第17話 壊れた世界
壊れた世界で、君がいた。
中学時代、彼女は、泣いていた。
僕は、一生懸命になって、いた。
掲示板に、
馬鹿みたいに、熱血で、恋愛体質で、ひとつのことで頭の中がいっぱいになってしまう愚かな僕は、彼女が喜んでくれるのが嬉しくて、なんでもした。
――君って面白いね。
誰かが言った。
誰だっただろう。彼女は、その時、不登校だったから、違う生徒が言ったのか。
周りには、どう思われていたのだろう。
不条理とか、納得のいかない公平とか、そういうのが、嫌いだった。
痛みなら。いつも、あったはずだろう。学生であれば、傷は深く、もう後戻りできないくらいに、今でいっぱいいっぱいで、切羽詰まっていて、何もかもが、終わっていた。
その中で、やっと、僕は、真実らしきものを見つけた。
真実の愛。
真実の恋愛。
一方的なもの。
何の意味のないもの。
独りよがりなもの。偽善。
それを拠り所にして、生きていた。
馬鹿の一つ覚えみたいに、生きていた。
周りのように、器用には生きられないのだから。
仕方ない。
僕は、もう、どうしようもないくらいに――
「僕は、恋をしていた」
白状する。
教室で。
彼女の前で。
「素直に、なったんだね」
そう言って、沈黙が続く。
やがて、無人の教室で、彼女は堰を切ったように話し始めた。
愚かな僕を諭すように。
「善意は一回ポッキリならいいんだけれどね。それが、当たり前になると、善意でやったことなのに、見返りを求めるようになる。いつもお金を貸していた人が、善意で貸していたとしても、借りた人からしたらそれが当たり前になっていることはしばしばある事例よね。借りるのが当たり前なのに、次に借りれないとわかると、怒り出す人だっているくらいよ。まるで、自分は悪いことをしていないとでもいうかのように。つまりね、善意ってのは、歪なのよ。人間と人間の関係を狂わせる。貴方と、その彼女との関係のように。善意を貴方は押し付けていたのよ。見返りは求めていないつもりでも、どこか、優位性を感じていたのではないかしら。その均衡が崩れた時、貴方の中のなにかに整合性が取れなくなってしまった」
「……」
なんでも、哲学哲子は、お見通しのようだった。
それも当然だ。
なにせ、彼女は、僕が作り出した空想の産物なのだから。僕のことを、よく知っているのは、そのためだ。
「どうかしら? 当たっているでしょう? 貴方は、彼女への恋心を抱きながら、無償の愛と呼べるものを注いでいた。『見返りはいらないから』と言って。彼女に尽くしてきた。貴方自身も、その純朴さに酔いしれていたのではないかしら。
「……そうだ」
ただ、僕が使い物にならなくなったのは、僕自身の責任だと思う。誰かのせいにしたり、恨んだりする必要はない。
「なぜ貴方は壊れたのかしら。なにがあったのかしら?」
「なんにもないよ」
「そう」
素っ気ない、彼女だった。
哲学哲子にとって、感心があることは、哲学だけだ。
本質そのものにしか、興味がない。
僕はただ、教室の窓から外の淡い紫色の夕日を観ている。ずっと彼女と、こうしていたかった。
まるで、青春みたいなことを、一度はしてみたかった。
それだけだったのだ。
僕は、誰のことも、責めていない。
裏切られてもいない。
だから、もう、いいだろう。
なにもしなくて、この空を、彼女と眺めていたい。
「貴方は、なにも悪くない」
「ありがとう。彼女も悪くない」
「――ごめんね」
彼女から、そんな言葉を聞きたくなかった。
言葉は、刃にもなる。それで人を傷つけることもある。だから、なにが『ごめんね』なのかわからないのに、そんなことを言ってほしくなかった。
まるで、僕の運命の女の子の代わりをしている。
やはり、哲学哲子は――僕の空想だ。
