第一章 キオクのカケラ
夜の水族館は、いつも少し冷たくて、静かでした。
その静けさは、まるで時間までも眠っているかのようでした。
水族館の中央には、大きな硝子の水槽がひとつ、ぽつんと置かれています。
けれど、泳いでいるのは魚ではありません。
ゆらゆらと漂っているのは、誰かが見た夢や、叶わなかった願い。
そんなものたちが、淡く光る欠片となって、水の中を彷徨っています。
水槽のそばに、一人の少女が座っていました。
顔には、名もなき花が咲いています。
彼女は両手で、ひとつの瓶に光のかけらを丁寧に収めていました。
それが、なんの光なのかはわかりません。
どこから来たのかも、なぜここにあるのかも。
けれどその光を見つめていると、胸の奥がかすかに温かくなったり、
またある時はちくりと痛くなったりするのでした。
その感覚は、懐かしさにも似ていて、
まるで、どこかで出会ったことがあるような、それは誰かであるような錯覚を覚えさせました。
集められた光たちは、"キオク"と名づけられました。
誰のものだったかもわからない。
けれど確かに、かつて誰かがここにいて、なにかを想っていた——
そんな証を、ひっそりと心の中に伝えてくれました。
少女はよく考えていました。
この光は、偶然現れたのか。
それともわたしの想像が生み出した幻なのか。
けれど彼女には、それを確かめるすべがありませんでした。
彼女には、ここがどこにあるのかもわかりません。
現実なのか、夢なのか、
それとも、誰かが作り出した仮想空間なのかも。
何もかもがぼやけていて、ただ光だけが確かでした。
指先に触れたときの、ひやりとした感触。
そして、何も語らずとも伝わってくる「誰かの気配」。
それだけが、彼女を支えていました。
ある晩のこと。
水族館にひとりの少年が訪れました。
青い瞳を持つ少年。
声を持たない彼は、ゆっくりと水槽の前まで歩き、そこで立ち止まりました。
彼は、ずっと黙って水槽の中を見つめていました。
そして、しばらくしてから、ほんのわずかに息を吸い、
ひとつの瓶の光を、そっと指差しました。
それは、少女が最初に見つけた光。
「さよなら」と言えなかった、誰かのキオク。
そのとき、瓶の中の光がふわりと揺れ、
少女の花がすこしだけ、やわらかく香りました。
──あなたも、この光が見える?
声にはならなかったけれど、少女のまなざしが、そう問いかけていました。
少年はやはり何も言いませんでしたが、ほんの少しだけ、頷いたようにも見えました。
この夜を境に、彼らは水族館のなかを歩きはじめました。
冷たい床に散らばる、キオクのカケラをひとつずつ拾い、
また新しい瓶にそっと封じていきます。
それが、旅のはじまりでした。
カケラを拾い集めて、
それを誰に届けるでもなく、納めていく旅。
誰もいないはずだった世界。
けれど、ここにはまだ、何かが残っている気がしました。
思い出なのか、痛みなのか、それとも名もなき者たちの最後の願いなのか。
わからないまま、彼らは光を集めつづけていました。
ただ、心のどこかで確かに感じていました。
瓶のなかに灯る光は、まるで自分自身の内側にもかつてあったようだと。
水族館の奥には、まだ誰も開けたことのない扉がありました。
その先に広がるのは、失われた世界の残響。
あるいは、ふたりがこれから出会う、まだ知らない想い。
旅は、始まったばかり。
夢の中へ @chimovtuber
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