死にたきゃ死ねよ、愚図共が。
小坂あと
第一夜
縄で円を描く。
ギ、ギ、ギ。
古びた床の板が軋み、置かれた椅子の鉄は錆び、天井からは地獄へ続く蜘蛛の糸がぶら下がる。
ここを通れば、楽になる。
こんなクソみたいな世界とは、おさらばだ。
信じきって、頼みの綱へ向かい、お辞儀をした。
手先から、冷えていく。
藻掻き、暴れ狂う本能の片隅で、願う行く末はただひとつ。
切望へと、意識を手放した。
『どうも〜』
はずだ。
『死に損ないの皆様へ』
無機質な音声が、天井の四隅に配置されたスピーカーから大音量で流れ、鼓膜が破れそうなほどの圧に思わず耳を塞ぐ。
『私から、無慈悲な愛のプレゼントを』
それなのに、手のひらをすり抜けて脳に届く。
「なんなのよ……どこなのよ!ここは!」
灰色のコンクリートに囲まれた部屋の中、何人も集められたうちのひとり――だらしない体型の不潔な女が叫ぶ。
異臭する唾液を撒き散らしながら錯乱する女に、全員が嫌悪と迫害で顔を歪める中、加工された音声だけは呑気にも続いた。
『死にたい方は、左のドア。生きたい方は右のドアへお進みください〜』
静寂が訪れた後で、ガコンという振動音が響き、音のする方向に目をやればいつの間にか扉が現れる。
生と死。
白と黒。
天使と悪魔。
主な特徴は三つだけ。
扉は、異様にも静かに佇んでいる。
「なによ!こんなの、ひとつに決まってるじゃない!」
女が叫び散らかしながら、“死”の部屋を開け、様子も伺わず飛び込む。
瞬間、部屋の向こうからは目も開けていられないほどの炎が燃え盛り、劈くような悲鳴が室内を満たした。
「熱い、あづい!あづぃいい」
どれだけの高温で熱されたのか、たったの数秒しか滞在していなかったにも関わらず、爛れた皮膚と猛烈な焦げたにおいを連れて女がこちらの部屋へ戻ってきた。
牛ステーキのような香りが漂う。体格的には、豚か。
見るからに、もう間に合わないと察するほどの重症で、呼吸した時に吸い込んだ空気の影響か、喉が潰れ掠れた呼吸音が痛々しく乱れ、次第に弱々しくなっていく。
「たすけ……だ、すげ、て」
ジタバタと苦しみ、全身に火傷を負った状態で命を落とした女の姿を目の当たりにして、その場にいた者たちは皆“生”の扉へ走った。
いくらなんでもあんな死に方は嫌だ、と。逃げるように、もう一つの扉に縋りついた。
『あれれぇ〜?ひとりだけ、ですか』
落胆と疑念が入り混じった吐息が聞こえ、『まぁいいか』と切り替えた男か女かも判断のつかない声は、次もまた選択肢を差し出す。
『死にたい方は赤のボタン。生きたい方は青のボタンを押してください〜』
同じくコンクリート詰めの部屋。中央の床から現れたのは赤と青の押しボタン。
今度は、誰ひとりとして動かない。――動けなかった。
死を選べば、確実に死ねる。しかし、どんな死に方か分からない以上、恐怖で足が竦む。
「こ、ここ、これ、これは、どう死ぬんですか」
眼鏡をかけた、いかにも根暗そうな男が口の端に泡を浮かべながら、おそらく全員が知りたいであろう疑問を口にしてくれた。
『それは〜……押してからの、お楽しみ〜』
しかし、無意味に終わる。
教える気はないようで、挑発にも近い生意気な声が響くと、「クソ!」と眼鏡が悪態をつく。
「誰か押せよ!」
他力本願に、叫ぶ。当然、自ら動き出す者はいない。
「お……おま、お前!」
「えっ。私……?」
「そうだ!お前、押せ!」
「なんで私なのよ!あんたが押せばいいでしょ」
ガリガリにやせ細った、いかにもか弱そうな女を狙って指示した眼鏡は、口論の末に女の髪をわし掴み、無理やり中心へと引きずっていった。
「痛い!離して!離しなさいよ」
「いいから、押せ」
ボタンが設置された灰色の角に、頭を打ちつけられる。
赤い血が飛び散り、見ていられなくて瞼を閉じ、顔を逸らした。その間も、ゴツン、ゴツンと鈍い音は止まらない。
あんな筋力のない眼鏡でさえ太刀打ちできない女という性別の非力さを、嫌な形で見せつけられた気がして胸糞悪い。
「わが……った。押します!押します、から!ゆるじでください」
抵抗する気力もなくした女が降参して、赤のボタンを叩いた。
「かはっ…」
壁の一部が開き、目にも止まらぬ速さで飛んできた何かが、女の額に直撃する。
目玉が飛び出そうなほど見開き、後ろへバタリと倒れた彼女の表情は、意外にも穏やかな笑みを浮かべていた。刺さっていたのは、注射器だった。
毒死――?
