第16話 一途
自分の気持ちなんて、どこにあるのだろう。
中学生の頃の僕は、それがあると信じていたのか。
ひとりの女性に恋をして、いた。
そうでもしていないと、いけない理由が、その頃にはあったのだろうか。
彼女の顔を見れただけで、嬉しくなってしまうような、そんな淡い恋心が、こんな僕にも、あったのだ。
僕と、彼女の間に交わした会話など、ほとんどなかったといっていい。
学校の生活の中で、ふいに交わる一瞬の視線。
そのひとつだけで、僕は、満足をしていたのだ。
今となっては、彼女の名前も思い出せない――否、思い出さないようにしているだけなのだ。
心の傷口を抉ることにならないように。
……側から見ていたクラスメイトは、僕と彼女のことについて、なにも知らなかっただろう。
僕と彼女は、別に、なにもなかったのだから。話しをすることも、二人でいることもなかった。
彼女が僕のことをどう思っているかは、知らない。だけれど、彼女が、僕を虜にしてしまったことだけは確かなことだった。
女心という繊細なものがあるならば、男心という繊細なものもある。そういうことでしか、ないのだ。
休み時間に、教室の窓枠から入ってくる彼女は、無茶苦茶だった。
教室の隅で、退屈な時間をやり過ごしていたのに、その時間をガラッと変えてしまった。
心臓のよくわからないところが、熱くなる。
なにもない、人生よりかは、よかったのかもしれない。
――過去の記憶を憶い出す。
ここは、どこなのだろう。
ここは、僕の脳内が作り出した、投影された世界か。
あの教室。
しかも、無人。
また、哲学哲子が、僕の前にいる。
「やっと、
僕は、他者のために生きていた気がする。
二度と戻らない、壊れたガラクタのような、使い物にならない存在になったのは、それが要因だといえる。
――オダラデク。
まさに、僕の名前としては、適当だ。
彼女のために生きていたといえば聞こえはいいが、結局、僕は、
本来の名前は、ごく普通、一般的なものだった。
「ガラクタだからって、役に立たないとは限らないじゃない。職人からしたら、ガラクタの山が、宝の山のように見えることもあるでしょう。要は、どうやってそれを活かすかよ。使い方次第、考えて作り出す能力、それによって、ガラクタは、役に立つ。そうは、思わないかしら。世の中の役に立ちたいなんていう若者が、未だに多いけれど、仕事の本質が――たとえそれがうしろめたいことであろうとも――人の役に立つことなのだから。貴方、自分のことを、なにもわかっていないわよ。貴方が、したことは、貴方を助けはしなかった。貴方は、もっと、自分のために生きてよかったのよ。他者のために生きる必要はなかった。恋人のために、自己犠牲する必要なんて、なかったのよ。所詮、個人の自由を守るための、力と力のぶつかり合い。相手を思いやって、自分が相手の迷惑にならないように行動する必要なんてなかったの。それを繰り返した末路が、いまの貴方なのだから。なんで、そんなことになっているのよ。貴方ばかりが、損な役回りをする必要なんてなかったじゃない。人ってのはね、自分が一番大事なの、自分が一番かわいいの。それを貴方は、自己犠牲によって、そんな美徳に殺されたようなものじゃない。心も、体も、蝕まれて、そんなの、私、見ていられないわよ」
彼女は、そう、言った。
なにより、理屈や、哲学を重んじる哲学哲子。まさか、僕の身を案じてくれたのだろうか。
そのままだと、オダラデクより、さらに惨たらしい姿になってしまうのだと。
それは、別に構わないではないか。
僕は、僕が傷つく分には構わない。
「――心が、満たされないじゃない」
彼女は、真っ直ぐに見つめてくる。
「そんなんじゃ、貴方の心が、満たされないじゃない。私は、貴方のことなんてなにもしらない。でもね、なんでも、あそこまで必死になって頑張って、彼女を助けてきた貴方が、こんな目に遭わないといけないわけ? それが、納得いかない。哲学的にも、人情的にも、納得いかないのよ。頑張った人が、報われない世の中なんて、間違っているわ。そんな貴方に、いっぱい気持ちよく、なってほしいの」
――いっぱい気持ちよく?
彼女がなにを言っているのか、よくわからない。
気持ちよくなるなんてことが、僕にできるのか。
「哲学さん。この前、できることをやるしかないって言葉があると言っていたよね。あれって、できると『思う』ことをやるしかないということなんだと思うんだ。人は、できると思えることしか、やろうとしない。そもそも、できないんだ。そういう意味でいえば、人生は、
「つまり?」
「気持ちよくなれると思えない僕は、気持ちよくなれないってことだよ」
そんな当たり前のことを、意味のないことを、意味のあることのように、言ってみせた。
「なるほど。哲学ね」
彼女は、なぜか、納得したように腕組みをして頷いている。
……ふと、この人は、なぜこんなにも哲学に拘るのだろう。そんな疑問が湧いてきた。
「それで? その中学生のころ好きだった彼女について教えてくれるかしら」
あのマシンガントーク哲子が、珍しく聞き役に回っている。どうやら、それくらい、この話しの続きを聞きたいようだ。人の、恋話に興味がある質か。
「そうだね。でも、これ以上、話すようなことはないよ。珍しく興味津々に聞いてくれるところ悪いけれどね」
「嘘」
――まだ、続きはあるんでしょう?
とでも言うかのような、圧を感じた。
「他の誰でもない君が、そういうなら、オダラデクの僕は、話しを続けるしかないけれど――」
「それも嘘。貴方はオダラデクではない。ごく普通の平凡な学生よ。さあ、続けて」
「……」
――まさか、自分が特別な人間だと思い上がっていたんじゃないでしょうね? とでも言いたげだ。
ああ、そうだ。
だって、僕にとって、なにより僕が特別なんだから。
「彼女より、特別なのかしら?」
「……」
そんなこと、答えられるわけがないじゃないか。
「私よりも?」
僕の幻想で作り出された哲子哲子は、そう言った。
彼女は、こんなにも美しい。
なにせ、僕の中学生時代の、憶い出。
世界一、美しいのは当然だろう。
だって、哲学哲子は、彼女を模倣した姿なのだから。
この世界は――魔法によるもの――つまり、僕の憶い出を具現化することによって作られた、理想郷なのだ。
毎日が、無人の、教室から始まるのはそういうことだ。
中学生の頃、僕は、ひとりの女の子に恋をしていた。
それを、肯定してくれる人を、脳内が作り出した。
まさに、魔法の領域で。
現実と区別がつかないくらいの、完成度で。
要するに。
運命の女の子――それが、哲学哲子であり、彼女だった。それも、僕が、勝手に思っていただけのことかもしれないけれど。
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