「君のいう通りだ。僕は、自分の善意を最愛の人に押し付けていたのだと思う。見返りはいらないとは言っても、どこかで、その人に――期待をしていた。人に期待しないってセリフは、自己防衛のためだったんだ。人に期待しなければ、裏切られることもない。そう、僕は、信じていたからね。でも――恋というのは、期待なしでは、成り立たない。期待しない恋なんてものは、もはや、なにもないのと同じことだと」
「――だから、貴方は、本当の恋をしたのよね。見返りを期待をする本当の恋を。でもね。あれは、恋と言い表わすには、切実過ぎたように思うわ」
「まあ、そうだろうね」と僕は頷く。
いつの間にか、哲学哲子は、中学生の頃に恋をしていた
やはり、彼女は――美しかった。
「……」
ただ、そこにいるだけ。
それだけで、全てが満たされてしまう魔性。
彼女は、僕は何の関係もなかった。
人間関係のほとんどがそうであるように。
「はあ。好きとか嫌いとか、まじでどうでもいい……」
彼女の第一声はそれだった。
いや、それは、僕が作り出した彼女の言葉だ。
やっと、なにかから解放されたように、体を弛緩させて伸びをする。
その姿は、野良猫のように気ままで、あまりにも自然で、不自然な僕は、蚊帳の外にいるかのようだった。
「……あの、なんで」
「なんで、私がここにいるかって? そんなの決まっているじゃない。
彼女は、僕の目を一度見ないままそう言った。
あらかじめ決められたセリフを淡々と読み上げるように、まるで、隣りにいる生徒なんて相手にしていないかのように冷たかった。
冷淡。
その言葉が似合う女の子。
容姿は、僕が中学生の頃の
運命の女の子だなんて、そんなの信じている男はどうかしているとしか言いようがないけれど。
とにかく、もう一度、彼女に出会えたことが嬉しかった。
いや、そこまで、嬉しくなかった。
だって、彼女の態度があまりにも冷たくて、そして、その原因が、僕自身の心によるものだと、わかっていたからだ。
そう。恋人に会えて嬉しかった時のような、心臓部の鼓動が全くしなかった。ドキドキという擬音がない。
心が離れるというのか、心の底から冷え切っているようだ。
なぜだろう。
彼女は、僕にとって大切な存在であったはずなのに。
「――彼女は、貴方に感謝をしていたわよ」
なんの感情もない声音で、彼女は呟いた。
感謝。それは、最大級の見返りだ。
それを求めて、しまった。
その言葉の意味を、知らない当時の僕は、彼女以上に、彼女に感謝していたというのに。
彼女は、窓の外の、紫色の雲が黒に染まるのを見ていた。ようやく、斜陽が終わるのだろう。
僕も、そちらを見て、ただ「うん。知ってる」と応えることしかできないでいた。
当時の記憶。
教室の窓から見えるこの空を見上げながら、不登校の彼女のことを待っていた。
あまりにも美しい色の雲で、驚いたまま。そんな時間を、永遠のように果てしなく感慨に耽りながらも、願っていた。
彼女が、どうか幸せでありますように。
壊れた世界で、僕は、ひとりぼっちだった。
こんな気持ちを共有できる仲間はいない。
作り上げられるのは、空想で構築した世界だけで。形として、残るものは、なにひとつなかった。
残ったと言えたとしても、それは惨めな痛みだ。
誰にも共感されることのない、あの孤独だけだ。
それで、よかったのだと思う。
薄い夜空に白い月が浮かぶ。
――そうだ。
僕は、月に吠えていた。
負け犬のように、惨めに、不条理で不都合な、誰かにとって都合のいい世界の全てに吠えるように。
祈っていた。
「僕が不幸になっても構いません。あの子だけは、幸せにしてください」
見惚れる月を、神様に見立てなかがら、中学生の僕は祈っていた。
結果、僕は不幸になり、彼女は幸せになった。
「幸せになったって、つまり、それは――」
彼女は、含み笑いを浮かべている。
言わずもがな。
つまりは、そういうことだ。
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