「はっ、なんだ。たいしたことないじゃねえか。これだから女は……大袈裟に嫌がりやがって。女なんかみんなクソ!死ねばいいんだ!ひゃはは!」
苦しまずに死ねるなら。言わずとも滲み出た態度で口を吊り上げ、眼鏡も赤のボタンに手をかける。
また、おそらく注射器であろう高速の物体が一直線に飛び、弧を描くことなく眼鏡を貫通して眼球の奥にまで突き進む。
比較的、楽な死に方だと。羨ましく眺めた。
「ぅう……っが。あっ……?」
自分も押そうかと悩んだ時、眼鏡の容態が急変した。
先ほどの注射器とは中身が違うのか、水ぶくれのように顔全体が膨れ上がり、瞼も瞳を潰す勢いで腫れていく。
咳き込むたびに血を吹き出し、うっ血して紫色に染まる手は救済を求めて自分達に伸びた。が、助ける人間はいない。いるはずがない。
何分も、生きた状態で床の上を転がり回っては吐瀉物をぶち撒け、ついには糞尿まで垂れ流し、息の根が止まる時にはもう原型を留めないほど赤黒く、風船のようにパンパンに皮膚を伸ばした眼鏡の絶命を、絶句して見下ろす。
あんな死に方、したくない。
自分と同じことを考えたんだろう、他も青のボタンを選んだ。
視界の先に、次の部屋へ繋がるであろう扉が出現する。
『な〜んだ〜。今回はふたりだけ。みんな死ぬつもりある〜?』
新しい部屋には、すでにテーブルと、その上にコップがふたつ並べられていた。
『死にたい方は、透明のコップ。生きたい方は黒いコップを選んでね〜』
まさか、これがずっと続くのか……?
死ぬまで?
説明もなしに始まったデスゲーム。三つ目ともなれば、慣れる――あるいは、疲弊する者も出てきていた。自分も例外なく、疲れを感じ始めていた。
だからだろう。ふたつ目の部屋とは違い、すんなりと動く人間がいた。
「俺はもう……生きたくねえんだ」
金髪で、まだまだ若そうな青年だった。
顔もイケメン、身長も高く、おそらく女にも困らなければ、身に着けているブランド物のジャージから金にも困っていないことが伺える。
あんなやつでも、死にたいのか……?
どうして?
