていかない?」


「うっ……い、いや、今は節約だ! 冒険者登録が先!」


自制心を総動員し、アーサーは誘惑を振り切る。


街の一番奥に建っているのが、目的地――冒険者ギルドであった。

アーサーは扉を押し開け、中に足を踏み入れる。 中は意外にも静かで、数人の冒険者がカウンターで依頼を受けていた。彼は緊張しつつも、真っすぐ受付嬢の前に進み出る。


「十六歳になったので……冒険者になりに来ました! よろしくお願いします!」


胸を張って堂々と宣言するアーサー。 声がやけに大きくて、ギルドの中にいた冒険者たちがちらほら振り向いた。


「おい、あの坊主……元気だけはすげえな」


「いや、本人は本気っぽいぞ」


ざわつきをよそに、アーサーは腰に手を当て、まるで勇者の再来とでも言わんばかりの態度で立ち尽くす。


受付嬢は思わず吹き出しそうになりながらも、にこやかに微笑んだ。


「はい、ありがとうございます。では、こちらの用紙にお名前、住所、緊急連絡先、それと希望する職業をご記入くださいね」


「任せてください! 職業はもちろん剣士です! 剣士以外ありえませんから!」


勢いよく用紙を受け取り、すぐさま書き込み始める。 筆を握る手は迷いなく――いや、むしろ勢いだけで突っ走っている。


「はい! 終わりました!」


「わ、早いですね……」


受付嬢が目を丸くするより早く、アーサーは胸を張って書類を差し出した。


確認を終えると、受付嬢は説明用の紙を数枚取り出す。


「こちらが冒険者ランク制度と注意事項になります。とても大切なものなので、必ず目を通してくださいね」


「ふふん、任せてください! こういうの読むのは得意なんです!」


全然そんな雰囲気じゃないのに、妙に自信満々だ。 周囲からクスクス笑いが漏れる。


そして――受付嬢は小さなネックレスを取り出した。 中央には「F」と刻まれている。


「こちらが冒険者証です。首から下げておけば、一目でランクがわかるようになっています」


「おおっ……これが! 本物の冒険者の証……!」


胸が熱くなる。ようやく夢見た冒険者への第一歩を踏み出したのだ。


「依頼についてですが――基本的に、同ランクか一つ上のEランクまで受けることができます。ただし危険度も上がりますので、慎重に行動してくださいね」


「はい!」


「依頼は、あちらの掲示板に貼り出されています。最初は簡単な依頼をお勧めしますよ」


アーサーは掲示板に目を向ける。 そこには「薬草採取」「見張り」「人探し」といったFランクの依頼が並んでいた。


「……地味だなぁ」


少し上のランクを見ても「珍しい花を探せ」「山の頂上にある卵を取ってこい」など、正直ただの雑用に見える。


「……これを地道にこなさないと、ランクは上がらないってことか……」


溜め息を吐きながらも、彼は考える。


――だが、もし……別の方法があるとしたら?


「……ある。いや、これは……強引すぎる方法かもしれない。でも、絶対に効果はある!」


アーサーは拳を握りしめ、密かに決意を固めた。

新米冒険者アーサーの挑戦は、今まさに始まろうとしていた――


――――


方法は――至って簡単だった。


「レアモンスター、もしくは高レベルモンスターを狩ればいい。それだけだ」


アーサーは一人ニヤついている。都市ガレリアの周辺にもモンスターは出る。だが、せいぜいスライムやゴブリン、時々ウルフ程度。弱すぎて経験値にもならない。


「ここでウロウロしてても、時間の無駄だな」


十キロ離れたところに、ひとつのダンジョンがある。そこは危険度が跳ね上がる分、得られる経験も桁違い。 最短で冒険者ランクを駆け上がるなら、行き先は決まっている。


「ダンジョン一択だな。……よし、まずはサイクロプスで試してみるか。今の俺の限界を」


口元に笑みを浮かべ、アーサーは走り出した。 歩けば三時間の距離も、走れば一時間で着く。体を鍛えるついでにもってこいだ。


「ふっ……こういう時に限ってワクワクしてくるんだよな」


走りながら、アーサーは過去の冒険を思い出していた。 幾度となく挑んだダンジョン。 仲間と笑いあった日々。 そして――命を懸けて勝ち取った数々の勝利。


「経験は……宝だ。俺の血肉だ」


少年の目に、再び冒険者としての光が宿る。


――――


やがて、目的のダンジョンに到着した。 石造りの巨大な門がぽっかりと口を開け、黒い闇を覗かせている。


入口付近では数人の冒険者が集まっており、物々しい空気が漂っていた。


「おい、聞いたか? 第一階層にミノタウロスが出たらしい」


「マジかよ、なんでそんなのが迷い込んでんだ。あれ、本来は第五階層の住人だろ」


「言葉も通じねぇし、暴れっぱなしだとよ。死人も出たって噂だ」


険しい顔で話し合う彼らの声が、アーサーの耳に入ってくる。


「……ほう。第一階層にミノタウロス、か」


普通の冒険者なら顔を引きつらせるところだが、アーサーは口角を上げた。


「ふふっ……むしろ好都合だな。相手がミノタウロスなら、少しは体が温まる」


周囲の冒険者たちはざわめいた。


「おい坊主、本気で言ってんのか?」


「やめとけ、命がいくつあっても足りねぇぞ!」


「今入った奴らだって戻ってきてねぇんだ。遊びじゃねぇんだぞ!」


アーサーは笑みを浮かべたまま肩をすくめる。


「安心してくれ! 俺は遊びで来たわけじゃない。 強くなるために来たんだ」


そして、堂々とダンジョンの闇の中へと歩みを進める。 その背中に、冒険者たちは思わず息をのんだ。


「……あいつ、ただ者じゃねぇな」


「いや、ただのイカレ坊主だろ」


「どっちにしろ、目が離せねぇ」


こうして、アーサーの無謀な挑戦が幕を開けた。

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