「待っててね、――ちゃん」
誰かの名前を囁いたが、声が小さすぎて聞き取れなかった。
迷いなく透明のコップを口に含み、一気に飲み干した金髪男は、喉元を強く押さえた。
「ぁ、が。い、いでえ……ぃだ、い」
症状的に、硫酸。
皮膚が溶けていく様を見届けられず、悲鳴すらも上げられない痛みを伴う静寂の死を、彼が楽になるまで待った。
これまでに比べたら、苦しまないのかもしれない。
ただ、あれは……顎が溶け落ち、せっかくのイケメンが台無しだ。ただの骸骨へと腐れ落ちたところを見てしまったら、選べなかった。
ひとりだけ後を追って死んだ女がいて、それ以外は黒いコップを選んだ。苦く、まずい味がした。
残るは、俺を含めて三人となった。
ひとりは可憐な美少女で、さっきのイケメン同様、なんでここにいるのか分からない。……多分、ここは自殺願望者が集められる場所だから。
もうひとりは、影の薄い前髪の長い男。
そして、俺。ごく普通のサラリーマン――見た目だけは。
『うんうん。いいね〜、いいよ〜。順調に減ってるね〜』
四つ目の部屋は、これまでと違って随分と良心的だった。
『死にたい方は、右の穴。生きたい方は左の穴へ〜、ジャーンプ』
確実に死ねて、なおかつ現実世界でもありえる死に方。飛び降り。
「どうせ、僕は……僕なんて、誰も…僕は、僕は、僕は…ぁ!」
これなら俺でも死ねるかもしれない。一歩踏み込んだら、先に前髪の長い男が飛び降りてしまった。
しかし待てど暮らせど、予想していた音がしない。
そんなに深いのか……?と気になって中を覗くと、
「ひぃいい、やだ!やめて!やめて、やめて」
薄暗くて目を凝らしてもはっきりとは見えないが、蠢く虫達が全身を蝕んでいるのは分かった。
肌が泡立つ不快感に襲われ、左の穴へ飛び込む。女も虫は嫌ったのか、俺の後に続いた。
『あとふたりっ。あとふたりっ』
柔らかなマットにぶち当たると、興奮を抑えられない声が響き渡った。
『死にたい方は、右の縄。生きたい方は、左の縄を選べ。これが最後の選択肢だ』
最後……?
これで、終わる。ようやく、死ねるんだ。
それも、首吊り。
俺が最初にやろうとしてた、死に方。
何かの運命かと、本気で歓喜した。ここまで死んでこなくてよかった。耐え抜いてよかった。
生きてて、よかった。
やはり、俺が選んだものに間違いは――
ギ、ギ、ギ……。
「へ……?」
喜んでいる隙に、右の縄は人で埋まった。
ぶら下がった女は、生きている頃の美しさをあっという間に失い、血に濡れた白目からは涙が溢れ、鼻水、涎までも。穴という穴から体液を滴り落とす。
人間が本来持つ舌の長さが、どのくらいのものなのか。こんな形で知ることになるなんて。
「お……おい、ふざけんな!その死に方は俺の……どけ!どけよ」
縄から外そうにも、ひとり分の重さを持ち上げられるほど怪力ではなく、ただ無力に死に場所が奪われていくのを呆然と見上げる。
そのうち、もうひとつ降りてくるんじゃ……?期待を込めて重力に負けた死体と待つが、いっこうに死の縄は空かず、生の縄が俺のことを待っている。
待てど暮らせど。
諦めて、左へと進んだ。
俺が首を通して体重をかけると、いとも容易く縄は千切れ、虚しくも着地する。
地面の感覚が、やけにはっきりと伝わった。
『なんで生きてんだよ』
それまで軽薄だった声が、責め立てる低さへ変わる。
『こんだけ死に方、用意してやったのにさ〜!なんで死んでねえの!死なねえの?死にたいんじゃなかったの?なにしてんの?』
分かってるよ。
俺だって、生き残りたくなかったよ。
『死ぬ気ないなら、自殺なんかしてんじゃねえぞ!この意気地なしの無能がよ!』
自覚あることを、傷口を抉るように怒鳴られる。
『死ねないならおとなしく生きてろ、カス!この愚図!もう二度とすんな、ボケ!失せろ!消えろ!永遠に〜、さようなら〜!』
そうして、俺は解放された。
金も愛も、救いもない世界に放たれる。
こんなことになるなら、あの時に死んでおけばよかったと、後悔してもしきれない。
それなのに、どうしてか。
「生きてて……よかったぁー」
心の底から、安堵してしまうのだ。
炎や硫酸で死んだ彼らの断末魔がまだ耳に残るのに、空は何事もなかったように青かった。
人間の醜さを垣間見た後だからか。
世界の美しさに、感動した。
「はっ……はは!クソったれ!」
さっきから、笑いと涙が止まらない。
たしかにこれは、無慈悲な愛のプレゼントだ。
死にたきゃ死ねよ、愚図共が。 小坂あと @kosaka_ato
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